薄氷の砦

3.憧憬と焦燥

 人気のないところで唇を重ねる間柄とはいえ、それ以外二人の関係の何が変わったわけでもなく、椋と透夜はいつも通り友人としての日々を過ごしていた。
 変わり映えのしない日常。変わり映えのしない学校。そして変わり映えのしない関係。
 青春真っ盛りの学生としては面白味がないと言われそうなほどに、二人の日々に変化はなかった。安定した平穏な日常は、時折平和そのものに倦みそうになるほど健やかだ。
 この関係が壊れることなど考えられもしない、失うことなどありえないと、無邪気に信じていられるほどに彼らはまだ幼く、それが許される年頃だった。
 他の部員はそれぞれ掛け持ちの部活や他の用事で出払っている美術室に、椋と透夜はいつものように二人きりだった。
「次はどんな作品にするの?」
「んー」
 椋の問いに、今日も今日とて文庫本を広げていた透夜は生返事をした。絵画を描くために同じく絵画を参考にするとインスパイアを通り越して盗作になると言って、透夜は絵のモチーフを普段から視覚情報とは関係のない分野からの発想で得ている。
 ある時は小説を読みながら、ある時は音楽を聞きながら、ふいに彼が筆を手にしてキャンバスに描く世界は、あまりにも幻想的で鮮やかだ。
 目に見えるものしか信じられない椋は、幼馴染のその感性に純粋に驚嘆を覚えるばかりだった。透夜の趣味とは正反対に椋の描く絵は極めて写実的だ。大人しやかな容貌の椋と凛々しい透夜ではしばしば見る者の印象が逆転することに、透夜の作風は常にファンタジックで、椋の描く絵はまるで写真のように精緻で現実的だ。
 お互いの方向性がまるで違いすぎるからか、互いの才能に嫉妬するようなこともこれまではなかった。ただ椋と透夜の間には、自分と相手がとにかく「ちがうもの」だという考えがあるだけだ。
 まったく異なる感性の持ち主だと互いを認識しながら、それでも相手だけは自分を絶対に裏切らないと無条件に信じていられる関係はまるでぬるま湯のように心地よい。
 透夜にとっての椋、椋にとっての透夜はそういう存在だった。
 何があっても、きっとお互いに自分だけは相手を見捨てない。そして相手もそうしてくれるだろうと。
「これとか」
「今読んでるの?」
 以前に本を読みながら椋にキスを求めてきた透夜は、またしても文庫本を手にしている。書店のブックカバーがかかっているために、椋が表題を知ることはできない。
「どんな内容?」
「秘密」
 この幼馴染がそういう返答をするときはたいていろくでもない本を読んでいたりするので、椋はそれ以上深く追求するのは止めた。どうせ詳細なあらすじを聞こうが率直な感想を聞こうが、椋にとって理解できない世界であることには変わりない。
 透夜が文学作品を読んでいる向かいで、椋自身は図鑑を広げていた。植物や雑貨は授業を含めてかなりの数を描いているが、自分から描こうとしなければ描く機会がなかなか得られないのが動物である。人間のモデルと違って一瞬もじっとしていてくれない彼らを描くに、まずは写真で勉強すべきだろうと、野鳥の図鑑を一冊図書室から拝借してきたところだった。
 途切れた会話がもたらす沈黙は決して不快なものではなく、陽に溶ける淡雪のような穏やかな静寂を堪能する。微かな呼吸に本の頁をめくる音と、窓の外の囁きのような雑音だけが二人きりの美術室を満たす。
 椋は透夜とこうして二人でいる時だけ、まるで世界から隔絶されているように感じる。重苦しくも悲壮でもなく、ただ、外界のあらゆる柵や煩わしさから切り離されている。それが心地よい。
 部屋の中から窓の外の景色を見るように、薄い透明な板越しに、自分たちを取り巻くものをまるで別世界の出来事のように見ている。まるで水槽の中の魚になったような気分だ。あくせくと絶えず続けられる人の営みを、他人事として捉えている。
「椋」
 ふいに透夜が声をかけてきて、椋は視線を頁から上げた。すっと目の前に影が落ちたかと思えば、もう透夜の唇が自身の唇に触れている。
「……まだ、昼間だよ」
「いいじゃん。誰もいないし」
「でも、なんで今」
「そういう気分だった」
 脈絡もなくもはやお馴染みの接吻を仕掛けてきた幼馴染は悪びれない。ここで動揺したり顔を赤らめたり青ざめたりするには、この行為自体には椋も慣れすぎている。
「今さ、俺とお前の他に誰の気配もしないから」
「それはそうだけど……」
 感覚でものを言う透夜の言葉は、時折要領が掴みにくい。
「こういう時って、まるで世界に俺たちしかいないみたいだよな」
 校庭では運動部が元気良くグラウンドを駆け回っているだろうし、校舎の中にはあらゆる文化系部活の人間と教師陣が残っている。数十分から一時間に一度くらいは扉の小さな覗き窓の向こうを歩く人の横顔が見える。
 けれどそれでも、今この瞬間この室内に自分たちは二人きりで、他の誰の存在も必要としていない。
 閉じた空間。これで完璧な空間。それが幻想で作り上げた砂の城でも、他には何もいらない、彼らだけの砦。
「独特の空気が流れてる」
 それと自分にキスを仕掛けたこととどんな関係があるのだろうと思いながらも、椋はぽつぽつと零れ落ちる透夜の言葉に耳を傾けていた。爽やかな午後の陽気に透夜の声が心地よく、緩やかな眠気と心地よい倦怠感を誘う。
 瞼を閉じれば今すぐにも眠れてしまいそうだ。
「どうすればこの空気を、この空間を絵で表現することができるんだろう」
「……この空気を?」
「そう」
 気になる単語に椋は閉じかけた瞳をぱちりと開いて、透夜の方を振り仰いだ。
「机に落ちる光の温かさとか、本の頁をめくる小さな音だとか、ほんのり伝わってくるお前の気配と体温だとか。そういう目に見えないものを、どうやったら描くことができるかな」
 透夜は薄く微笑みを浮かべて、椋の方を見つめている。
「俺はただそれを知りたいんだ。どうしたら――」
 そこでふいに言葉を切って、透夜は唇を引き結んだ。
 締め切られた窓の向こうでざわざわと木々の梢が揺れる。それを聞きながら、椋はただ透夜の言葉の続きに注目していた。けれど彼は何も言わない。
 ただ、今この瞬間に何かに気づいたように、椋の顔を凝視している。
「……透夜?」
 突然動きを止めた友人の姿に、椋は小首を傾げながら名前を呼んだ。
 彼がこんな風に言葉を途切れさせるのは珍しい。しかし確かに透夜も、椋ほどではないが不器用で想いをうまく形にできない幼さを持っている。
「椋」
 思いがけず真剣な声音が返ってきて、椋は反射的に身構えた。
「キスより先に、進んでいい?」 
「え?」
「お前と……」
 少し掠れて上ずった声が、囁くように尋ねた。
「最後までしてもいい?」