薄氷の砦

6.薄氷の砦

 それ以来二人は、以前にも増して一緒にいるようになった。
 学校で傍にいる時間が増えたわけではない。もともと一緒にいることの多い二人なので、周囲から奇異の目で見られるようなこともない。
 ただ、学校から帰った後の完全に私的な時間にも一緒にいることが増えたのだ。
 椋も毎回透夜の家に泊まるわけにはいかないが、お互いの家に遊びに行くこと自体は誰に止められることもない。
 あまりにも交流が頻繁で珍しいと言われた際には、部活の話だと言えば母親や姉は引き下がった。
 けれどもちろん椋が透夜の家に訪れる際にしているのは絵画の話ではなく、肉欲にまみれた行為だ。若い欲望は留まるところを知らず、それまで知らずに生きてきた世界にもう戻れるとは思えない程、生活の一部のように肌を重ねる。
 それでいて椋も透夜も、人目のあるところではまるでただの友人同士として振る舞う。
 否、ただの友人同士であることに間違いはないのだ。肌を合わせたからといって、彼らの関係がその名を変えたわけではなく、椋も透夜も友人同士で性的な好奇心を宥めるために体を繋げたのだから。
 椋は時折、自分たちは何をやっているのだろうかと我が身を振り返ることがある。
 けれど覚えた快楽に抗うことを、体が良しとしなかった。これが少しでも気に入らない相手、この関係について不安要素のある相手だったならば戸惑いもしただろうが、相手は幼馴染である意味家族よりも心を許している友人の透夜だ。彼が自分を裏切ることなど絶対にないとわかっているからこそ、椋は安心して堕落した関係に身を浸す。
 異性、それも自分と同年代の少女と肌を合わせたいという欲求は不思議と湧かなかった。
 つたない化粧を精一杯に施して着飾る、自分よりも小柄な少女たちを、可愛いと思わないと言えば嘘になる。けれど椋にとって女の子を可愛いと思ったり、年上の女性を美しいと思う感情は、人物画を見ているのと同じ感覚なのだ。細い腰のラインや柔らかそうな胸、晒された生足はこの手で触れたいものではなく、額縁の向こうから眺めてその美を楽しみたいものだった。
「椋、これどうかしら?」
「いいんじゃない、姉さん。でも、その服なら髪飾りはあの赤いのの方がいいと思うよ」
「そう?」
 珍しく透夜と約束しなかった休日、椋は友人と出かけるという姉に今日の服装の感想を求められながら、透夜のことを想った。
「椋の見立てはいつも的確で助かるわ」
 微笑みながら髪を直す姉の桜は、弟の椋の目から見ても十分に美人だった。彼女と椋は顔が似ているが、纏う雰囲気や平素の物腰が違いすぎるため、あまり他人からそう言われることはない。
 椋より五つ年上の桜は大学生だ。弟である椋と少し歳が離れているため、中学からの友人は椋に姉がいることを知らない者もいる。もちろん幼馴染である透夜とは桜も馴染みだ。
 そういえば透夜は昔、桜のことが好きだったらしい。
 あれは小学生の頃だったか。何気なく言われた言葉に、椋は複雑な気分になったものだ。
 今になって思い出したそれに、椋は昔とは別の意味で複雑な気分になった。
「ねぇ、姉さん。今日会うのって……彼氏?」
「違うけれど、どうしたの? 急に」
 おっとりとした姉が目を丸くして尋ねるのに、椋の口からぽろりと言葉が零れ落ちた。
「透夜って昔、姉さんのことが好きだったんだよ」
「知ってたわよ。でもそれ、本当にあなたたちが小さい頃の話でしょう」
 さらりと返された言葉に、今度は椋が目を丸くした。
「知ってたって、姉さん……そんなこと全然言わなかったじゃないか」
「わざわざ口にするようなこともないでしょう。それに、透夜君が私に興味を示したのは、私があなたの“お姉ちゃん”だったからでしょ?」
「え?」
 椋が昔彼女を呼んでいた頃の呼びかけを持ち出して、桜は意味ありげに微笑む。けれど結局それ以上何も言うことはなく、綺麗なピンクに塗られた爪で弟の頬を一撫ですると、鞄を手にして玄関を出ていく。
 一人居間に残された椋は、姉の後姿をぼんやりと見送った。

 ◆◆◆◆◆

 姉のことで思い出したが、透夜は昔は普通に女の子が好きだったのだ。
 椋がそれについて真剣に考えだしたのは、翌日の学校で別の友人からこう聞かれたからだった。
「なぁ、一之瀬。狭川って二組の縞野さんと付き合ってんの?」
「は?」
 思いがけない言葉に、椋は目を丸くした。透夜が、クラスの女子と付き合っている?
「え、いや。知らないけど」
「そうか。お前なら狭川と仲いいから知ってんじゃないかと思ったんだけどさ。おかげで松木たちが朝からそわそわしっぱなし。狭川って変な奴だけど顔はいいからさぁ」
 透夜が女子に人気があるのは椋も知っている。けれど彼は、これまで彼の顔立ちに惹かれて言い寄ってくる誰とも付き合うことなどなかったはずだ。
 そのまま話題は流れて別の話に移って行ったのだが、椋は透夜に彼女ができたというその話を忘れることができなかった。
 昼休みに透夜に話しかけようとした椋は、彼が屋上に向かうのを見た。
 仲がいいとは言っても、椋と透夜が学校生活の全てを共にしているわけではない。むしろ二人は部活や放課後にいくらでも話す時間があるので、昼休みや授業中の休み時間は他の友人との交流をしていた。
 それでも一週間に一度くらいは昼を一緒に食べているのだが、その誘いはいつも透夜の方から椋のところへやってくるというものだった。今日は昼休みが始まっても透夜が椋の席にやってくる気配がなかったので、椋の方から透夜に声をかけようとしたら、彼は教室を出て階段を昇りはじめた。
 声をかけて足を止めさせるには、ほんの少し距離が遠い。けれど駆け寄るほど急な用事を抱えているわけでもない。
 その結果椋は、透夜のあとを普通に歩いて追っていった。透夜が少し振り返ればすぐに気づくような距離だが、透夜は一度も振り返らなかった。
 彼らの高校の屋上は解放されている。利用者は多くはないが、少なくもない。けれどそれをみな知っているので、先客がいる場合には次の訪問者は自然と屋上を避けるようなルールができていた。
 椋は透夜の後を追って、屋上の扉を開けた。そこで、透夜が誰かと話をしているのを見た。風に裾がはためく紺色のスカートと、そこから伸びる細い脚。女子だ。
 透夜が会話する相手は、今朝方友人から名を聞いた相手、二組の縞野だ。なかなか可愛らしく、若干大人しめだが気立ても良いという話で、同学年の男子に密かな人気を誇っている。
 その彼女と、透夜が話をしていた。否、二人は単に話をするだけではない。
 透夜が少女の腰に手を添えて軽く抱きしめ、顔を近づける。目を閉じた彼女に、軽く口付けるのを椋は見た。
 身体の中で、血液がざっと音を立てて落ちた。
 ふらつきそうになる足を叱咤し、音を立てないよう精一杯気を使って屋上の扉を閉じる。
 透夜がキス、していた。自分以外の人間と。
 驚きのあまり目の前が真っ暗になる。こみ上げる何かを抑えるように、口元を手で覆った。
 椋は屋上の扉を背にしたまま、誰も来ない暗い階段の踊り場に座り込んだ。