薄氷の砦

7.さよならさえも遠い別離

 いつものように椋は透夜の家に行き、いつものように透夜のベッドにならんで腰掛ける。
 そして透夜がいつものように椋のさらさらの髪を撫で、そこからがいつもとは違った。
「透夜」
 口付けようと近づいてきた透夜の顔。目を瞑ることもなく透夜の胸を押してそれを拒絶した椋は、はっきりとした口調で言った。
「もう、こんなことやめよう」
 時間が凍りつく。
「――……え?」
 普段動揺を見せることの少ない透夜が、瞬間的に固まっていた。涼やかな切れ長の瞳が丸く見開かれ、正面にある椋の顔を凝視する。
「ど……して。何かあったのか?」
 椋が予想した以上に、透夜は動揺していた。愕然という言葉がふさわしい表情で椋を見つめ、尋ねてくる。
「俺のことが、嫌になったのか? こんな関係はやっぱり不道徳だって?」
「ちがう……」
「誰かに何か知られそうになったのか? 何かで知識を得て、男同士はヤバいって気づいたとか」
「違うよ、透夜。そのくらいのことは、最初から覚悟してた」
「じゃあ、なんで」
 問い詰めようとした透夜が、ハッと何かに気づいたように表情に憂いの色を乗せる。
「誰か……好きな相手でもできたのか?」
 今度目を丸くするのは、椋の番だった。思いがけない言葉に呆然とし、ついでそんな自分を忌避するように、透夜の肩口を突き放して顔をそらす。
「好きな相手ができたのは、透夜の方でしょ?」
「え?」
「二組の縞野さんと、付き合ってるんじゃないの?」
 透夜の顔色が変わった。
「付き合ってるわけじゃない」
「君は彼女でもない女の子とキスするのかよ」
「椋?」
「今日の昼休み、屋上でしてただろ」
「……見てたのか」
 ぽつりと落ちた沈黙が痛い。椋は透夜から目を逸らしたまま、あらかじめ用意してきた台詞を続ける。
「……彼女ができたなら、もう好奇心で僕を抱く必要なんてないだろ」
 透夜が受け身に回るというならまた別だが、彼はずっと男役女役で言う男役だった。椋の方が大人しく彼に抱かれていたのだ。だから透夜がそう言った意味での好奇心を満たすために椋と関係を持ったわけではないことはわかっている。
 初めはキスからだった。他者と唇を重ねる感触を透夜は知りたがっていた。その条件を満たすなら、相手は椋でなくてもいい。むしろ誰でも良いからこそ一番近くにいて、このことを受け入れそうな椋を選んだだけであって、好きな女の子がいるならば透夜にとって椋はお払い箱だろう。
「ちがう、椋。あの子は彼女とかそういうんじゃなくて」
「僕と同じセフレ? だから袖にしてもいいって?」
「違う! そんなことが言いたいんじゃない!」
 椋の言葉に反応し、透夜の声が悲鳴のように鋭くなる。だが椋は、ひたすら彼を見ないようにして続けた。
「ねぇ、透夜。僕は君のことをずっと、仲の良い友達だと思ってた。今も思ってる。だから、こんな関係になることも拒否しなかった」
 椋は始まりのあの時を思い出す。高校生にもなって、何もないのに友人と手をつないだり、肌に触れることなんてほとんどない。
 肩が触れるほど近くにいながら、昔はよく手を繋いだり腕を組んだ記憶がありながら、それでも椋はあの日、初めて透夜に触れたような気がしたのだ。
 透夜が知りたいのは他人の肌の感触と体温だと言っていた。
 自分は他人に心許さないだろうからそれが得られないだろうとも。
 けれどその透夜が、他人への不審や苛立ちを乗り越えて信頼できる人、自分から触れたいと思える人を見つけたことは、多分素晴らしいことなんだろう。
 椋は友人としてそれを祝福するべきだった。そして二人が友人同士という関係を維持したいなら、今が潮時だということもわかっていた。
 正式な彼女がいるのに、同性の友人と爛れた肉体関係をいつまでも持っていていいはずがない。椋のことはともかく、そんなのは彼女にも透夜自身の人生に対しても不誠実だ。
 だからこれで――。
「もう終わりにしよう」
「椋」
 最初から、今にも壊れそうな薄氷を踏むような関係だった。
 でももう、彼の隣に透夜はいない。透夜の隣にいるべきはもう椋じゃない。
 誰かにこの関係が露見することもなく透夜は無事にその上を渡り切り、椋は薄い氷の上に取り残される。一人寒さに凍えながら。
 春になれば溶けてしまう氷の上。けれど椋は春を拒絶する。この不安定な足場にずっといたい。だから透夜がそこから去るのであれば、透夜ですら拒絶する。
 きっとその方が透夜にとっても都合が良いと、椋は信じて疑っていなかった。
 最初からわかっていた。透夜は自分の口で言うほどに他人と触れ合うことに対し臆病じゃない。本当の臆病者は自分だけ。だから本当は、いつかこんな日が来ることもわかっていた。
「今までありがとう、透夜。……ってこれじゃまるで、付き合ってたみたいだね」
「椋」
 自分の名を呼ぶ透夜の声が段々と険しくなるのを感じながら、それでも椋は言葉を止めなかった。
「もう、いいよ。透夜。好きなようにして。人並に恋ができて良かったじゃない。僕はお前と付き合ってたわけでもないし、彼女に余計なこと言っちゃ駄目だよ」
「椋、聞けよ。俺は」
「弁解なんてしなくていいよ」
「聞けって言ってるだろ!」
 思いがけず強い声音に押され、椋はようやく顔を上げて透夜の方を見た。普段冷静な友人の顔が、中途半端に歪んでいる。
 何かにとても怒っているような表情なのに、その目元は赤く、今にも泣きだしそうに潤んでいる。彼は両腕を伸ばし、椋の両肩を掴んだ。
「確かに俺は縞野とキスしてたよ! でもだからって、お前よりあいつを選んだわけじゃない!」
「選ぶも何も……同性の友人と異性の彼女はもともと同じ土台に立ってないでしょ?」
 世の中には比べられるものと比べられないものがある。友人と彼女は、どう考えても比べるような対象ではないはずだ。
「俺は縞野と付き合ってるわけじゃないんだよ! あれは……、あいつが俺に、一度だけだって、それで諦めるからって……」
 言い募る透夜の声が段々と弱く尻すぼみなっていく。
「いいんだよ、透夜。そんな無理して」
「だから違うって言ってるだろ!」
 ついに実力行使に至り、透夜は椋をそのままベッドの上に押し倒した。
「俺は椋とあいつを天秤にかけるくらいなら迷わずにお前をとる。あいつだけじゃない、他の誰と比べたってお前以上に俺が近くにいたい奴はいない。他の奴と近づくことでお前が離れていくなら、全部捨ててやる!」
 体格差のせいもあり、椋は上から透夜に馬乗りで抑え込まれるとまったく抵抗できない。本能的にこの体勢はまずいと脳裏に警鐘が鳴るのだが、どうしても透夜の腕を振り払えなかった。
 上体を倒した透夜が、椋の空いた襟口から首筋を噛む。
「痛ッ……透夜!」
 少しでもこの関係を外に知られてはなるまいと、つけることのなかった赤い花が椋の肌に咲く。
「それでもお前が、俺から離れて行こうとするのなら」
 彼の影が落ちる仄暗い視界の中で、椋は不安定にゆらめく透夜の瞳を見上げた。眇められた眼差しの中には、これまで椋が見たことのないような感情がある。
「お前を無理矢理俺のものにしてやる」