薄氷の砦

9.傷だらけの孤独の楽園

「椋? おかえりなさ――どうしたの?」
「なんでもない。ちょっと喧嘩しただけ」
「喧嘩って、あんたが? 誰と?」
「……透夜と」
 たまたま玄関前の廊下を通りがかった桜に、椋は透夜から連絡が来ても、本人が会いに来ても決して通さないように頼んだ。姉は弟の明らかに泣いた痕のある真っ赤な顔を見て、驚きながらもそれを承諾した。
 椋は浴室に飛び込んで、すぐさま全身を洗おうとした。けれど浴室の鏡に映る自分の胸元に咲く赤い花々に気づき、声を失う。そして下着を脱いだ自分の足元に伝う、白く濁った欲望の残滓。走っている間は気にならなかったそれが、落ち着いたことによって溢れ出した透夜のそれ。
 瞬間的に、思い切り叫んで鏡に頭を打ちつけたくなるのをなんとか自制する。
 シャワーを出しっぱなしにしたまま、椋はしばらく浴室で頭を抱えて蹲っていた。

 ◆◆◆◆◆

 初めて会った時のことなどもう覚えてはいない。
 ただいつの間にかいつも傍にいて、それが当たり前になった存在。椋にとって透夜との関係はそういうものだった。何故仲が良いのか? そう問うことすら考え付かないほどに、それは当然のことだった。
 けれどもう、以前のような関係には戻れない。
 合意の上で体を繋げていた時には何とも思わなかったのに、拘束されて無理矢理犯された後の自分の体を見た椋は、咄嗟に死にたいとすら思った。僅かな波を乗り切ればもうそんなことは考えないが、あの瞬間、世に聞く暴行事件の被害者が自殺するという気持ちがわかった。
 男だから、相手が友人だから、以前も体の関係があったのだから平気というわけではない。
 本来愛情をもって交わされるべきやりとりを無理矢理するということは、相手が自分からの気持ちを望んでいないということだ。椋はそう考える。だから透夜を許せない。彼は椋の気持ちなど、どうでもいいと言ったも同然なのだから。
 何よりもそれが許せない。実際に体そのものが痛んだり傷ついたわけではないけれど、胸の奥は抉られた。
 まるで自分だけが、彼を友人だと思っていたのだと思い知らされたようだ。それが好奇心と肉欲からの始まりであってもお互いの気持ちを確認しあって肌を重ねていた時とはまったく違う行為に、椋は透夜に対する恐怖と嫌悪を抱いた。
 自分のベッドにうつ伏せに倒れ伏し、顔を枕に押し付ける。
 涙が溢れて止まらない。あとからあとから勝手に溢れてきて、水色の布地に吸い込まれていく。
 これから、どんな顔で透夜と話せばいいのだろう。
 拒絶した方であっても拒絶された方と同じく、顔を合わせるのが怖いのだ。言いたいことは色々あるようなのにどれも上手く言える自信はなく、むしろ直接顔を合わせれば怒りが爆発して泣きながら悪態をつくなどの醜態を晒しそうで、尚更怖い。
「透夜の馬鹿、馬鹿、本当に……」
 何故幼馴染の友人があんなことをしたのか?
 椋にはその理由がわからなかった。薄々頭をかすめるものはあるけれど、それが真実だとはどうしても思えない。それを邪魔しているのは理性か、それとも臆病さか。
 同性の友人同士で体を重ねていたことだって後ろめたいのだ。まさか彼が、自分を……などとは、椋は絶対に認めない。
 腕を縛られたところで怖くはない。無理矢理挿入されたことだとてそう。相手は透夜だ。こちらの同意を求めずに行われたことに対し苛立ちと嫌悪は感じるが、恐怖はない。
 椋が恐れているのはもっと別のことだった。そして椋にとってはそれが全てで、おそらく透夜にとってもそれが全て。
 薄い氷の上に立つ城は、幼児の砂遊びで作られる城のように脆い。けれどそこには頑丈な扉がある。決して開かない扉がある。
 その扉は決して開かないから、薄氷がひび割れてその砦が沈む時、中にあるものは逃げずにそのまま冷たい水の中に沈む。そう、沈めることだけを椋は望んでいた。
 怖いのだ。それに気づいてしまうことが。気づかれてしまうことが。
 ――なぁ、キスしてみない?
 あの日の透夜の様子を思い出す。熱のない瞳にあるのは「好奇心」だけだった。そこにあるものがただの興味本位という毒にも薬にもならぬものだったから、椋は透夜の誘いを受けたのだ。
 そこにあるものがもしも、好奇心だけではないのだったら……。
「椋?」
 切れ切れでとりとめのない椋の思考は、部屋の扉の外からかけられた声によって中断された。
「お茶を入れたの。降りてきなさい」
「姉さん、僕今……」
「ちゃんと来なさいよ」
 声は優しいのに、口調は有無を言わせない。そういう時の姉には逆らえないことを知っている椋は、赤い目元を気にしながらも自室を出て、リビングへと降りて行った。
 きちんとティーポットを使って入れられたお茶とケーキが乗った金縁の皿。フルーツソースが絶品とされているケーキは姉弟二人共通の好物だった。着席を促す桜の手に従い、椋は大人しく椅子に座る。
「透夜くんと何かあったのね」
 椋が半分ほどケーキを食べ終えて落ち着いたところで、桜の方からそう声をかけた。
「……なんでもないよ」
「さっきは喧嘩したって言ってたじゃない」
「姉さんが気にするほどのことじゃないよ」
 椋は居心地の悪い会話を早く終えたくて、一度は止めたフォークを持つ手を再び動かした。
「告白でもされたの?」
 桜のその言葉に、椋がフォークを刺した先のケーキがぐしゃりと無残に潰れる。
「……姉さん。なんで」
「透夜くん、昔からあんたのこと好きだったものね」
 ころころと笑う姉の笑みを見ながら、椋はただひたすら言葉を失っていた。
「あの子はずっと椋を見てたのよ」
「……透夜は昔、姉さんのことが好きだったんだよ。僕は姉さんと似てるから」
「違うわ。前に言ったでしょ? 透夜くんが私に興味を持ったのは、私が椋のお姉ちゃんだから。椋が好きだから、同じ顔の私を気にしてただけよ」
 その指摘に、椋はますます目を瞠る。確かに先日も桜は似たようなことを言っていた。その時は理解できなかった言葉の意味だが、こうもはっきりと告げられては誤解のしようがない。
「姉さん、僕……」
「ふふふ。みんなは透夜くんを理性的で、椋を優しくて感情的だと見るけれど、本当は逆なのよね。理性と計算でしか動けないのは椋、あんたの方。それに比べて透夜くんは感情的よね」
 桜の言うことに、椋は思い当たる節があった。椋と透夜、二人の描く絵の性質にも表れている本質。
 食べ終わったケーキの皿を片づけながら、自分に良く似た姉は告げる。
「じゃ、せいぜい青春しなさい」