第1章 顔のない男 Ⅰ
0.絵の中の女神
彼は目の前のキャンバスを眺めた。
「完璧だ……」
恍惚として指を触れようとして、寸前で思い留まる。伸ばした指先を胸の位置まで戻し、間違って動かぬようにと、不必要なほどきつくもう片手で握りこんだ。
今しがた自分が描きあげたばかりの絵だ。絵の具にまみれた指を触れれば汚してしまう。それだけは避けたかった。代わりに席を立ち、一歩引いたところからその絵に再び視線を向ける。彼の眼差しが見つめる先で、女神が微笑んでいた。
キャンバスに描かれているのは、背に白い翼を生やした一人の女性だった。白すぎるほどに白い、なめらかな肌。しかし翳りは感じさせず健康的で、頬には薔薇色が踊っている。睫毛は長く瞳に淡い影を落とし、唇は自然な色で艶めいていた。美しいのは顔ばかりではなく、薄い布一枚を身にまとったその肢体はまさしく芸術的な均衡のもとに成り立っていた。薄青い瞳で覗きこまれたならば、どんな男とて虜となるだろう美しさ。細い指の先の淡く色づいた爪にまで神経が行き届いている――彼が描き上げた最高の、女神。
しかしそれを描いた彼の方は、くたびれて酷い恰好だった。がりがりに痩せ細った腕、こけた頬、髪は艶がなくパサパサで、爪はいつも絵の具を扱うために汚れてしまっている。先程絵に触れる寸前で思い留まったのは正解だ。
墨を溶かしたような陰気な黒い髪に、同じ色の暗い瞳。暖炉の奥で燃え残った火のような、仄暗い情熱を感じさせるそれが、自らこの世に生み出した絵の中の女性を凝視している。彼の頭の中にはこの瞬間、画材が転がり荒れ果てたアトリエも連日の長時間の作業で衰弱した己の体のことも頭にはなかった。
あるのはただ、目の前の女性だけ。絵の中の女神だけ。
「ああ……ずっと待っていた、この日を……」
何かに憑かれたような熱心さで、彼は完成したキャンバスを見つめ続ける。
やがて、アトリエに狂ったような笑い声が響き始めた。