顔のない男 02

7.絵の中の女神について

 無事に貴族の屋敷から金目の物を奪取することに成功したレジスタンス一行は、アジトへと戻ってきた。普段は殺風景な灰色のコンクリート壁むき出しの部屋が、こんなにも安心できるのはこの瞬間くらいだ。
「おーおー、こりゃいつにもまして大量じゃねぇか。よっぽど悪いことやってたんだなぁ」
「なぁにアロイス、その金持ちだったら即悪人みたいな発言は」
「あながち間違ってないだろ? 今のこの国ではな」
「まあね」
 車から収穫を運びこみながら、彼らは口ぐちに感想を漏らす。
「うわぁキレー、すごい宝石の数だねー」
「金銀や宝石は本物である限り比較的価値が変わらないからな。現金より貯めやすいんだろうよ。しかしものがこれで助かったよ。そこの王子様、思ったより使えなくてな」
「う」
 ファウストに指摘されて、荷物を運ぶ途中だったエミールは凍りついた。全員の視線が彼へと集まる。
「金目のものとそうでないものを見分けられないし、体力がないからすぐにへばる」
「ええと……お疲れ様、リーダー」
 はー、と嫌味でなしに心の底から疲れた口調で言うファウストを見て、彼らは他にコメントのしようがなかった。
「まぁ、最初から大泥棒の才能がある王子っていうのも嫌じゃない? これから覚えていけばいいのよ」
「段々と大泥棒になっていく王子っていうのも微妙だとおいらは思うんですけどー」
「というかゾフィーもモーリツも、あたしたちは泥棒じゃなくてレジスタンスだってこと忘れてない?」
 しょげかえるエミールを横目に、ゾフィーたちは好き勝手なことを言ってくれる。みな、口では殿下殿下と呼びながら、扱いは王子に対するそれではない。
 もっとも、エミール自身はそれでまったく気にしていないのだが。
「とにかく、収穫を整理しよう。モーリツ、お前の出番だ」
「モーリツさん?」
 茶髪のお調子者の青年が名を呼ばれたことに、リューは意外な顔をした。同じ班であったが、彼が戦闘面ではまったく役に立たなかったのをその目で見ているからだ。鞭を構えたゾフィーからは一応それなりの実力を感じたのだが、モーリツからは特別何も感じない。
「はいはーい? じゃあ皆さん、品物を見やすいように並べてねー」
「こいつは質屋の倅なんだ。普段は役に立たないが、目利きの腕は一流の鑑定士並みだ」
「ひどいっすよファウストー、普段は役に立たないだなんてー」
「現にさっきは役に立ってなかったんだろ? そうでなければその坊やがそんな顔するはずないだろう?」
「あたってるわね」
「もーみんなひどいっすよー」
「あ、ごめんなさい」
 苦笑しながらも一人さっさと席について、モーリツはルーペ片手に品物を見て回った。宝石からまずは鑑定し、仕舞いにはそれを入れている箱まで上物だとほくほくしている。
 彼が鑑定を始めている横で、ファウストはテオドシウスとカトリーンを呼んだ。部屋の外の廊下へ出るように示す。
「カトリーンがこれを見つけてくれた」
 そう言ってファウストがテオドシウスに渡したものは、例の貴族が元軍人の人体改造実験を行っている証拠となる書類だった。もとは軍人であったものを肉体を改造されて貧民街に捨てられたテオドシウスとしては、憎んでも憎み足りないものである。
「発表するのか」
「ああ。大々的にな」
「もう、後戻りはできなくなるね」
「したいのか? カトリーン」
「ううん。やっちゃって。あたしたちと同じような人を、もう出さないで」
 幼い少女の顔に、そこだけ不似合いな大人びた陰りがある。だからこそ折れない強い決意の後押しを受けて、ファウストとテオドシウスが頷こうとしたところ、
「無駄ですよ、そんなことをしても」
「リュー?」
「お前、聞いていたのか」
静かに扉を開いて部屋から出てきたリューが、内容を確認もせずに一刀両断する。
「無駄とはどういうことだ。俺たちは本気で」
「そんなことはわかっています。ただ、伯爵程度を潰しただけでは無駄だと言っているんです。王都と軍部の研究に関わっているのは彼だけではない」
憤るテオドシウスに対し冷静にリューは指摘する。
「リュー君……?」
「すべての研究の大本に、王弟ゲオルグ閣下がいます。それにヨハンという科学者も――。ここで伯爵の不正を発表したところで、王弟が全てをもみ消すでしょう」
 ファウストとテオドシウスは視線を鋭くした。
「どうしてお前がそれを知っている」
「それは――」
「あら? ファウスト。どうしてこんなところで話をしているの?」
「リュー?」
 ちょうどリューの言葉を遮るような形で、メフィストとエミールが部屋の外に出てきた。エミールの姿を見て、リューは途端に口を重くする。その反応を横目で見ながら、ファウストが二人に話しかけた。
「お前たちこそどうした」
「お茶を入れようと思っただけよ。殿下にも手伝ってもらおうと思って。ここは寒いわ。用事が終わったら、早く中へ入った方がいいわよ」
「……そうだな」
 気勢をそがれた形で、ファウストが溜め息をついた。エミールはきょとんとしているがメフィストは彼らの間に流れる空気を察したようで、さっさとエミールの背を押して給湯室へと姿を消す。
「……この話は再考しよう」
「ファウスト!」
「こいつの情報、まったくのでまかせというわけでもないだろう。何故なら、ヨハンという科学者に関しては俺も知っているからな」
「何?」
 テオドシウスとカトリーンが顔色を変えた。
「あの男は、俺の《顔》を知っている」
「ファウスト……?」
 《顔のない男》、ファウストの《顔》を知っている相手。
「ファウスト、説明を」
「悪いがここではできないな」
 気色ばむテオドシウスに、しかしファウストは苦い顔つきで続ける。
「テオ、俺は俺の胡散臭さぐらい自分でわかっているつもりだ。だが、どうしても、それを考慮しても口をつぐまざるを得ないことはある。そのことで更にお前たちの不信感を煽るだろうこともわかっている」
 ファウストとしても本意ではないという形で、彼は事情を告げられないことが一番の事情なのだと告げる。
「どうしても、言えないって言うんだな」
「ああ」
 頷いたファウストに、テオドシウスは眉を歪める。無闇に怒っているという風ではないが、容易くは承服できないという態度だ。
「部屋に戻るぞ。メフィストに言われただろう? さっさと中に入れ、と」
「……お前……」
「すまない」
 テオドシウスたちの疑惑の眼差しを受けたまま、ファウストは手近にいたリューの腕を引いてさっさと部屋に戻ってしまった。

 ◆◆◆◆◆

「お茶が入りましたよ。って、何をやってるんだ?」
 メフィストと二人で給湯室にこもり、人数分のお茶を入れて戻ってきたエミールを迎えたのは何故かみんなの後ろ姿だった。
「あ、兄さん」
 リューが振りかえると、彼の体の向こうに隠されていたものが見えた。額縁の中に収められたキャンバス。つまり、一枚の絵画を彼らは揃って覗き込んでいるのだった。
「ああ、暁の女神の……」
「本物とは言わないけれど、複製ですら製作するのが難しいと言われている幻の名画のレプリカっすー。レプリカと言っても、サイズは違うんですけど」
「あー、あの曰くつきの絵……」
 モーリツが心なしかうきうきとした様子で示したのは、彼の体の半分ほどの大きさの絵画だった。そういえばこれを運んだのはエミール自身だった。ファウストがこれも持って行けというので持たされたのだが、何が描かれているのかまでは注目していなかった。
「『暁の女神』……数世紀前、狂った画家がその命と生涯をかけて描き上げた傑作。一節では彼はこの絵の中の女神に恋をしていたのだという……」
 モーリツの説明につられるように、エミールは絵の中の女性を眺めた。暁の陽光と同じ色の髪をした美しい女性が微笑んでいる。
「製作者である画家だけでなく、この絵にとり憑かれた人間は数知れず~、一説によると、現在の人体改造及びクローン人間製作技術を当時の何段階も押し進めた狂気の科学者《ファウスト博士》も、この女神の魅力にめろめろだったって話らしいっすよ~」
「何それ、初耳よ?」
 ゾフィーが目を丸くした。俺もだ、とテオドシウスが同意する。
「ファウスト博士?」
「っていう名前の科学者だ。二十年くらい前に死んだんだがな。そもそもあの男のせいで世界的に遺伝子改造技術が広まり、特にこのクルデガルドでは爆発的に人体改造と遺伝子操作が流行った」
 エミールの疑問に《ファウスト》が言った。
「ちなみに言うまでもないが、俺とは無関係」
「ああ、うん。そうだろうけど……」
 ファウストという名前は珍しくもない。それに相方である女性がメフィストと名乗っていることからも、彼のコードネームはゲーテの著作『ファウスト』からとられているのだとわかる。
「これは結構『通』の情報っすよー、結構マニアックな情報領域。ファウストはなんで知ってるんすか?」
「俺の専門は遺伝子操作、改造人間及びその辺いろいろに関する諸問題。だったら遺伝子操作の権威であるファウスト博士の名前を知っていてもおかしくないだろ?」
「そういえばそうでした」
「でもさぁ、はた迷惑な話よね。この絵の女のせいで、全世界でクローン人間や遺伝子操作、人体改造の強化人間たちが虐げられているわけでしょ」
 絵の中の女神を睨みながら、ゾフィーが言った。女の美しさに、同性としていろいろと刺激されるものがあるらしい。
 人類はその科学力により、あらゆる想像や空想を実現し、これまでは創作の中でしか存在しなかった二次元の異能や美をこの世に具現化することに成功した。そしてそれこそが、人の際限ない欲望を実現するために、何もかもを犠牲にするという破綻を生み出した。
 絵の中の女神に恋をしたという画家。その女神を具現化するために遺伝子操作を発展させた博士。ガラテアに恋い焦がれるピグマリオンの欲望を持った男たちは、その力で数多くの人間を不幸にした。
「でもなんか……この人、どっかで見たことがあるような……」
「ゾフィー姉もそう思う? あたしもなんか見覚えがあるような気がするんだけど」
「「うーん」」
 男性陣は魔力が込められているという絵の中の女神にぽーっと魂を抜かれているのだが、女性二人は顔を見合せて首を捻った。
「お茶が冷めますよ、皆さん」
 メフィストに促されて、彼らは席に着く。席と言っても現在盗品で埋まった部屋の中、思い思いの場所に腰掛けるだけだが。
「狂気の画家はその命をかけて至高の女神を描き出し、狂気の科学者ファウストはその命をかけて、絵の中の女神を現実に作り出そうとした……」
 薄い紅茶のカップを片手に、ファウストが呟く。
「確かにはた迷惑な存在だな、この絵の中の女神は」
 ファウスト博士は狂的な人格とは裏腹に、優れた才能の持ち主だった。理論的には製作できるとされていたが成功率が低く、完成品だとされた羊や牛だのに関しても眉唾物であったクローン製作の確実な技術を、一代で完成させた。更にはあらゆる遺伝子操作を行い、人間の肉体に動物の遺伝子を組み込んだり、もとからある遺伝子を操作して肉体を強化したりする方法を導き出した。
「この女神のせいで、世界中の改造人間とクローン人間が苦しんでいる……」
 まるでどこかに実在する人物に向けるようなその言葉に、反射的に異を唱えたのはエミールだった。
「でも、そんなのこの絵の女神のせいじゃないと思う」
「殿下」
「だって例え、ある画家がこの絵を描いて、それをきっかけに博士が遺伝子操作技術を完成させたのだとしても」
 キャンバスを一瞥して、エミールは再びファウストへと視線を戻す。
「生まれてきたものに、罪なんてないじゃないか」
 思わずしんと場が静まり返った。
 人は自らが、どう生まれるのかを選べない。
 人種も、性別も、両親も、容姿に関しても。
 そういえばファウストには《顔》がない。
 《顔》がないからこそ、彼は絵の中の女神を責めることができるのだろうか。
「どんな風に生まれてくるのかなんて選べないけれど……でも生まれてきたその人には、罪がないと思う。少なくとも私はそう信じたい。絵の中の女神だけじゃない、この世のすべての人が、そうなんだって。遺伝子改良された子どもだって、後天的に改造された人間だって、クローン人間だって……」
「殿下、あんた動揺すると一人称が《私》になるな」
「ファウスト!」
 真面目な話をしているのに交ぜ返されて、エミールが思わず険しい顔をする。
「兄さん、お茶が零れるよ……」
 リューが隣から、控え目に指摘した。
「え? うわっ!」
 危うく傾いたカップから零れかけていた紅茶を、慌ててエミールは救う。白い陶器の中で薄紅色の液体が跳ねた。
 そんなエミールの様子を、室内の幾人かは複雑な顔で見つめている。
 エミールはいまだに、リューが改造人間であることを知らない。テオドシウスが元軍人だということも知らなければ、カトリーンが改造人間であることも今日知ったばかりだ。そして彼女の背景にある悲惨な事情については知らない。
 彼は王子様だった。妾妃の子とはいえ、その母親でさえ平民だった。ファウストが口にしたような人々の苦しみとは彼は無縁だ。
 けれどだからこそ、その浅はかな優しさが、この場にいる者たちの胸をつく。
 この世界の人間全員がエミールのような考え方をしてくれるのなら、どれほど良いだろう。
 死亡宣告をされ、人権を奪われて人間兵器にされた元軍人、孤児であったところを拾われて改造され人間外の遺伝子を埋め込まれた少年、少女。
 今存在する誰かの身代わりとして生み出されたクローン人間。
 テオドシウスやカトリーン、そしてリューはその類だ。
 そんな彼らを、彼らを生み出した人々はまるで生み出した自分たちに全ての権利があるように考える。そして彼らの命を使い捨てる。
 そんな世界を変えるためにファウストたちのレジスタンスは立ち上がったのだ。
 顔のない男は静かに笑う。
「まぁ、確かに。美術品を何故お前は美しいのだと責めても仕方ない。存在がもつ美そのものに罪はないはずだ」
「エミール殿下」
 その会話を聞いていたテオドシウスが口を開いた。
「俺はやはり、あなたのような方にこの国の王位についてほしいと思う」
「え?」
「テオドシウス」
 ファウストがテオドシウスを睨む。常に違う顔を張り付けている彼は、瞳の色ですらいつも同じではない。だがその奥の光は同じ。
 その光が、今はいつにない苛烈な色を湛えている。
 苛立っているのはテオドシウスにか、それとも……
「お綺麗な世界しか知らない王子殿下の綺麗ごとなんぞに、まさか今更心を動かされたとか言うんじゃないだろうな」
「ちょっとファウスト! いきなり何を言い出すのよ!」
「黙っていろゾフィー。お前たちこそ自分が何を言っているのかわかっているのか? 善人面をして見えても、この男は王族だ。貧民街の人間の苦労など知らず、高みから見下してきた人間の一人だぞ」
 しん、と今度は先程とは違う種類の沈黙が部屋に降りる。
 エミールが悲しそうに俯いた。その顔を、ファウストは努めて見ないようにするようだった。こんな時真っ先に反撃しそうなリューですら、今は口を閉ざしている。それは彼も三年前、出会った当初同じようなことでエミールを責めたためなのだが、他の面々はそのことを知らない。
「ちょ、リーダー……」
「ファウスト、それはいくらなんでも……」
 モーリツやカトリーンが蒼白になる。
「おっさん、やだなぁこういう雰囲気……」
 アロイスもお手上げだと天井を向いた。
「ファウスト」
 どうしようもなくぐちゃぐちゃになった部屋の雰囲気を救うように、これまで黙っていたメフィストが口を開いた。
「ちょっと話があるの。いい? テオも一緒に来てくれる?」
「メフィスト」
「来い、テオドシウス」
「ファウスト!」
 テオドシウスの肩を掴み、ファウストが二人とともに部屋を出ていく。
「ああもう、何だってんだよ……」
 アロイスの苦悩に満ちた声音が、室内の空気を代弁していた。