顔のない男 02

8.顔のない男 Ⅰ

 エミールとリューが最初に連れてこられたアジトは、便宜上ファウストとメフィストの自宅と呼べるものだった。平民街の住人に廃ビルと呼ばれるこの建物は、コンクリートがむき出しの灰色の四角い箱だ。
 一階は倉庫、二階と三階が会議室、と言う名の多目的室と給湯室、四階と五階を住居スペースとしてファウストたちが管理している。
 そしてこの建物に、エミールとリューも強制的に居候させられていた。
 そんな二人は、住居スペースの一番広い一画、リビングと呼んでいるそこで、彼らが来る前の二人の様子について突っ込んで尋ねた。つまり。
「ファウストとメフィストって、恋人同士なのか?」
「はぁああ?」
 本日はたまたまどこの組織幹部とも都合が合わず、今すぐどうこうできるような仕事がない。午後の暇を持て余し同じテーブルで紅茶を飲んでいたファウストが、思いっきり嫌そうな顔をした。
「え? ち、違うの?」
「違うんですか?」
 エミールだけでなくリューまでもが、不思議そうにファウストとその隣に座るメフィストを見る。
 赤毛に青い瞳の美女は今日も本心を見せない微笑を浮かべている。
「恋人じゃねぇよこんなん……」
「こんなん!?」
 絶世の美女と言って差し支えのないメフィストに対し暴言を吐いたファウストに、エミールが仰天する。
 メフィストは綺麗だ。好みの差などという問題ではなく、この美貌を否定できる者はいないだろう。
 ちなみに今日のファウストの《顔》は、初対面のあれほど地味ではないが、聞きこみようの美形顔でもない。普通と言えば普通だが、ややかっこいい《顔》というこれまた適当なものだった。美女メフィストと並ぶと不相応に見えそうなものだが、ファウスト自身がいつも仮面やマスクをつけていても独特の空気を持っているため、美女に寄り添う身の程知らずな男という感じはしない。
「若い男女が同居までしておいて、何の関係もないなんてありえないじゃないですか」
「リュー……」
 すれた発言をする弟に、エミールが絶句する。言われた当の本人たちは気にもしていないが。
「あら? じゃあリューはあなた自身と殿下のどちらかが女の子だったら、そういう関係になっていたというのね」
「ぶっ!」
「わー!? 兄さん! いきなり何を言い出すんですかメフィストさん!」
 あろうことかの発言に、エミールが紅茶を間違った場所へ入れて死にかける。ごほごほと噎せている彼の背をさすりながら、リューはメフィストを睨んだ。
「だってそうでしょ? 今のご時世で男女がどうのなんて偏見よ? それを言うなら歳の違う男二人が同居すれば皆兄弟なんておかしな理屈が形成されるわね」
「おかしいのはあなたの頭です! 僕らをあなた方と一緒にしないでください!」
「あなた方ってどういう意味だ坊や。俺とこいつはそんなんじゃないって言っただろうが。……ああ、そういえばお前らも現在同居中の女と男だもんな。メフィストに惚れたか? 殿下」
「何を言っているんです、兄さんが――……って、兄さん? 顔紅いんだけど……」
「え? あ、ああ。って、え? いや、私はそんな、その」
 言ったファウストも否定したリューも、しどろもどろになるエミールへと注目した。
 リューが指摘したとおり、顔が真赤だ。実にわかりやすい。
「……坊や、出るぞ」
「で、でも!」
「野暮だな。出るったら出るぞ」
「ちょっと、離してくださいよ! ……兄さん!」
 ファウストに首根っこ掴まれて室内から彼ともども強制退場させられたリューは、必死で兄を呼ぶ。が、ぼーっとした状態のエミールは彼の叫びに反応してくれなかった。
 バタン、と扉の閉じる音を最後に二人の姿が室内から消えると、エミールとメフィストは二人きりで残された。
「殿下?」
「は、はい!」
 これまでも何度も二人きりになっているというのに、気持ちを言い当てられたばかりのエミールは赤い顔のまま、必要以上に緊張してしまっている。
「あの、私を……というのは本当ですか?」
「そ、それは……本当です……」
 メフィストは信じられないような美女だが、エミールも相当の美形だ。二人は一見お似合いのカップルに見える。しかしファウストが気を利かせたものを、エミールはそのまま受け取るわけにもいかなかった。
「あの、すみません。いきなりこんなこと……へ、変なこと言いますけど、だからどうこうしようってわけじゃないんです。俺にとって、あなたはただ見ているだけで憧れで」
「私のようにつまらない女の、どこが?」
「つまらないなんて! だってあなたはいつもさりげなくメンバーの気をほぐすようなことが言えて、いつも周りの人々のことを気にかけていて……とても、優しいから」
 落ち着かないエミールの挙動を、メフィストは微笑ましく見守っている。春の陽だまりのように、彼女はいつも穏やかだ。
 しかし常に穏やかだからこそ、底意を見せない人物でもある。メフィストの事情を知る者ならばともかく、レジスタンス内でも彼女は謎の人物だ。リューなどは表面こそ普通に振る舞っているものの、真意を見せないメフィストに対していまだに警戒している面がある。
 しかしエミールは気付かない。メフィストの慈愛深い表情を彼女個人の資質だと受け取っている。
「ありがとう、殿下。私もあなたが大好きよ」
 二人とも今すぐ恋人同士になるだのどうのという会話はしない。それぞれ別の事情で、今はまだそんなことを望めるような立場ではなかった。ただお互いに好意を表明して、それが受け入れられたことを喜ぶばかりだ。
 メフィストはこれは作り物ではない本物の笑顔でエミールに礼を言った。その直後に声を潜めて呟く。
「もしも私の正体を知ってからも、あなたが今と同じことを言ってくれるのなら嬉しいのだけど――」
「メフィスト?」
「なんでもありませんよ」
 その声は小さすぎて、エミールには届かなかった。

 ◆◆◆◆◆

「何をするんですかファウスト! 離してください! 兄さんのところに!」
「おいおい、お前はどこまで露骨にお邪魔虫をする気だ? 常日頃は相手の都合などかまわず言いたいことを言いたいだけ言うことを信条とするこの俺だってあの場面では気を遣わざるをえないところだぞ」
「知りませんよそんなこと! というかあんたそんなこと信条にしてたんですか!」
 部屋の外に出ても、否、出たからこそぎゃーぎゃーと二人はうるさい。これじゃムードも何もないなと、ファウストはとりあえず隣室までリューを引きずって行った。
 そして憐れむような眼差しで少年を見る。
「いい加減兄離れしろよ《弟》君、その歳になって、お兄ちゃんに彼女ができるのは許せないなんて言うことないだろ?」
「誰がいつそんなことを言いましたか!」
「いつも何もさっきからずっとそう言ってるようにしか見えんのだが……」
 彼の話に聞く耳持たないリューに、ファウストもそろそろ呆れ顔だ。
「そもそも僕のことより前に、あなたとあの人はどうなんですか! 同じ建物に住んでいて、現場ではまるで二人一対のように扱われていて、コードネームだって関連性がある、これで深い仲じゃなくてどう思えと言うんですか! なんで恋人じゃないんです!?」
「そうだな。強いて言うならお前らと同じか」
「へ?」
「メフィストは俺にとって姉のようなものだ。あいつに引っ張られて俺はここまでやってきた」
「そ、そうなんですか?」
 さすがにその答は予想外だったらしく、リューはぱちぱちと青い目を瞬かせる。
 その下手な少女よりも愛らしい顔立ちを見つめながら、ファウストは口を開かずにはいられなかった。
「坊や、お前はそろそろ、エミールに入れあげるのはやめておけ」
「……何ですって」
 これまでとは空気の違う忠告に、問い返すリューの声音が厳しくなる。
「あの男は、お前が思っているような人間じゃない。そしてお前が思いたいような、鳥籠の中の鳥でいてくれる人間でもない……お前ももう、あいつを鳥籠に閉じ込めて、自分だけで守っているような気になるのはやめろ」
 ファウストの指摘に、リューの顔が瞬時にして朱に染まる。羞恥と苛立ちの混ざったその色に、ファウストの冷めた眼差しが降り注ぐ。
「あなたに何がわかる!」
 どん、とリューはファウストを突き放した。無抵抗だったファウストはあっさりと尻もちをつく。
 普段あれだけ口が悪くチンピラのような態度であるにも関わらず、こんな時のファウストは周囲が驚くほどに大人しい。
「確かにあなたの言うことはもっともでしょう。兄さんはただの優しい人なんかじゃない。優しくなりたいだけの人です」
 先日の女神の絵の件だってそうだ。テオドシウスたちはエミールの言葉に何か感じるものがあったようだが、リュー個人の意見としては大方ファウストの指摘に近しい。ある意味彼がファウストを嫌うのは、同族同族嫌悪なのかもしれない。
 エミールは王子様。だから本当の意味で苦労なんてしたことがない。だから人よりも理想に対して楽観的だ。その優しさが綺麗なのは、浅はかだからだ。濁った沼地の一番上を流れる透明な水のように。
 それでも、だからこそリューにとって彼は特別なのだ。
「あの人だけが、僕を必要としてくれた。強化人間ではない僕を、ただのリューを必要としてくれた。僕と兄弟になってくれるって……」
 ぬいぐるみを撫でているような優しさからもう一歩進んで、互いに互いだけを必要とする関係へと。
「僕はあの人だけのものなんです。だからあの人にも僕の……僕だけのものでいてほしい」
「お前は無様で、勝手だ」
「わかっています。それでも」
 それだけ言うと、リューは踵を返した。ファウストの手を引き離し、さっさとエミールたちの残った室内に戻る。今度はファウストも引き止めなかった。
 向こうに戻れば、きっとエミールとメフィストは何事もなかったように穏やかに彼らを迎えるだろう。二人はそういう性格だ。全てを水のように穏やかな流れの中に流してしまう。
 けれどそれは、ファウストからしてみれば欺瞞に思える。エミールたちの態度ははっきりとするべきところを曖昧にして、いざというときどうにでもなるよう誤魔化しているように見えた。
「所詮人間なんて、どいつも……」
 ファウストの独り言は、一人きりの室内だけが聞いていた。