顔のない男 02

9.偽りの平穏

 それはそれとして、基本的には廃ビルでの四人の暮らしは穏やかなものである。
「お前ら、今日の夕飯は何食いたい?」
「ハンバーグ」
「オムライス」
「お子様か」
「でも私もハンバーグがいいかしら」
「二対一、オムライスはまた今度な、殿下」
「う……いいよ、リューとメフィストがそう言うのなら」
 メニューが決まったところで、ファウストがキッチンに立つ。住居と言うよりはオフィスとして使用されていたらしいビルには台所と呼べるほど立派な空間はないのだが、それでもコンロがあれば十分だと、レジスタンスのリーダーは器用にフライパンを操る日々である。
「ファウストは凄いよなぁ、料理がこんなにうまいなんて」
「俺は忙しいんだ。できれば代わってもらいたいんだが、殿下」
 このメンバーで彼が鍋の取っ手を握るということにももう慣れた。エミールたちとしては意外だったのだが、ファウストとメフィストの共同生活では、もとからファウストが料理担当だったらしい。
「ここに来た当初、当然のようにリクエスト聞かれて固まったものな」
「そうだね、兄さん。まさか僕たちを拉致した相手にそんなこと聞かれるとは思ってなかったし」
「……うるさい。無駄口叩くくらいなら手伝え」
 怖い顔をしたファウストに睨まれて、本日も仕事のない二人は兄弟揃って立ちあがった。メフィストは相変わらずにこにことしながらその様子を見守っている。彼女だけはいまだに書類整理をこなしているのだ。それも量としては大したことがないので、手伝いを申し出たエミールは断られたところだった。
 男二人で暮らしていたのだから、エミールもリューも簡単な料理程度はできる。しかしファウストの腕前は、ほとんど一流のコックにもひけをとらないと言っていい。
『お前ら、何か食いたいものは――……あ』
 エミールたちがしみじみと回想したとおり、普段からメフィスト相手にそういう習慣が身についているというファウストは二人を連れて来たその日、当たり前のようにリクエストを聞いてしまったのだ。すぐに自分で気づいて口元を押さえたのだが、二人は目を点にしていた。拉致してきた相手に夕食の好みを聞く人間もあんまりいないだろう。ある意味、それで一気に二人の警戒心は緩くなったと考えてもいい。しかも同じ席についていたメフィストが、それが当然のように振る舞うものだからなおさらだ。
「そういえばファウストが料理上手なのはわかりましたけれど、メフィストさんはどうなんですか? ここに来て以来、一度もあなたがフライパンを握る場面を見たことがないんですけれど」
 付け合わせ用の野菜の皮を剥きながらリューが尋ねる。
「うふ。いつもありがとう、ファウスト」
「俺はいちばん最初にメフィストの料理なるものを見て以来、例えできなくても料理を覚えようと決心した」
「そ、そんなに酷いの?」
 間違ってもメフィストに調理器具を触らせるなと改めて厳命されたエミールとリューは、いつもにこやかな美女を眺める。常に聖母然とした微笑みを浮かべている彼女だが、本日の笑顔はどうにも笑って誤魔化せ仕様な気がしないでもない。
「でも、ファウストが凄いのは本当だよね。レジスタンスのリーダーってだけでなく、こうして料理もできて、頭も回る。それに強いし、あと……」
「兄さん……」
 連れてこられた時から、さしてファウストに敵意もないエミールがつらつらと並べる彼の長所に、リューが渋い顔をする。
「……別に、俺はそんな凄い人間というわけではない。だいたい、それを言うならお前は――」
 何事かを言いかけたファウストが、何を思ったか途中で言葉を途切れさせる。
「ファウスト?」
「……いや、なんでもない」
「まぁ、ファウストは確かに器用だけれど、でも最近は殿下も頑張っているわよね」
 書類整理を終えたメフィストが口を挟んだ。
「ファウストが忙しくなってきたから、最近の聞きこみはもっぱら私と殿下でやっているもの。凄いわよ。殿下は人当たりが柔らかいから、男性にも女性にもご老人にもお子様にも大人気なの」
「メ、メフィスト。そんなこと……」
 直接的に交際する気はないと宣言したものの、仄かな憧れの対象であるメフィストにそのように言われてエミールがまたも顔を赤らめる。
 しかそれを聞いて、リューは先程とはまた違った意味で顔を歪めた。心配そうに眉を下げて、彼はエミールに尋ねる。
「兄さん、大丈夫?」
「リュー?」
「聞き込みの最中、変な人に声をかけられたりしてない? 兄さん昔からそういうの多かったから心配で」
「してないよ! もうあんなことは流石に……大丈夫だから、心配しないで。お前こそ身体は大丈夫なのか? 力仕事なんて……」
「ううん。大丈夫。皆さん気を遣って簡単な仕事を任せてくれるから危ないこともしてないし、そう大変なこともないよ」
 実際は大丈夫を通り越し、毎日数百キロの箱を軽々と持ち運んで、モーリツ辺りから驚愕の目で見られているリューである。しかしエミールの前では、その少女めいた面差しに相応しい可憐な表情を浮かべている。
「……」
 麗しき兄弟愛?
 ファウストは黙ってそのやりとりを傍観している。メフィストもにこにことしてそのやりとりを見守っている。
「でも兄さんの方は、やっぱりあの時みたいなことがないとは限らないし……」
「心配ないよ。メフィストも一緒だし、俺は単なる引き立て役だから」
 そんなことはないと周囲は思っているのだが、エミール自身にはいまいち自分が美形だという自覚が薄いようだ。
 《兄》の性格を良く知っているリューの方は、やはり心配でならない。エミールを心配はするがエミールののほほんとした言葉の全てを無条件に信じたりはしないのがリューのリューたるところだ。
「そんなこと言ったって兄さん、二年くらい前、ストーカー被害にあったじゃないか」
「う」
「しかも男の」
「あう」
「男のストーカー?」
 興味を引く話題だったのか、ファウストまでもが話に乗ってくる。
「ええ。もう二年近い前ですけど、兄さん貴族の男に言い寄られていたんですよ。家を出たらその男とかその部下とかが、どこにでもいるという具合で」
「あれのおかげで、ぱっと見には家とわからないような路地裏のアパートに一度引っ越しをするはめに……」
 その時のことを思い出したのか、大人しそうな顔の割に気が強いリューはむっと眉間に皺を寄せて不機嫌な顔つきになる。一方のエミールは、もともと白い肌を今は蒼くしていた。
「それはまごうことなくストーカーね」
「美形は大変だな、殿下。脂ぎったオヤジにまで好かれて」
 誰も脂ぎったオヤジだとは言っていないのだが、ファウストは勝手に決め付けてそう言った。
「そんなこと……。でもあの頃は俺よりリューの方がいろいろと頑張ってくれて……まだ相当口が悪かったから、マシンガンのような毒舌で相手を追い払ってくれていました」
「それは目に浮かぶような光景ね」
 メフィストは能力的な配置上、エミールと組むことが多い。エミールが好意をもったのもそういった接触が多いからだろうが、対照的に、兄とは決して同じように仕事をすることのないリューとはそれほど共に過ごした時間は長くないはずである。それでもしっかりと愛らしい天使のような容貌の少年の、悪魔のような本性を見抜いていた。
「二ヶ月くらいそうやって付きまとわれて……最後に会ったのは、いつでしたっけ」
「確か春の終わり頃で、最後はリューが相手を殴ったんだよね。それでまた変な方向から因縁つけられても困るからって、王宮から持ち出したお金の残りをはたいて引っ越しをしたんだった」
 さりげなく自分も王宮から金品をかっぱらっての家出だったことを暴露しつつ、エミールはリューへと視線を向ける。
「それは……だって……」
「いいんだ。リュー。お前が俺を庇ってくれて嬉しかった」
「兄さん……」
 兄弟はそこでひしと見つめ合い、手を握り合う。ファウストとメフィストはもうこの光景には慣れっこで、のんびりとお茶を啜った。
「男のストーカーか……」
 ファウストが何事か考えるように小さく呟いたのを、隣にいたメフィストだけがとらえる。
 二人の世界に突入してしまった、エミールとリュー兄弟の耳には入っていない。本当の兄弟でないからか、その絆は強すぎるほどに強く、しかし本心の全てを明かしているわけでもない少年二人。リューが過保護なほどにエミールを守ろうとするのは、そんなエピソードがあったからなのかも知れないが。
 過保護な弟の発言は続く。
「でも、もうストーカー騒ぎはなくても、安心はできないよ。王宮からの追っ手とか……」
「それも心配ないよ。だいたい聞き込みは平民街と貧民街を中心として行っているから、私の顔を知るような人間はいないよ」
「世継ぎのギルベルト王子がすぐ次の年に生まれて、そちらばかりが注目されてきたからな。第一王子の顔なんか王宮の中枢に関わる者でなければ知らないさ」
 エミールの言葉を補足するようにファウストが言い添えた。
「そうですか……――えッ!?」
「リュー?」
 一度は頷きかけたが、あることに気づきリューは蒼白になった。いくつもの考えが頭の中を駆け巡る。
 第一王子エミールの顔は、王宮に入り込んで国の中枢に関わっていた人間しか知らない。
 ファウストはそう言った。リューもよくは知らないが、そのように思っている。実際にエミールのことは街の人間には全くバレずにこれまでやってきた。
 だがだとしたら、疑問が残るのだ。
 何故、ファウストはエミールの顔を知っていたのだ? 世間に出ない第一王子の顔を。
 王立議会に反対するレジスタンスのリーダー風情が、何故第一王子の顔を知っているのか。
 ファウストは何者だ? 
 彼はエミールの顔を知っていたが、ファウストの顔を知る者はいない。メフィストはともかくテオドシウスやモーリツたちにも探りを入れてみたが、誰もリーダーの素顔を知らないという。
 ちらりと横目でファウストを窺うが、失言に気付いていないのかわざとなのか、彼はいつも通り涼しい顔をしている。少なくともマスクの上からはそう見える。
 だが、やはり彼の素顔と同じく、ファウストの本心を知る者もまた、ここにはいないのだった。