顔のない男 02

10.鳥籠の鳥の絶望

 二年前――。
「困ります! あの、私は……」
「そんなこと言わないでくれ。一生不自由はさせない。ただ君のその美しい《顔》を、この先も傍で眺めさせてくれれば。君の欲しいものはなんだって用意するし、どんな願いだって叶えよう、だから――」
 その日、男はいつものように愛しの少年のもとを訪れ、彼をかき口説いていた。
 一目惚れだった。
 ある日王宮で見た少年は、あまりにも美しかった。
 透き通るような白い肌に、月光もかくやの銀髪は歩くたびにきらきらと眩い輝きを放つ。同じ色の睫毛は宝石のような翡翠の瞳に愁いを帯びた影を落とし、しかし白すぎる肌の上で病弱な印象を与えない薔薇色の唇が、控え目な笑みを刻んでいた。
 彼の隣にいつもいる淡い茶髪の少年に微笑みかける顔が一等綺麗で、綺麗で……だから男はどうしても、彼を手に入れたいと思ったのだ。
 しかしそのたびに、他でもない彼の笑顔を正面から与えられている稀有な立場である、茶髪の少年が男を阻む。
「だーっ! いい加減にしやがれこの変態ストーカージジィ! ウザがられてんのがわかんねーのか!」
 見染めた少年のもとに通い詰めた最後の日、男はその言葉とともに茶髪の少年に殴られて気絶した。貴族として護衛に屈強な男たちを五人ばかり連れていたのだが、その五人ですらも、あっさりと少年にやられてしまったというのだから驚きの話だ。そして少年たちはそのまま、二度と男に見つからないように夜逃げをしてしまった。
 男は悲嘆にくれた。貴族の権力をもってすれば彼を捜し出すことは容易いだろう。しかしこのままではどうやっても、あの美しい少年の心は手に入らない。
 男は美しいものが好きだった。その対象は宝石でも、絵画でも、男でも女でもだ。けれどあんなに美しい人間は、他に見たことがない。
 こんな伝説がある。実際に存在する絵画で、『暁の女神』という絵があった。これを描いた画家は絵の中の女性に恋をしていたという曰くつきの名画で、更にこの絵の中の女神に恋をした狂気の天才科学者ファウストという男が、絵の中の女性を現実に作り出すために遺伝子操作技術を飛躍的に発展させたという……。
 そこではたと男は思い当たった。
「そうだ、作ればいいんだ。彼が私のものにならないと言うのであれば、私だけのものになる、彼を」
 この時代、遺伝子操作技術の最高峰は王家お抱えの科学者だ。
 ヨハンと名乗るその科学者は、変わり者として有名だった。だが欲に取り憑かれた男にはそんな事実はどうでもよく、ただありったけの金を注ぎ込んで少年のクローンを作ってもらう依頼をとりつけた。
 男は幾度の邂逅の末に入手していた、愛しい少年の体の一部――髪の毛を科学者に差し出し、最高の技術で少年のコピーができあがるのを待った。
 この時代、科学技術は発達している。
 だが、倫理観に関しては退化していると言ってもいいだろう。技術の発展に人間の知識理解がついていけず、愚かな者はすぐにクローン人間を当人と同じように扱いたがる。更に人が人を蹂躙する事態に拍車をかけたのは絶対王制の復活と捉えてもいい。貴族たちが権力を持ち好き勝手に貧しい者たちを踏みにじる。踏みにじられる貧しい者とは単純な金銭問題だけではなく、病気や怪我などで一度社会から弾かれて後ろ盾を失くしてしまった者までもが含まれた。いわんや最初から存在全てを製作者に握られているクローン人間はその最たるものである。
 ヨハン博士は人格はともかく、科学者としての腕は一流だった。王宮の仕事の片手間に、男から得た髪からもとに、姿形は完璧なクローン人間を生み出した。もちろん赤子では話にならないから、貴族の求めるまま、肉体の成長を促進させる。二ヶ月も経てば外見上は本人にそっくりなクローン人間ができあがった。
 写真も見ずに髪の毛一本からクローンを作り上げた際、博士は男に対し不思議なことを言った。
「私の作ったクローン人間は完璧だよ。……ただ、覚えておいた方がいい。クローン人間とは遺伝子上は同じでも、完璧な本人のコピーとは行かないんだ。遺伝子情報が全く同じ別人。言うなればそう、一卵性の双子の兄弟みたいなものかね。だからこの子が彼とまったく同じにならなくても、私は責任は負いませんよ」
「何を言う。こんなにそっくりなのに。それでは連れて帰るぞ」
「はいはい。どうぞご自由に、依頼主様。それじゃがんばってね……E‐01」
「E‐01?」
「名前ですよ、この子の」
 ヨハンは自らが作り出したクローン人間の腕に、クローンであることを示す識別番号をつけていた。銀髪に翡翠の少年の遺伝子から作り上げたクローン少年の名はE‐01。
 よりわかりやすく呼ぶならば、英語で『ファースト』。
 クローン人間は本人とまったく同じ存在ではなく、遺伝子情報が同じだけの別人。ヨハン博士はそう説明したが、貴族の男ゼップルはそれをわかってはいなかった。
「何故言う通りにしない! あの人はそんな下品な仕草はしない!」
 屋敷に連れ帰り自分の所有物としたはいいものの、クローン人間はまったく言うことを聞かなかった。十五歳少年の標準の知識だけは博士が前もってインプットさせていたが、それ以外は全く手をつけていないまっさらな状態であった少年は、ゼップルの望みどおりの行動を取らなかった。
「何度言ったらわかる! 乱暴な言葉を使うんじゃない!」
 ゼップルの愛した少年本人でさえ彼の求愛をまったく受け入れなかったという事実は棚に上げて、ゼップルはクローン人間を自分の望みどおりになるよう調教しようとした。しかし誰も知らないだけでかの少年の元の性格はそうなのか、クローン人間はゼップルの言うことを聞かないどころか、屋敷の一室に監禁されるたびに脱走を企てた。
 それだけではなく、ゼップルがあの少年はああだこうだと彼とオリジナルの少年を比べるたびに、クローン少年はオリジナルと逆の行動をとるように努めた。本人にぶつけられない異常な趣味を彼に押し付けてくるゼップルはクローン少年E‐01にとって憎悪の対象以外の何者でもなく、彼は出来るかぎりゼップルに嫌われるようなことをして、ゼップルに自分を捨てさせるように仕向けたのだ。
 その目論見は半分だけ成功し、もう半分は思いがけぬ形で彼自身に降りかかってくることとなる。
「だから俺は貴様の言うなんとかなんて奴とは違うんだよ。わかったらさっさとこの鎖をはずせ」
 薄暗くされた室内。足首を寝台に鎖で繋がれた少年は横柄な仕草でゼップルに自分を解放するように要求する。
 これまでさんざん手を焼かせた望みどおりにならない《人形》を前に、彼が爛々とその瞳に狂気の光を湛えていることにも気づかずに。
「お前はそんなに、私のことが嫌いか」
「ああ、嫌いだ」
「どうあっても私の望みどおりにする気はないんだな」
「考えても見ろよ。なんで俺が、てめーみてーな脂ぎったおっさん相手に足を開かなきゃならねーんだよ。まったく、正気じゃねーぜ」
「ああ、正気ではないさ……いつもいつもいつも、お前が私を狂わせる――」
「またそんな言いがかりを――あんた、その手に持っているのはなんだ?」
 本人どころかクローン人間の愛すら手に入れられない。誰も私の思い通りにはならない。身勝手な欲望を押し付けた挙句、振り向かない少年とそのクローン相手に不満を募らせたゼップルにとってはもはや全てがどうでもよかった。
 その自暴自棄は、彼よりも彼の周囲の人間にとって不幸な方向へと彼を走らせる。
「永遠に私のものにならないというのならば、いっそ――」
 鎖に繋がれて自由に身動きできないE‐01がゼップルの手にした硝子瓶に気付いた時はすでに遅かった。震える手で蓋を開けたゼップルは、中身の硫酸を生意気なクローン少年の顔に呪阻の言葉と共にぶちまける。
「うわぁああああああああああ!!」
 酸が肌を焼く強烈な痛みに、少年の口から悲鳴が上がった。その悲鳴に被せるように、ゼップルの口からは狂った笑い声があがる。
「ははははは。はーはっはっはっはっは! いい気味だ! この低俗な失敗作め!」
「お前!」
 しかし硫酸をかけられた少年はそのままではいなかった。激痛に喘ぎながらもゼップルの首にとびかかり、そのまま彼の首を絞める。分厚い肉に阻まれたがこんな時ばかりヨハン博士が知識として彼にインプットしていた人間の急所が役立つ。
 ぎりぎりと締め付けられた肉の下、骨が軋む。どくどくと脈打っていた心臓が止まるのを、掌で聞いた。
 もがき苦しむ男が伸ばした爪の先が頬をかする。しかし焼かれた顔はもはやその程度の痛みは感じなくなっていた。
「……っ、」
 最期に男が何を言いかけたのか、何を言いたかったのかもわからないまま、これまで自分を苦しめてきた男は、いとも容易く絶命する。
 しかし彼に残されたものは、いっそ自分が死んでいれば良かったと思うほどの地獄だった。

 ◆◆◆◆◆

「君に関して何かあれば、それが例えどんな問題でも私に連絡するよう頼んでいたんだよ」
 仮にも主であった人間を殺したクローン人間の人権を保障してくれるような奇特な組織は、この世にはない。しかしこの事態を見越して、科学者ヨハンはすでに手を回していたらしい。
「やれやれ、災難だったねぇ。その顔はもちろん、君の全身に走る傷を見ればよくわかる」
 主人であるゼップルの望む行動をとらなかったたびに、仕置きと称して身体につけられた傷の数々。
「俺、は……」
 寝台に横たえられていたE‐01は、ヨハンの言葉にようやく体を起こす。運び込まれてしばらくは放心状態だったが、ようやく目覚めて頭が働いてきた。
「怪我は一生、それこそ皮膚を張り替えでもしない限り治らないけれど、包帯はすぐにでもとれるよ。……見るかい? 自分の……」
 科学者はそう言って、彼に鏡を手渡した。
「包帯をはずすよ……心の準備はいいかい?」
 言われてぱらりぱらりと、白い包帯が外されていく。
 あんな男を殺したところで、何も感じない。
 けれどあの男によってつけられた最も大きな傷は、彼の心を打ち砕くには十分だった。
「ッ、ぁ、ぁああああああああああ!!」
 暴れ出そうとする彼を科学者が押さえつける。寝台の端に腕を強くぶつけた音がしたが、暴れる彼はその痛みも感じていないようだった。
「俺の顔、顔が……ッ!!」
 眼球や視力にこそ影響はなかったもの、彼の顔は大量の硫酸をかぶったことで、顔面ほぼ全域の皮膚が爛れている。もはや作られた当初の美少年ぶりは見る影もない。
「ああああああ、あああ、ああ……」
 ひとしきり暴れると力を失って、すすり泣くばかりになった彼に科学者は食事の支度をしたことだけ言い置くと、あとは一人でゆっくり休むといいと告げて部屋を出て行った。
 暴れた拍子に床に落ち、砕けた鏡の破片がきらきらと輝いている。
 ぼんやりとそれを見ていた彼は、ふと思い立ちその中の一欠片を手に取った。
 持つには手ごろな大きさで、断面がナイフのように鋭く、先端は尖っている。今これで頸動脈を切れば、結果は言うまでもない。
 俺の《顔》は奪われたのだ。
 どうせこの先生きていても――。
 鏡の破片を手にした彼は、しかしそこでふと室内の何かが光を反射したことに気付く。最期だというのにやけにその光が気になって、出所を探した。
「写真……」
 光を反射したのは、写真のつるつるとした表面だった。何もかもが電子データでやりとりされるこの時代には珍しく、専用紙に印刷されている。日光に当たるようなところに置いていてはすぐに劣化してしまうと思うのだが、あの科学者はその辺りは案外ずぼららしい。
 そして写真の中の人物に、彼の眼は吸い寄せられた。
 銀色の髪、翡翠の瞳。気品を感じさせる面差しと華奢な肢体。
 それは彼の原型である人物。
 ゼップルはかの少年の詳しい素性を知らないようだったが、ヨハンは知っていたのだ。一緒に置かれていた紙に書き添えられていた文章を見て彼は思わず呟いた。
「第一王子、エミール……」
 クルデガルド王国第一王子、エミール=クルデガルド。それが彼のもととなった人間の名前。
 ――いい気味だ! この低俗な失敗作め!
 ゼップルに言われたことを思い返す。彼を見ては、あの人とあれが違う、これが違うと文句しか言わなかった傲慢な男。
 あの男の狂った言葉が真実だとは思わないが、すくなくともこの写真の中の存在が彼の狂気を加速させたのは事実だ。
「低俗な失敗作の原型は、高貴な王子様、か……」
 《顔》を奪われた? 
 笑わせる。
 あの《顔》は元から、自分のものなどではなかったのに。
「あははははは! あーはははははは!」
 死の直前のゼップルのように、彼もまた笑った。一人の男の狂気によってこの世に生み出された人形が一つ壊れたところで、しょせん誰も気には留めない。
 置き去りにされた部屋の中に都合よく揃っていた衣服を身に纏い、誰にも気づかれないよう外へと出ていく。
 こんな人生、このまま生きていても仕方がない。
 でも、こんなことで死んでしまうのも癪だった。誰かの勝手な都合で生み出され、いらなくなったら顔に酸をかけられて捨てられる? とっさに男を殺したものの、このまま自分も死んだらまるであの男の考え通りの行動をとるようだと彼は思った。
 だから、そんな道は選ばない。
「俺は……あの《顔》を奪う」
 奪われたから奪うのだ。一度も自分のものではなかったその《顔》を取り戻す。
「どんなシナリオなら満足が行くんだろうな。何せ低俗な失敗作とは比べ物にならない、高貴な王子様だからな」
 この腐りきった、存在する価値すらない国の血を引く王子様に、自分の《顔》を生まれながらに奪い続けていた男に、最高の復讐を。
 その憎悪だけが、唯一今の彼を支える道だった。