第3章 妄執の檻
11.王子と少年と仮面の男
「夢……?」
ここ数日、計画が順調すぎるくらい順調に行っていたために、少し油断していたようだ。ファウストは起き上がり、目元をこする。
「……ちっ」
ついついやってしまう仕草なのだが、当然のように触れたのは変装用マスクの特殊なゴムの感触だった。いくら見た目はそれと知られないよう皮膚に似せているとはいえ、手触りまで本物のそれではない。
改めて周りを見回せば、アジトとしている廃ビルの自室だった。横になっていたのは寝台ではなく長椅子で、起き上がった拍子に足元に薄い上掛けが落ちた。
コンクリートがむき出しの廃ビル。確かに贅沢をできる身分ではないのだが、私的な部屋の中でさえも、ファウストはそのまま使っている。殺風景な色をした部屋に、簡素な必要最低限の家具しか置いていない。その無機質な部屋の中から、主の性格を特定するようなものはほとんどなかった。
ただ、小さめのチェストの引き出しの中には、彼が普段使う仮面がごっそりと収められている。
けれどそれこそが、あるいはもっとも彼の個性を奪うものでもあり――。
「顔でも洗うか……」
起き上がり、一度伸びをしてファウストは洗面所に向かった。計画はこれから大詰めなのだ。今は情報待ちの面が大きいとはいえ、トップである自分がのんびりしていていいわけはない。ましてや悪夢の一つなどで、勝手にネガティヴになっている場合ではないのだ。
冷たい水で顔を洗って目と共に気持ちも冷まそうと、鏡の前に立つ。
鏡のない洗面所は存在しないと思うが、ファウストは鏡が嫌いだった。上半身が映るそれは、残酷なまでに彼の素顔を映し出す。《顔》のない、顔を。
変装用の特殊なマスクを外し、カラーコンタクトも外す。髪は染めているのだが、ほぼ毎日色を変えているために水で簡単に落ちる染料だ。ついでだからシャワーを浴びてしまうかと、洗面所ではなく風呂場に向かう。
シャワーを浴びると、本来の彼の髪色があらわになった。マスクと肌の境目を誤魔化すための化粧も流れ落ちていく。熱いお湯の感触は心地よいのに、全てを剥がされるようなこの瞬間が不安でもある。
油断をしていたのだ。
装うことには常に慣れていたのに、大切な計画の最終段階で詰めを誤るなどどうかしている。
起きた瞬間、上掛けが滑り落ちたあの時に気付けば良かったのだ。その気もないのに寝入ってしまった場合、上掛けなど普通掛けているわけがない。そして現在この建物には、彼とメフィスト以外にも人がいる。あれは誰かが掛けてくれたもの。
「ファウスト、メフィストがちょっと聞きたいことがあるって――」
エミールは大らか過ぎるくらい大らかな性格だ。ノックさえすれば返事が返ってこなくてもとりあえず部屋には入ってくるような。それを忘れていた。
「……ファ、ウスト……?」
風呂上がりで下だけ身につけ、寝台の上でマスクを外したまま髪を吹いているその姿。
「ご、ごめ――」
「見たな! 俺の《顔》を!」
エミールが我に帰るよりも、ファウストが現状を把握する方が早かった。彼はエミールに向けて躊躇いなく腕を伸ばし、その首を締めあげる。
濃硫酸で焼け爛れたファウストの《顔》は美しくはない。それどころか、おぞましいと言ってしまえば同じような怪我をした者に対して失礼ではあろうが、悪意を持って潰されたその顔は、そうとしか言いようがないものでもあった。顔にいつも青痣を作っている貧民街のごろつき共ならともかく、もとは王子という箱の中の更に箱の中で育てられたような存在から見れば尚更だろう。
ましてやファウストの顔立ちは、元が美しい少年であるだけに物悲しい。
「ファウスト、私は……!」
「黙れ! お前に何がわかる!?」
責めているのはファウストの方なのに、まるでその声は悲鳴のようにエミールには聞こえた。
首元を掴みあげられているエミールは息が苦しい。けれど咄嗟に目を逸らすこともできず、至近距離からファウストの《顔》をまじまじと見つめてしまった。
いつも染料で染めた髪や鬘、カラーコンタクトに変装用マスク、ときにはその上から仮面をつけて装う顔ばかりを見つめてきた。今エミールの目の前にあるのは、ファウストの本当の《顔》である。
顔のほぼ全域にわたって皮膚が焼け爛れている。瞼もだ。しかし眼球に傷はなく、その瞳の色はエミールと同じ翡翠色だ。
染料の洗い落された髪は銀髪だった。
それが何を意味するのか。
ファウストはこれまでも様々な姿で皆の前に現われたが、銀髪に翡翠の瞳という組み合わせだけはしたことがなかった。エミールと同じ色彩だけは、その身に宿すことはなかった。
皮膚が爛れていても、エミールにはその姿を見てわかった。
「君は、まさか……」
「ああ、そうだ」
これは鏡に映った自分自身の姿。
「俺は、お前のクローン人間なんだよ」
◆◆◆◆◆
宮廷科学者ヨハンのもとを飛び出したはいいものの、世間の様々な事情をインプットされた知識でしか知らないE‐01が生きていける場所などなかった。
まともな名前すら持たずについには行き倒れていた彼の前に、赤毛の美女が現れる。路地裏に座り込んでいた彼を、彼女は自分のねぐらへと案内した。
そして彼の話を聞き出すとともに、自分の身の上も語る。自然と、二人は寄り添いあって生きていくようになった。
名前はE‐01、ファーストだと言った彼に彼女はこう言った。
「英語の一番? でも、それは人名ではないわね。だから、こう呼ぶことにしましょう。今日からあなたは《ファウスト》よ」
◆◆◆◆◆
ファウストはエミールを床に引き倒し、その上に馬乗りになって銃をつきつけていた。
これまで気の休まらない日々を送ってきた影響で、常に銃だけは手放さず身近に置いているのだ。自室であってもそれは例外ではない。ただ今回だけは、銃を手近に置いておくより、マスクを置いておけばよかったと銃を突き付けている本人であるファウスト自身がそう思った。
エミールは呆然としている。床に引き倒した際に肩のあたりを打ち付けていたはずだが、その痛みも感じてはいないようだった。
ただ仰向けになったまま自分の上で銃を構えているファウストの顔面を凝視している。その白い頬に、拭きかけだったファウストの髪からぽたぽたと雫が垂れる。
湯はすでに冷えて、髪から垂れる雫ももちろん冷たい水だ。それが落ちる先のエミールの肌は、滑らかな皮膚。ファウストの火傷で爛れた顔とは比べ物にならない。
ファウストの瞳は無事だが、瞼は火傷の被害に遭っている。だから、片目が上手く開かない。
その瞳を見つめるエミールの瞳はこれもまた、美しい宝玉のような翡翠の瞳。銀髪ばかりは二人に大きな差はないが、だからといって何の救いにもならない。
「クローン人間……」
「ああ、そうだ」
まだ呆然としているエミールに、ファウストはこの際だと全てをぶちまける。
「お前たちが以前話していたストーカー。あれが、俺の制作依頼主だ」
「え……?」
「簡単に言えば、お前に振られて自棄を起こした馬鹿な貴族が、お前そっくりのお人形を作ってくれって、性格悪い科学者に依頼したんだよ。そうして出来上がったのが、この俺だ」
打ち明けられた真実を、エミールは信じられないといった顔で聞いている。
「あの人が……」
「そうだ、お前に付きまとっていた変態ストーカー」
ゼップルと言う名の、王立議会に知り合いまでいる貴族。エミールはそんな基本情報まで知らなかった相手だ。そこまでファウストは説明する。
「俺は生まれてようやく二年ってところだ。二年だが、知識は世間の十七歳と同じ程度には持っている。そういう風にインプットされて、生み出されたからな」
引き金にかけた指を外さぬまま、エミールを見下ろしてファウストは凄絶に笑う。
崩れた顔面は、普通の人間のような細かな表情までは再現してくれない。けれど声の抑揚や瞳の陰りで、エミールにはそれがわかる。
それがわかるくらいには彼とも近づいたつもりでいて、けれどまったくファウストのことをわかってなんかいなかった。
「世間に出て、俺は腐っているのがあの男だけじゃないことを知った。貴族どころか、平民までもが貧民街の人間を馬鹿にするようなこの国。スラムの連中は、そうと名づけられていないだけの奴隷みたいなもんだ。そして一部の貴族と王族が利権を貪り、平民がそのおこぼれに預かる中で貧民たちは金も健康も命も搾取されて死んでいく」
語るうちに段々とファウストの口調には熱がこもり、激情がその瞳にも現れる。
「あんただって知っているだろう、殿下。カトリーンたちの事情を。孤児だったところを拾われて改造人間とされたもの、貧民街出身の男などに医者の資格はやれないと言われたもの、軍人だったが前線で傷を負い、研究動物にされたもの、売春でしか生きていく術のない、貧民街の女たち……この国は、腐っているんだよ。そしてその膿が、俺のような存在を作り出す」
引き金にかけたファウストの指に、力がこもる。
「お前たちみたいな貴族が人を人とも思わず勝手をするせいで、俺みたいな奴が玩具のように作り出されては、都合が悪くなれば捨てられるんだ!」
「――!」
実感のこもった糾弾に、もう襟首は掴まれてはいないのにエミールは息苦しさを覚えた。生まれて二年とはいえ、貧民街に身を隠しながらレジスタンスとして一代組織を作り上げたファウストは恐らくエミールよりも世界を知っている。それがこの国の中という狭い範囲であったとしても。
慟哭のような彼の叫びは、彼一人ではなくこの国の様々な境遇にある者たちの苦しみを背負った叫びだった。
弱い者は搾取され、いいように使われるだけ使われて、何一つ感謝をされることもなく打ち捨てられる。
「殿下、俺はあんたじゃない。あんたにはなれないし、なりたくもないと思ってた」
引き金から指を外し、ファウストは銃を持つ右腕を身体の脇に垂らした。しかしそれで敵意まで消したわけではない。
「俺は俺だ。だが……見ての通り俺には《顔》がない」
エミールがはっとした。しかしファウストは彼に言葉を紡ぐ隙を与えず、淡々と、しかし有無を言わせぬ強さで続けた。
「生まれたその瞬間から、俺はあんたのコピーだった。いや、違うな。あんたのコピーとして生み出されたから、それ以上の価値がない」
だけど、と彼は更に言葉を続ける。
「俺は、俺として生きたい。エミール王子のコピーではなく、ファウストとして生きたい」
なのにそれは、エミールから全てを奪わねば叶わないのだ。この《顔》を持つ者がこの世に一人にならない限り、この《顔》が自分のものにならない限りファウストはファウストとして生きられない。
単純でそれ故、切なる願い。
「だからお前のその《顔》を、その存在を俺にくれ……!」
ファウストはエミールの顔の両脇に手を付き、上体を倒した。口付けでもするようにエミールの顔を真上から覗き込む。彼の体の影がエミールの顔に落ちた。
影の中で、何かがきらりと光を反射する。
「……何、泣いてるんだよあんた。俺の情熱的な告白に感激でもしたか?」
得意の皮肉で、涙を流すエミールをファウストがそう揶揄する。
「ごめん……」
「あんたに謝ってもらったところで、俺は――」
「でも、ごめん」
エミールの涙は止まらない。銀の睫毛を滑り、後から後から溢れて来る。ファウストの体の脇からエミールが手を伸ばし、自分の上にのしかかるような体勢のファウストの背に腕を回した。
「っ」
エミールの顔の脇についた両腕で自分の体重を支えていたファウストは、思わずバランスを崩してそのままエミールの上に乗り、抱きしめられる形となる。
「な、何を……」
そうなるとにわかに慌てだしたのはファウストの方で、慌てて上から退こうとするが彼を強く抱くエミールの腕がそれを許さない。
そうしておいてエミールは気の利いた言葉やファウストを言いくるめられるような空々しい謝罪をするでもなく、もちろんファウストの言ったことに対し、自分は何も知らなかったのだから責任はとれないと強く出るのでもなく、ただ言った。
「私は……知らなかった……私がリューと楽しく暮らしていた間に、お前がそんな目に遭っていたなんて」
「……ああ、そうだろうよ。普通の人間は突然同性にストーカーされたあげくそいつが自分のコピーを作って弄んでいるなんて想像しないもんだ」
「ごめん、ファウスト、ごめん……」
「エミール……?」
ファウストはこの事を、エミールに明かす気などなかった。
もしも明かすとしても、それは全てが終わった時だと。計画が上手くいき、何もかも取り返しがつかなくなってから明かして、この王子様を絶望させてやるのだと。
こんなところでくだらないうっかりでエミールにバレてしまうのも予想外ならば、このエミールの反応自体も、ファウストが予測していたものとは違うような気がする。彼の想像の中ではエミールは、自分のクローンの前で自分は関係ないと自分の関わりを否定するか、そんなことあるわけないと事実を拒絶するかのどちらかだと……彼がこれまで関わってきたいくつもの事件では、普通の人間の反応はそういうものだった。
だがエミールの実際の反応はどちらでもなかった。
「ごめん、ファウスト……辛い思い、させた……私のせいで……」
「あんたのせい……?」
すべてすべて、エミールのせい?
本当にこの出来事はエミールの責任だったのだろうか。ファウストが作り出され、ゼップルにいいように遊ばれ、虐待された数々の出来事は全て。エミールが存在するから、だから彼が全て悪い?
「そうだ。あんたのせいだ。あんたがいるから、だから俺は作り出された。あんたが綺麗だから、あんたがあの男の欲を煽ったから、あんたが……」
エミールが存在するから悪い。彼の存在そのものが悪だ。
だが彼にそう告げることは、ファウスト自身にもその存在自体が罪だと告げているのと同じことではないか?
その問から都合よく目を瞑り、ファウストはエミールに囁く。
「これがあんたの責任だと言うのなら、あんたは俺に借りがあることになるな」
「……ああ」
涙はまだ止まらないながらも、ようやくファウストの体から腕を離したエミールは頷く。二人は身を起こし、改めて向かい合った。
「悪いと思うなら償え、殿下。あんたの持っている全てで」
「私のすべて……? だが私は、何も持ってなんか……」
「あるじゃないか。この」
ファウストはエミールの、まだ濡れた頬に手を滑らせる。一瞬表情を強張らせたエミールだが、黙ってその手を受け入れた。
「御自慢の顔が」
エミールの顔に自らの口を近づけ、零れた涙を舐めとりながらファウストは言う。
「王宮の人間と連絡をとれ」
「王宮の……でも、私は王家では……」
「日蔭者の王子様でも、下働きに知り合いの一人でもいるだろ? うちの組織は決して大規模じゃあない。そもそも横流しの武器で面目を保っているレジスタンスがまともに正規軍とやりあって勝てるわけがないんだ。だから、クーデターを起こす際には突破口が欲しい。内部の人間から通路の入り口を開けてもらえれば、事が起こしやすくなるだろう?」
「そっか……」
ファウストの言葉に、エミールも納得した。
「どうせあんたはクーデターを起こした後はもう今までのように街中に住むことはないんだ。生きていることが一部の人間にだけ先にバレても大した違いはないはず。俺に悪いと思っているなら、俺たちの組織に役に立ってくれよ、殿下」
「ファウスト……」
また一粒、ぽろりとエミールと瞳から涙が零れる。
ああ綺麗だな、とファウストは思った。それは彼の顔がとても綺麗だからに違いない。たぶん自分が涙を流しても、こんな風に綺麗ではない。
そんなことを思いながら、トドメにファウストは告げた。
「そうすれば、あんたの大事なリューは生かしておいてやる」
エミールが目の色を変えた。
本当は、エミールが彼を大事にすればするほどファウストの中でリューに対する憎しみは募っていた。生意気なリュー自身が憎いのではなく、あくまでもエミールが彼を大事にするからこそ。
全てが終わったら、あの少年はエミールともども引き裂いてやるつもりだった。改造人間の腕力は厄介だが、ファウストとて伊達に強化人間や動物の遺伝子を埋め込まれた者たちが多く所属するレジスタンスの纏め役を務めているのではない。対策ならいくらでもある。
ともどもというよりも、むしろエミールの目の前であの少年を引き裂いてやったらそれこそどれだけ胸がすくだろう。そんな風にまで思っていた。
「頼むから、あの子にだけは手を出さないでくれ。リューは何も関係ない! 悪いのは、みんな私なんだ」
「ああ、わかっているよ。お優しいあんたは大事な《弟》のためなら、実の父親である国王も、異母弟である王太子も、義理の母親である王妃の命も売ってくれるんだろう?」
王家の情報を漏洩し王宮への潜入口を作るというのはそう言う意味なのだと告げれば、しばし顔色を悪くしたエミールは、それでも最後には頷いた。
「ああ……わかったよ、ファウスト……」
「いい子だ、エミール」
諦めたように俯いたエミールのその額に、ファウストはキスを送る。額に親愛のキスを送るのはよくある習慣だが、相手が相手であることと、ファウストのそこも爛れている唇の感触はエミールの身体を悲しい予感に震わせた。
「自分の愛した人間のためなら実父も異母弟も売るなんて、あんたはとんだ悪党だな。いや、とんだ偽善者と言うべきか」
言うファウストの口調は、皮肉な内容とは裏腹にどこか悲しげだ。
彼に恨まれているとは知ったが、全てが終わった後に殺されるとまでは気付いていないエミールはその悲しげな響きの意味まではわからない。
「国を解放するなんて名目の上に盗みを働き、人殺しをするレジスタンスの旗印には、お似合いだよ……」
そして復讐に取り憑かれた男の方も、多少順序は変わったが予定通り憎い相手を殺せるはずなのに、何故自分の言葉に悲しげな響きが含まれるのかわかってはいなかった。