顔のない男 03

12.兄弟

「なぁなぁ、ファウストの奴はここ最近どこに行っちまってるんだ? 全然アジトに顔を出さないじゃないか」
 クーデターの計画は大詰めだった。
 アジトとしている廃ビル、ファウスト、メフィスト、エミールとリューにとっては住居でもある建物内でレジスタンスの彼らは細かな調整をしていた。ここには集まらないような小さな各部隊に対する指令書に落ち度がないか確認したり、使う重火器の点検をしたりしている。
「え、あの、ファウストですか? もうしばらくは出て来れないみたい……だ」
「そうか。確かに重要事項の連絡だけなら通信で済むが……あいつこの建物に住んでるんだろ? 顔ぐらい出してもいいんじゃないかと思うがねぇ……」
 アロイスのぼやきに反応し、モーリツがひょいと割り込んだ。
「顔と言っても、ファウストはいつも仮面じゃないすか。だったらわざわざ顔出しする意味なんかないと思ってるのかも」
「そうかぁ。そういうもんでもねぇとおっさんは思うんだがなぁ……」
 ここ数日姿を見せないリーダーに対し、推測に意見を述べる二人を見つめるエミールの表情は暗い。
 ファウストがレジスタンスのメンバーの前に直接姿を現さなくなったのは、エミールが彼の《顔》について知ってしまった後からだ。正確には、その後命じられた王宮への渡りをつける約束を果たした後からだった。ファウストは姿を晦まし、メフィストが現場の指揮を代行するようになった。晦ますとは言ってもリーダーの役目を放棄したわけではなく、細かい指示は通信などで絶えず寄こされる。
 それでもエミールは気が重かった。ファウストの現在の行方は、彼も知らない。けれど彼が姿を消した理由は恐らく自分のせいだ。
「ねぇ、殿下、最近元気なくない?」
「え?」
「そうよねぇ。私も気になってたんだけど」
 カトリーンとゾフィーの二人が、エミールの両側から顔を出す。
「ここ最近ファウストの姿が見えない……そしてエミール殿下が元気がない。まさか殿下、リーダーと何かあった?」
 鋭いゾフィーの指摘に、エミールは表情を凍りつかせた。女性と言うものは何故こうも勘が良いのだろう。
「まさか、リーダーであるのを盾にして迫られたの殿下!? もしそうなら言いなさい殿下! いくらファウストでもその時は私の鞭でしっかりとお仕置きしてあげるからね!」
「え? えええええ?! ち、違いますよ!」
 思わず室内の全員が手を止めて二人のやり取りを見ている。このままだと別の方面でファウストに関するおかしな噂が広まりそうだ。
「じゃあ何? 何があったの!?」
 どことなく目をきらきらさせて尋ねてくるゾフィーに対し、どう答えたものかとエミールが逡巡したその時、部屋の扉が開いた。
「誰を鞭でお仕置きするんだって? ゾフィー」
「あらやだ、ファウストじゃない。いつ来たのよ」
「たった今だ。ちょっと出かけていてな」
 室内に入ってきたファウストはいつも通りの変装だ。この上なく地味な男の顔をした彼を見て、エミールはわずかにほっとする。
「ほら、これ」
「なぁに?」
 入って来た時から肩にかけていた大きな鞄をファウストは彼らに示してみせた。中を開けて、入っていたものを取り出す。
「王宮の正確な見取り図だ」
 室内に一気に緊張が走る。アロイスもモーリツも手を止め、奥の方にいたテオドシウスやメフィストも集まってきた。
「殿下が渡りをつけた人物からこれを受け取り、当日の潜入経路に関しても確認してきた。これで王宮に殴りこむ手筈は万端だ」
「いよいよだな、ファウスト」
「ああ」
 テオドシウスが見取り図を受け取り、ファウストに確認する。
「これはコピーを作るべきか?」
「いや、王宮の見取り図なんてものの複製を簡単に増やすのはまずいだろう。この地図は回せないが簡略図くらいは作って、各部隊には中で迷子にならないような確実な指示を渡してやれ」
「そうだな」
「と言っても作戦のメインは王宮を囲んでの正規軍との戦いだ。彼らの守護防壁を突破して王宮に殴りこむまでが本題となる。当日は末端の部隊を、ここにいる幹部でそれぞれ率いることになる。お前ら、覚悟はいいか?」
「ああ」
「やれやれ、人遣いが荒いぜ」
「大丈夫っすよ、ファウスト」
「了解」
「当たり前でしょ」
 テオドシウス、アロイス、モーリツ、カトリーン、ゾフィーの五人は問題なく頷く。
 ファウストは残りの三人へと目を向けた。
「メフィスト、お前は本陣で待機。いざという時に撤退の指示を出すのはお前だ」
「わかった」
「それに殿下と坊や」
 エミールが緊張した顔を、リューが不機嫌な顔を向ける。
「お前たちは俺と一緒に来い。王宮の最奥に乗り込む」
「それって……」
「あんたの親父から直接王冠を奪いに行くって意味だ、殿下」
 ファウストの言い様に、エミールは萎縮する。この組織に加担すると決めた時から父たちを敵に回すのは明らかだったが、こうもはっきりと言われてしまうと動揺せずにはいられない。
「ちょっとちょっとリーダー、その言い方はないですよ! あたしたちにとっては他人でも、国王は殿下にとってはお父さんなんですよ!」
 別の場所で二人きりならば更に言葉でネチネチと責められたかもしれないが、幸いというか、ここには人の目があった。
「そうよ、ファウスト。大事な作戦だ気を引き締めろ、って言いながら、あんたが一番動揺させるようなこと言ってどうするのよ」
 カトリーンとゾフィーがファウストを窘める。これがアロイスやモーリツ辺りなら皮肉でやり込めたかもしれないが、女性陣相手にはファウストでも分が悪いらしい。ふざけたように両手をあげて降参の意を示す。
「おっと、そうだったな。悪かったな、殿下。当日は俺と一緒だから安心しろ」
 それが一番不安になりそうなことをわざと言って、ファウストはちらりとエミールに視線を向ける。変装用マスクの下からでも、その表情が決して友好的なものではないことをエミールはもう知ってしまった。
 ファウストは簡単な指示をそれぞれに出すと、再びどこかへ出かけると言って部屋を出て行った。

 ◆◆◆◆◆

 部屋を出たファウストを追いかけて赤毛の美女が踊り場に姿を見せた。階段下にいる彼を引きとめて声をかける。
「ファウスト。……本当にこれでいいの?」
「何がだ? 計画は順調に行っている。どこに不満がある? 殿下のおかげで、全て上手くいきそうなのに。お前だって貧民街で餓死していく孤児を見てはこの国の現状を憂えていたじゃないか? それがもうすぐで改善される。少しずつでもこの国を良くしていける。それのどこが不満なんだ?」
 普段から皮肉屋のファウストだが、やましいことがある時は特に饒舌になる。それを知っているメフィストは、「誤魔化さないで」と階上から年下の少年を窘めた。
 廃ビルの階段の踊り場。コンクリートはむき出しで殺風景なのは他の場所と変わらないが、踊り場には窓があって、そこから昼の日差しが差し込んでいる。踊り場に立つメフィストはその容姿の美しさもあり、淡い金色の光を受けてまるで女神のようだった。
 だがファウストには、階下で跪き彼女に懺悔するような意志はない。所詮彼女は作り物の女神。
 そして彼自身も、人が作り出した、決して天国になど行けない紛い物の命だ。
「私が言っているのは、この国のことじゃなくて、あなたと殿下のことよ」
 ファウストはメフィストに対しては全てを打ち明けていた。エミールに自分の素顔を知られ、素性をバラしたことも。
 皮肉なものだと彼は思う。メフィストを女性として愛しているエミールではなく、もとは同じ顔であるが彼女に対して何ら含みを持たない自分がこうして一番メフィストと近しい間柄なのだ。しかしそれでエミールが嫉妬の一つもすればまだファウストの溜飲が下がるかもしれないところ、エミールがそんな性格ではないこともファウストは知っている。
 あの王子様と不出来なコピーである自分はどこまでも相容れない。
 だからもういい、全てを終わらせてしまうのだと。
「良いも何も、初めからこうする予定だったじゃないか。全てが終わったら俺は殿下と入れ替わり、玉座に着く。あいつを殺して」
 言いながらファウストは、変装用のマスクと鬘に手をかける。
 その下から現われた容貌にメフィストは目を瞠った。
 銀髪に翡翠の瞳、その顔はエミールそのもの。
「……治したの?」
「ああ。これでここ数日顔を出さなかった訳がわかるだろう? 今日の朝、ようやく包帯がとれたんだ」
 ファウストの今の顔はエミールと全く同じだが、別に彼はわざわざエミールの顔に整形したわけではない。硫酸で火傷を負った皮膚を貼り替えただけだ。
 しかし顔はそうやって取り戻せても、容易には手に入らないものもある。だからファウストは、ここまで全てを計画してきたのだ。
「今度こそ俺は、エミールの全てを奪い、その存在になり変わってやる」
「違うわ! ファウスト! そんなことをしても、あなたが望むようにあなたの望む《顔》が手に入るわけじゃない!」
 両手を胸の前で組み、メフィストは必死で呼びかける。
「あなたが今やろうとしていることは、あなたがあの男に要求され続けたことではないの!?」
 お前なんかあの人の低俗な失敗作だ。そうゼップルに言われたこと。彼はそんなことはしない、そんなことは言わないと、オリジナルのエミールと違う行動をとるたびに虐待された。
 完璧にオリジナルになり切れ、と。
 ファウストがエミールに成り変わろうとするのはそういうことだとメフィストは告げる。
 しかしそれに対してファウストから返ってきたのは、彼女自身耳に痛い糾弾だった。
「黙れ! 貴様に何がわかる! 暁の女神! 諸悪の根源め!」
 怒鳴られて、彼女は身を竦ませる。ファウストのこの剣幕にはもう慣れた。決して女性や子どもや老人といった弱者に手をあげるような性格ではないと知っている、彼自身が怖いわけではない。
 彼女が今なお怯んでしまうのは、その言葉自体の内容だ。
「ファウスト……」
「メフィスト。望まれて作り出されたお前と違って、俺には俺としての価値など存在しない。エミールの全てを奪わなければ、俺には一生、この存在としての真実など手に入れることはできない」
 固く拳を握りこむファウストに対し、メフィストは悲しげな顔を向ける。憂いの表情が似合いすぎる彼女は、ファウストが彼自身の価値を得るためには何よりもエミールとは違う自分自身を認めなければいけないと思うのだが、それをうまく伝えられない。
 おそらく彼女の口からでは、何を言っても無駄だろう。先程のように怒鳴られて終わりだ。
 だからまったく別のことを言った。
「オムライス」
「は?」
 この場面で何故出てくるのかわからない単語に、ファウストが一瞬呆ける。ぱちぱちと翡翠の眼を瞬く彼に、メフィストは告げた。
「殿下に今度と約束したのに、あなた、作ってないでしょ? 約束を破るのはいけないことよ。だってそれは嘘をつくことだもの。真実とは遠いでしょ? あなたが真実を得たいと思うなら、まずは殿下にオムライスを」
「今日のメニューは別なんだが……」
 呆けたままついついそんな風に返してしまったファウストは、しかし次の瞬間ハッと気を引き締める。苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「……もう、あいつらのご機嫌をとる必要なんかないんだ」
 最初からファウストはエミールやリューとの機嫌をとるというよりも、ただ自然体で彼らとの生活をそれなりに楽しんでいた。少なくともメフィストの眼にはずっとそう見えていた。
 だがファウストの方では、今はそれを認めることはできないようだった。

 ◆◆◆◆◆

 日々はあっという間に過ぎ去り、クーデター決行の当日はすぐにやってきた。王宮襲撃を明日に控えた夜、エミールはアジトの一室から外の景色を眺めていた。
 最終調整に入ってしまったような仕事はさすがにエミールの手には負えない。他の人間が忙しく動き回る中、彼はぽつんと一人アジトに取りのこされていた。
 駆け足で過ぎ去る時間に流されたまま、植物も少なく肌で感じる温度でしか季節の移り変わりを感じられないような街で、彼らのレジスタンスと出会った頃から一つの季節が過ぎようとしていることを窓の外の景色に知る。
「もうすぐ冬になるんだな」
「そうね。寒くなると士気が落ちるし、体調を崩す者も多くなるわ。かといって、この国でこれ以上の時間をかけた計画を立てるとなると、今回の冬を越せない者が多く出るかもしれない。だからもう、この時期にやるしかないのよ」
 エミールと同じように居残り組のメフィストが、独り言のようなエミールの言葉に応じる。居残りとは言っても、彼女の役割は明確だ。エミールを監視しろと言われてこの場に残された。リューの方はファウストが連れて行ってしまった。
「この国を変えるのは、貧民と呼ばれ蔑まれ、困窮し続けてきた人たちの願いよ」
 レジスタンスを構成するのはもちろん、現在の体制に不満を抱いている貧民と、一部の問題を抱えた平民だけだ。詰めの甘い軽率な行動をするわけにもいかないが、体力的にも経済的にも長期戦は厳しい。
「わかってる。本当にすごいな、ファウストは」
 エミールの口調はいつも通りだが、いつものように言葉に感情が籠もっていなかった。僅かな差異に気づきそっと顔をあげたメフィストをエミールはじっと見つめている。
「メフィストは知っているの? 全てを」
「全て……ファウストがあなたのクローン人間であることも、彼があなたの身代わりとして虐待されていたことも、あなたを憎んでいることも?」
 穏やかに問い返したメフィストに、がたりと音を立ててエミールは席を立つ。その顔は青ざめている。
「本当に知って……」
「ええ。聞いたかもしれないけれど、私はファウストの一番古い仲間、彼の共犯者とも言える存在だから」
 それを聞いて、何かを堪えるように一度目を瞑ったエミールはもう一度それを開いたとき、意を決したように尋ねた。
「メフィストはどう思っているんだ? 彼が私のクローンだということを」
「どうでもいいことだと思っているわ」
 あっさりとメフィストは言った。
「私にとって、ファウストはファウスト、あなたはあなただもの。顔が同じ遺伝子が同じ。だからなんだというの?」
「……そうだよ、な」
「でも、ファウスト自身はそう思わない」
 悲しげにメフィストは断言すると、瞳を伏せながらエミールにこう頼んだ。
「殿下、お願い、彼を救ってあげて」
「え?」
「私では駄目なの。私が何を言っても、あの子の傷を広げてしまうだけなの。あなたでなければ……きっとあなたでなければ、ファウストの心は救えない」
「そんなこと、私には……」
 思いがけない言葉に、エミールは視線をさまよわせる。メフィストも俯いたままだった。言葉は交わしても、相手の眼を見て会話ができない。まだ今は。
「ファウストは……私から見て彼は、とても素晴らしい人物だ」
 長いとは言えない僅かな間の出来事を思い返すように、再びエミールは瞳を閉じた。
「レジスタンスのリーダーとして立派にみんなをまとめて、人望があって、頭が良くて、度胸があって、強くて」
「料理ができて実は整理整頓が得意で子どもに優しくて?」
「そう」
 くす、とメフィストがそこで初めて微笑んだ。エミールも相槌を打つ。
「……リューにはそうでもないけど、最年少のカトリーンには優しいんだよね、ファウスト」
「そうね、あなたも優しいけれど、ファウストも決して冷酷な人間ではないわ」
「何もできない私と全然違う、どうして彼が私のクローンなんだろうと不思議に思うんだ。ファウストはそんなこと、全然気にする必要ないのに」
 瞼裏に激昂したファウストの歪んだ顔が見えるようで、エミールはゆっくりと睫毛を震わせた。
「どうしたら伝えられるんだろう……大事な人に、大事なことを」
「……」
 答を出せないまま、彼らレジスタンスにとって最後の夜が更けていく。