顔のない男 04

18.遺言

 エミールが糸の切れた操り人形のように、突然その場に膝から崩れ落ちる。
「エミール!」
 それで呪縛が解け、ファウストの方も煙をかきわけ彼へと駆け寄った。しかし残念ながらファウストの気苦労はそこで終わりではなかったようで。一度銃を下ろしたエミールが今度は自分自身へと銃口を向けたものだから堪らない。
「何を!?」
 はじめは殺そうとしたはずの相手だということも忘れ、ぎょっとしたファウストは咄嗟にエミールの腕ごと銃口を掴みこめかみから狙いを逸らす。暴発した銃はエミールの脳天ではなく、肩をかするに留まった。
 最後の一発を使い果たしたエミールの手から、銃が滑り落ちる。銃身を掴んだ手のひらに軽い火傷を負いながら、ファウストはエミールを思い切り怒鳴りつけた。
「何を考えているんだ! この馬鹿!」
 それを言うのならば自分自身もだと思ったが、それに関しては都合よく無視した。ただ突如として自暴自棄な行動をとったエミールを責めようとして――その頬を流れるものに気付いた。
「殿下……」
「もう、いいんだ……」
 エミールはそれだけを繰り返す。今までにファウストが見た事のない表情だった。
「もう、何もかも……どうでもいいんだ」
 ファウストはエミールの手首を押さえつけたまま、ギルベルト王子にこの事態を収束させるよう指示を出した。彼はこれまでエミールに何を言い含められたものか、本人が危惧したよりもあっさりとファウストの指示に従う。
 第三者がいなくなり、ファウストはようやく落ち着いてエミールに話しかけた。
「殿下……」
「……リューが死んだ」
 銃弾がかすったエミールの肩の手当てをしてやらなければと思うのに、彼は動かない。
「殿下」
「もういいんだ」
「そんなこと」
「だってリューはもういない」
 まるでそれが全てだというようにエミールは言う。
「だからもう死んでもいいんだ」
 何につけてもリューのことを優先しながら、しかしリュー自身の口ぶりからすれば彼が強化人間であることを知らなかったらしいエミール。ファウストたちから見ても異常だと思えるような愛情。けれど確かにエミールはリューを愛していた。
 彼の死と同時に、自分自身の生きる意味すら手放してしまえるほどに。
 咄嗟に怒鳴りつけようとしたファウストは、しかし息を吸う内に冷静になる。考えてみればこれはまたとないチャンスではないか? 彼にとって何よりも殺したかったエミール。その彼が今、ファウストが手を下さなくても勝手に死ぬ気になってくれている。
 罪悪感、という言葉が頭に浮かんだ。このまま死ぬ気になっているエミールを殺せばそれは軽くなるだろうと。しかしもう一方で別の自分が叫ぶ。そもそも苦しめて殺すことが目的だった相手に対し、罪悪感など持つ方が間違っている。
 ファウストは懐に手を伸ばし、予備の薬莢を取り出した。エミールから取り上げた自分の銃に補填し、俯いているエミールの頭に突き付けようとする。
 するのだが。
「……できない」
 腕がそれ以上動かなかった。銃を取り出したところで終わり、体の横で力なく項垂れている。
 そんなファウストの様子も知らず、エミールが口を開いた。
「……ねぇ、ファウスト。私のこの顔が、この名前が欲しいなら、あげる」
「え……」
 思いがけない言葉にファウストがそのままの姿勢で凍りつく。エミールは俯いたままで、輝く銀髪に隠されて表情が見えない。
「王子という身分も……平民上がりの妾の子だから人が期待するほどのものじゃないかもしれないけれど、きっとお前ならうまくやれると思うから」
「エミール」
「あげる。全部。お前が望むなら」
「何を馬鹿な事を!」
「だってこれが、この《顔》がお前はずっと欲しかったんだろう? 大丈夫。今なら何もなかったことにできる。お前は生き残った第一王子エミールとして、王になってこの国を治めればいい。……考えてみれば、それが一番いい方法じゃないか。誰にとっても」
 レジスタンスを纏め上げていただけあって、ファウストは駆け引きに長けている。今すぐ政治家になったって、王立議会の妖怪たちに負けるはずはない。
「ふざけるな! お前が言ったんだろう! 人は決して自分以外の人間には――誰かの代わりになんてなれないと!!」
「けれど私はこれから死ぬ。だったらどうせ、この顔を持つ人間は君ひとりだ。これから死ぬ人間のことなんて、どうだっていいじゃないか」 
 何の動揺もなく、当たり前のようにエミールは言った。
 彼の声は凛として美しく、耳に心地よく響く。けれどそれは寒々とした冬の空ほど透明で綺麗に見えるようなもの。
「私はリューだけが欲しかった。あの子さえいれば生きていけた」
 そこでようやくエミールは顔をあげる。ぐしゃぐしゃの泣き顔を想定していたファウストの予想は外れ、彼は案外冷静な顔をしていた。涙の跡もすでに乾いている。
「ファウスト、お前は私が憎かっただろうけれど、でも私にとっては、お前たちと過ごしたこの秋が人生で一番楽しかった」
 ふふ、ともはや遠くの夢を見るように懐かしげに微笑んで、エミールは彼にとっての遺言を続けた。
 もはや説得などできはしまいと諦めて、ファウストはエミールの言葉を聞く態勢となる。
「みんなで食事して、メニューを決めるのに多数決とったりなんかして……楽しかった。モーリツやカトリーンたちだって仲良くしてくれて……あんな経験今までしたことがなかったら、みんなみんな楽しかった」
 そこで一度言葉を切り、エミールはこれまでとは違った、拗ねたような調子で言う。
「ファウスト、結局あの後私のリクエストは作ってくれなかったな」
 オムライスはまた今度。メフィストにも言われたことをファウストも思い出す。恨めしげな口調とは裏腹に未練などまったく見せずに、エミールはただただ愛しげに、反政府活動に手を染めながらでも、穏やかだった日々を回想する。
「殿下……」
「私にとっては、あの日々だけが宝物。私を幸せにしてくれた……夢」
 しかし夢はいつか必ず醒める。
「だから……いいんだ。ファウスト。私の中ではお前は今も、これからも永遠に《ファウスト》だけれど、お前が《エミール》になりたいなら全部あげる」
 これまでファウストが己の人生のほぼ全てで呪ってきたエミール=クルデガルド。
 ファウストが望んで望んで、狂おしいまでに求め続けたその顔、名前、存在、そんなものをあっさりと手放そうとしているエミール。
 けれど不思議と、それに対するエミールへの憎しみはファウストの中には湧かなかった。
 エミールの遺言は続く。
「《顔》がないのは――仮面を被って素顔を隠していたのは、お前だけじゃないんだ。私だって、リューだって、たぶん他のみんなだって……」
 ちゃんと自分の《顔》があるくせに、人は自分ではない誰かになりたがる。
「……そうだな」
 ファウストは静かに相槌を打った。
「ねぇ、ファウスト。お前のこと知ってから……クローンとかその辺りの技術に関しての本とか読んだりして、一応私なりに調べたんだ。クローンって、遺伝子が全く同じもう一人の人間を生み出す技術だけれど、それは双子の弟を作り出すようなものなんだって」
 一卵性双生児は、一つの受精卵が何らかの理由により二つに分かれたために生まれてくる双子のことだ。この二人は遺伝子が全く同じだが別々の一人の人間であり、それはクローン人間も同じことである。クローンはオリジナルの人間のコピー。そう考えられる限り今の社会でクローン人間の人権はないも同然だが、こう考えればまた違うだろう。
 クローン人間ファウストは、エミールとは別の時間別の場所に生まれた、それでも双子の弟なのだと。
「お前も私の《弟》だ。大事な大事な……」
 ファウストが目を見開く。
 その瞳はエミールと全く同じ翡翠色。
 先程弾がかすめた肩の傷が熱を持ってきたのか、エミールの口調が舌足らずな怪しいものとなってくる。気持ちというよりは体力的なものから見上げる姿勢に疲れたようで、再び俯き始めた。その瞼はゆっくりと閉じようとしている。
「私のずっと欲しかった……私の家族……」
 意識が完全に落ちる寸前、エミールの唇がそれでも何事か紡ごうと動く気配を察して、ファウストは彼の口元に耳を寄せた。
「ごめんね、リュー」
 王子として、うまくやればこの国の全てを手に入れられると言われていた少年が最後に囁いたのは、今は亡き最愛の《弟》の名前だった。
「エミール……」
 閉じられた瞼、乾いた涙の跡の上からまた新しい雫がゆっくりと伝ってこぼれおちた。
 意識を失ったエミールの耳にファウストの言葉はもう届かない。
 たぶんこのままクーデターが成功しても、エミールを生かしたまま玉座につけたとしても、何一つ彼の胸には響かないだろう。
 それだけのことを彼に対してしたのだと、ファウストは今、ようやくわかった。
 月並みな言い方ではあるが、自分の罪の重さをようやく自覚したのだ。
「何も知らず……何もわかっていなかったのは俺の方か……」
 妄執の檻に捕らわれて、飼われていたのは自分の方だ。
 自分を生み出した人間が憎かった。自分を生み出させたこんな世界が憎かった。王侯貴族が権力を振るい、貧しいものから好きなだけ搾取するこの醜い世界。それならばいっそ壊して、好きなように作り変えてしまおうと思った。そう思っていたのは自分だけではなかったらしく、テオドシウスやゾフィー、アロイス、モーリツ、カトリーン……多くの人々の賛同と協力をファウストは得た。
 けれど今の今まで気づかなかったことがある。
 自分たちの「普通」の幸せの下に誰かの人生を踏みつけにしていること。それに気づかない平民街の人間たち。クローンが作られては虐げられていることなど知らぬ、オリジナルの人間たち。彼らはみんな勝手なのだと、ファウスト自身、勝手に思い込んでいたのだ。
 エミールが全てを知ったとき、クローンであるファウストのために泣いてくれる人間だと、ファウスト自身だって思っていなかった。
 王子として生まれたから勝手に傲慢な人間だと決めつけて……それはファウストを作り出したゼップルが、彼をただエミールのコピーとして扱いたかったこととどう違うのか。
 いつの間にか忌み嫌っていた人間と同じことをしようとしていた。
 顔も名前も、その存在すら要らないと言ったエミール。彼にとって必要なのはそのどれでもなく、ただ愛しい弟であるリューの存在だけだった。それを奪わせたのは、ファウスト自身。
 ある意味、復讐を果たしたと言えるだろう。どちらが望んだのでもないという形で。
 この世は悲喜劇に満ちている。自分の人生はなんて滑稽な喜劇なのだろうとファウストは思った。
「それでも俺は欲しかった。エミールの《顔》、エミールの名前、エミールの存在が……」
 顔のない男は、ただ《顔》だけを探し続けていた。
 何をおいてもそれが欲しかった。何を犠牲にしても、誰を犠牲にしても。
 自分の《顔》が欲しかった。
 探していたものはこんなにも近くにあると気づかずに。
「大嫌いだよ、エミール。俺はずっとあんたを憎んでいたんだ。今更撤回なんてできるわけがない……」
 ファウストとエミールと、エミールの大事な弟であるリューと、メフィストの四人で過ごした時間。食事のメニューで喧嘩して、メフィストに恋心を抱くエミールをからかって、それに拗ねるリューを宥めて。
 今更口が裂けても言えるわけがない。あの時間が本当は楽しかっただなんて。
「結局作ってやらなかったな……オムライス……」
 守らなかった約束。
 それに、一抹の後悔を覚えているだなんて。
 そもそも俺は、もともとあんたの機嫌を取る必要なんかなかったんだ。だって。
「俺はあんたに、復讐をしてやるんだ。そのために生きていたんだから……兄さん」
 ファウストは外と通信を繋ぐために、懐へと手をやった。