顔のない男 04

19.喪う顔への餞

 何かとても悲しい夢を見ていた気がする。
 大切な人たちが次々に自分の手をすり抜けて、いなくなってしまう夢。
 ゆったりとした穏やかな日々、この瞬間に時が止まればいいのにと思うような安息は、しかし長くは続かなかった。何の不満もなく楽しく過ごしていたはずの時間から、気がつけば弟たちはどこか彼の知らない場所へと去って行ってしまうのだ。
 彼を置き去りに。
 ――じゃあ、僕もう、逝くね。さよなら、兄さん。
 淡い茶髪の少年が振り返り際そう言った。そんなイメージと共に、彼は目覚めた。
「待って、リュー……!」
 叫びながら宙に手を伸ばし、その先にあるのは少年の華奢な背中ではなく、無機質な灰色のコンクリートがむき出しになった天井だと知った。
「ここは……」
 ゆっくりと身を起こしたエミールは、寝台の上から部屋の様子を眺めて確認する。落ち着いて見てみれば、そこはいつもの廃ビルの一室で、エミール自身に割り当てられた部屋だった。
 と、そこまで思い出したところでハッとした。アジト。部屋。そんな単語が意味を持つのは、彼がレジスタンスと関わっていた間だけだ。最後の作戦はどうなった? ファウストは? それに――。
「リュー……」
 亡くした《弟》のことまで思い出し、エミールは瞬間息をつめた。彼を失った痛みはまだ胸に残っている。おそらく一生、消えないだろう。
 それどころか彼を追って死を決意したはずの自分が何故この場所に戻ってきているのか。混乱するエミールの耳に、部屋の扉をノックする音が届く。
「あ、ああ」
「殿下、起きていたのね。入るわよ」
 片手に盆を乗せて部屋に入ってきたのは、赤毛の美女だった。メフィスト、と彼は名を呼んだ。
「肩、大丈夫? もう熱は下がったようだけれど」
 言われてエミールは初めて自分が怪我を負っていたことに気がついたが、それよりも確認したいことがあった。
「メフィスト、ファウストは――それにみんなはどうなったんだ? なんで私はここに……」
 メフィストはその問に、口で答えようとはしなかった。その代わりに、リモコンをとって部屋の隅に備え付けられたテレビをつける。
「テオ、アロイス……みんな……」
 画面の中に、エミールは見慣れた顔触れが並んでいるのを見た。第二王子ギルベルトとレジスタンスの幹部メンバーたちの幾人かが、特設会場めいた場所で何事か喋っている。だがそこにファウストの姿はない。
「クーデターは成功したのか、じゃあ……」
 その時、画面の下の方にテロップが流れだした。左から右へと抜けていく白抜きの文字に視線が吸い寄せられる。
 国王死亡、王妃死亡、王弟死亡。
 第一王子、エミール=クルデガルド殿下死亡――。
「我々は王国の変革をここに宣言する! 絶対王制は終わりを告げた! クルデガルドは、これから民主主義に生まれ変わる!」
 力強く宣言するテオドシウスの声が、テレビから流れてくる。ギルベルトはレジスタンスへの賛同者として、これからは一般市民として彼らを支えていくことを宣誓していた。
「これは、どういうこと……」
 エミールは死んだ。クルデガルド王国第一王子であったエミールは。では、ここにいる自分は誰だ。
 ずっと、自分ではない誰かになりたかった。
 ずっと、エミールになりたがっている人間が一人だけいた。答はたぶん、わかっている。
「ファウストはあなたになりたかったの、エミール」
 その答を、メフィストは口にした。聞いた瞬間に様々な物事がエミールの中で繋がり、胸の空洞を風が通り抜けていくような痛みを与えた。
「彼はずっと、あなたの《顔》を欲しがっていたわ」
 顔のない男は、《顔》を欲しがっていた。この世でたった一つ、エミールの顔を。
 けれど。
「そんなこと……」
 エミールの《顔》は、決して良い意味だけを持つのではない。妾妃の子である第一王子の存在は王国に波乱をもたらすものでもあったし、レジスタンスから見れば所詮王族として一緒くたにされる。その証拠があのテロップだろう。
 ファウストは《エミール》として、彼の身代わりに死んだのだ。
「どうして……」
 寝台の上で膝を抱え、エミールは突っ伏した。涙が上掛けに染みていく。
 どうして、そんなことをしたんだ、ファウスト。
 この顔が欲しいならあげる。確かにエミールはそう言った。だがそれは、ファウストに自分の身代わりとして死んでほしいなんて含みのあるものではなかった。
 どうせ要らない顔なのだから、ファウストはエミールの《顔》のメリットだけを持っていけば良かったのだ。デメリットまで引き受けなくたって……
「それでも彼は、あなたになりたかったの。どうしてもあなたの顔が欲しかったのよ、エミール」
 そうまでしてエミールになり変わりたかったファウスト。
 欲しかった。どうしてもどうしても欲しかったもの。
「彼は言っていたわ。これがあなたへの復讐だと。リューのことも、自分が連れて行くと」
 エミールはハッと顔を上げた。メフィストは彼が倒れた後にファウストのとった行動を説明する。
 彼は王宮の人体改造研究施設を全て爆破した。もともと仕掛けの設置だけはリューがしていたので、そのスイッチを入れただけだ。そしてファウストは彼自身も、炎の中に消えた。
 兄とずっと一緒だと約束したリューが、独りでは寂しいだろうから、と。
 みんな、みんな逝ってしまった。ファウストもリューも、エミールの手の届かない場所へ。
「あなたの《エミール》としての人生は、全てファウストが持って逝く。自分の《顔》を奪われた彼が、今度はあなたの存在をこの世から奪ったの」
 そしてエミールは、エミールではない何者かとしてこの世界でこれからも生きていく。
 それが最高の復讐だと……。
「私との約束、守ってくれてありがとうね」
 ふいにメフィストが言ったことに、エミールは反応できなかった。
「ファウストを救ってくれて、ありがとう」
「私は、そんなこと……」
 救えなかった。救えなかったからこそファウストを死なせてしまったのではないかと思うエミールに、やわらかく諭すようにメフィストが告げた。
「いいえ。彼、言っていたわ。誰よりもあなたが自分を認めてくれたから、ファウスト自身も自分の存在を認めることができたんだって……エミール殿下、あなたはファウストがなんでもよくできると褒めていたけれど、ファウストは、彼にできることは元々あなたが才能として持っているものだから、あなたももっと、自分にはできることがいっぱいあるんだって、信じてって……」
 メフィストの口から語られるファウストの言葉に、エミールはそっと瞳を伏せた。
 これはファウストの遺言だ。
 なんでクローンである俺がオリジナルのフォローをしているんだ、と呆れて肩を竦める姿がありありと眼の前に描けそうなほど彼に対する印象は鮮明なのに、ファウストはもうどこにもいない。
「――私たち、二人だけになってしまったのね」
 あの王宮襲撃作戦の際には前線に出ず、あくまでも後方支援に徹していたメフィストはこうして無事だ。
「テオたちには、簡単に事情を話したの。こうなった以上はもう、あなたを王にすることはできないから、一から国を作りかえるんだって。みんな物凄く頑張っているわ。幸い、王族の生き残りである第二王子が協力してくれているらしいし」
 これから先、国の中枢に関わって生きていく彼らと、身を潜めていかなければならないエミールとはきっと、もう会うこともないのだろう。
「……そう言えば、どうしてメフィストはここにいるんだ? 向こうにいなくていいの?」
 向こう、とテレビ画面の中継映像を差したエミールに対し、メフィストは曖昧に微笑む。
 ここに来てようやく、エミールは彼女のことをほとんど何も知らないことに気付いた。
「メフィスト、君は一体何者なんだ……?」
 ファウストはエミールのクローン人間。リューディガーは強化手術を受けた改造人間であり王弟ゲオルグの子飼いの暗殺者。
 だが、メフィストは? ファウスト自身は彼女と彼の関係は、エミールとリューの関係のようなものだと言っていたが。
「……私の存在は、この世界の誰もが知っているわ」
 そう言ってメフィストは、自らの胸の前で手を組んだ。祈るような姿勢になる。彼女の背後には窓があり、淡い光が無骨な窓枠の模様を床に落としている。
「かつて一人の狂った画家が、命を賭けて女神の絵を描きだした。それに狂った一人の科学者が、絵の中の女神を現実に生み出そうとして、遺伝子操作技術を発展させた」
 赤い髪、青い瞳。
 メフィストの容姿を、どこかで見たことがあると思っていたのだった。
 当たり前だ。その幻の名画は王宮の一番目立つ場所に飾られている。悪魔の絵とも呼ばれ、レプリカですら数が少なく、しかもそのうちの一枚はこのアジトで見たのではないか。
「まさか……」
「二十年前に死んだ狂気の科学者《ファウスト》、彼が作り出した人造人間、それが私なの」
 メフィストというのはファウストに合わせて考えた偽名、その本当の名前は。
「私はアウラ。暁の女神アウラよ」
 絵の中の女神に限りなく似せるよう遺伝子を操作されて生み出された女性。
「絵の中の女神……幻の聖女と呼ばれた、あの……」
「そうよ。だから私という存在は、決して表に出ることはない」
 そして彼女は誰も、それこそファウストも知らなかったようなことを話し出した。
「私を生み出したファウスト博士が死んだ後、王宮の研究者として後を継いだヨハン博士の下で私は育てられたの」
「じゃあ、もしかしてずっと王宮に?」
「ええ。奥の方に隠されていたからあなたと会ったことはなかったけれどね、エミール」
 王宮が実家だという感覚はエミールにもない。だが、十年以上実は同じ場所と分類される空間で彼女と一度も顔を合わせることなく一緒に暮らしていたというのは、不思議な感覚だった。
「そしてファウストが作られた後、博士は私に彼の面倒を見るように頼んだの。王子殿下のクローンをそのままにしておくことは危険だからって。でもファウストがレジスタンスを作りこの国にクーデターを起こそうとしてると知っても、あの人は何も言わなかった」
 いつも二人だけでわかりあい、通じ合っていたように見えたファウストとメフィスト。けれど二人の間にも隠し事は当然あった。
「私は偶然を装ってファウストに近づき、彼のやることを手伝ったわ」
「あの、ヨハンって人は、今は……」
「さぁ。どこに行ったのか、そもそも生きているのか、私にもわからないわ……」
 彼もまた、この時代に翻弄され、どこか好んで時代に流されていたような人物だった。ファウスト博士とは違った意味で狂気の科学者と呼ばれたヨハン。時代の犠牲者であり、そして加害者だった自分を自覚する男は闇へと姿を隠したのかもしれない。
「ねぇ、エミール。これからどうするの?」
 メフィストの問いかけは、エミールが死にたいと言ったことも、ファウストが彼を一度は殺そうとしていたことも、何もかもを包み込んでの問いかけだった。
「私は……」
 妾妃の腹から生まれた、望まれぬ第一王子。王家の中に味方はおらず、王宮から逃げだした。その先で最愛の弟と出会い、今また彼を失った。
 リューの存在だけでなく、エミールとしての《顔》さえも――。
 けれどエミールは、ファウストが自分の《顔》を奪ったというようには思わない。エミールとしての存在の払うべき重みを全て持っていった代わりに、ファウストはエミールの虚ろな穴を埋めてくれた。
 リューが愛して、ファウストが生かしてくれたこの命。
「《俺》は生きるよ」
 宣言したエミールを、メフィスト……否、アウラが優しく見つめている。
 今更ながら昼間の陽光が窓から差し込んでいることに気づき、エミールはふとそちらへと視線を向けた。床に落ちた陽だまりは、冬の気配が訪れようとしている部屋の中に、温もりを生み出している。
 窓の外の空は、眩しいくらいに鮮やかな青だった。リューの瞳の色と同じだと思った瞬間、また涙が浮びそうになるのをぐっと堪えた。
 ――兄さん。
 夢の中でそう呼びかけてきたのが、どちらの《弟》なのかもわからない。あるいは、二人ともかもしれない。
 秋は終わり、冬が訪れるこの国はまた厳しい時代へと向かおうとしている。国の体制が変わると共に経済状況も変わり、これまで国内で戦うことだけを考えていた元レジスタンスメンバーたちは、今度は自分たちが外交問題について考えねばならなくもなる。上層部が落ち着くまでは今少しの時間が必要だろう、その間にどんどん人々の暮らしが悪くなるかもしれない不安もある。
 けれどエミールは冬が好きだった。リューと出会ったのもこの季節だ。
 凍てつく風は冷たいけれど、冬の向こうには必ず春が待っている。ファウストと出会った秋を越え、リューと出会った冬を迎え、その向こうの春を。
 アウラと二人、今なら信じることができると思った。

 了.