いつか素晴らしき未来で

3.変わらぬ海で

「海に行きたい?」
「そう」
 次の日はアルケイドの方から出かける場所を指定してきた。
 シャストンの話によれば、タイムマシンの調整にはまだ時間がかかるという。
「おかしいのう」
「どうしたの? おじいちゃん」
「システムの破損は少ないし、理論もほぼ完成しているのじゃが、それにしてはコンデンサーに溜めた電力があれだけで空になったのが不思議なんじゃ。何か計算間違いしたかのう……」
 アルケイドが元の時代に戻れる日はまだ遠いらしい。こちらの手違いで呼び出してしまったご先祖様を土地勘のない場所に一人で放り出すのもなんなので、エコーディアが昨日に引き続き彼にとっての未来のあちこちを案内することになっていた。
「この時代の技術を見るのも楽しいけど、少し実感が湧かなくて……。自分にとって馴染みのある場所に行きたいんだ。アーレの海を見たいんだけど、ミシュア海岸は遠いかな?」
「えーと、結構距離はあるけどエアバイクに乗ればすぐ行けるから大丈夫。でもこの季節じゃ泳げないよ?」
「ただ、海を見たいだけだから」
 自分だったらもっとあちこち目新しい場所を回るのになぁと思いながらも、エコーディアはアルケイドの望み通り、海へ出発した。
 マグル・アルケッセは二百年前にアルケイドが住んでいた王国が滅びた後その場所に建てられた都市だ。幸いなことに、アルケイドの思い出があるというミシュア海岸はそう遠くはない。エアバイクならば一時間で着く。
 エアバイクに荷物を積んで、またしてもエコーディアの運転の後ろにアルケイドを乗せて家を出発した。
 アルケイドの指定したミシュア海岸は都市から少し離れていて、港も何もない本当にただの海だ。絶えず空気を浄化しているはずだがどこか煙っぽくて息苦しい都市中央部とは違い、べたつく潮風が吹きつける中にも開放感がある。
「見えてきたよ」
 エアバイクを海岸沿いの道路に止め、まずは砂浜へと降りた。
ミシュア海岸は黒い砂浜に波濤の砕ける岸壁がそそり立つ、鈍色の海だ。青い波と白い砂浜が広がるという南の国の海とは違い、見た目にはお世辞にも美しいとは言えない。この海も大戦の影響で汚染されているのだ。
けれどアルケイドは、エアバイクから降りてすぐに、エコーディアを待つこともなく灰黒の砂浜へと駆けこんだ。
「アルケイド?」
 昨日街中を歩いた時には確かに興味津々ではあったが基本的に落ち着いていて、こんな風に行動で感情を見せることのなかったアルケイドの様子にエコーディアは戸惑う。
「ここ……凄く懐かしい。全然変わってないんだね」
「ええ。大戦の影響でこの近辺の海域はもう汚染された魚しかとれないから港も作られないし」
「そうか……」
 鉛色の海を見つめるアルケイドの横顔は、とても大人びて見えた。子どものように無遠慮に無防備にじっと彼を見つめているエコーディアに気づいて、彼は苦笑しながら言った。
「昔、サリーナとここに来たんだ。サリーナのことは知っている?」
「サリーナ・ガートランド? それ、ご先祖様だよ。その人があなたの子どもを産んだ、あたしたちのご先祖様」
 アルケイドと深い仲にあり、後に彼の子を身籠った娼婦の名がサリーナ・ガートランド。彼女が、自分が産んだのはアルケイドの子だと言ったことから、今のエンスレイ家はある。
「そうか……。私にとって、子どもを残す可能性があった相手と言えばサリーナくらいしか思いつかないから、そうじゃないかと思っていた」
「そういえば、アルケイドはそのことずっと聞かなかったね」
「君たちも教えてはくれなかっただろう? いや、いいんだ、わかっている。私がここで未来の事を知り過去の歴史が変わってしまうことを恐れたんだろう? タイムスリップと聞いた時点でそのことが思いあたって、こちらも何をどう質問しようかと迷っていたんだ」
 どんな話でも深い部分を尋ねられると困った顔をするエコーディアに、アルケイドはそうフォローを入れた。どうやらシャストンの思惑は天才と名高いご先祖様には早々にバレバレだったらしい。
「ごめんね。あんまり説明もしないで連れ回すだけ連れ回して」
「今日ここに連れてきてくれと頼んだのは私だよ。それに昨日も楽しかった。未来の世界がこんな風になっているなんて、想像したこともなかったよ」
 それに、と彼は続けた。
「だからこそ君たちは私に必要以上の余計な情報を与えないよう気を使っているんだろう? もしも私がこの時代の技術を過去に持ち帰り兵器の一つも作れば、国の一つや二つ簡単に滅ぼせてしまうだろうからね」
 自分とよく似た癖っ毛のエコーディアの頭をアルケイドは優しく撫でた。
 この時代の技術を持ち帰れば、国の一つ二つ滅ぼせるというアルケイド。しかし彼は間違ってもそんなことはしないだろう。未来の技術など知らずとも天才発明家だった彼は、戦局を有利にする兵器を作ることができた。それを拒否して国に目をつけられ、処刑された――。
 この人は死ぬのだ。エコーディアたちの今生きている時代からすればとうの昔に死んだ人ではあるのだけれど、今髪を撫でてくれる温もりが永遠に失われる、それがエコーディアにはうまく想像できない。
 彼を過去に帰すというのは、つまりそういうことだった。アルケイド・エンスレイは戦争協力を拒否した罪で処刑される。その過去に、エコーディアとシャストンは彼を送りだそうとしている。
 そうしないと過去の歴史が世界レベルで変わってしまい、シャストンやエコーディア自身の存在にも影響がある。それでもエコーディアは、このままアルケイドを二百年前の彼のいた時代に帰すことが正しいのかどうか迷い始めていた。
「あのね、アルケイド、あのね」
「あっ」
 意を決して話しかけようとしたエコーディアの言葉を遮り、アルケイドは東の崖に目を向けていた。
 木の杭の間を針金で繋いだだけの背の低い柵が張り巡らされた岸壁の展望台。高い位置から水平線を見渡すことができる。
「あの場所……サリーナと登ったあの崖じゃないか? ごめん、エコーディア。ちょっと行ってみていいかな」
「う、うん。いいけど」
 控えめだがはしゃいだ様子のアルケイドに連れられ、エコーディアも展望台へと登った。展望台と言っても柵以外はほぼ何もなく、緩やかな坂道を随分歩いて崖際まで辿り着くようになっている。
 見晴らしはいい。だが危険でもある。そしてこの時期に人がいるとは思っていなかったのだが、先客として一人、スーツ姿の女性がいた。やって来る二人をちらりとも気にせず、海を眺め続けている。
「エコーディア、どうしてそんな奥にいるんだ? こっちの方が見晴らしがいいよ」
 アルケイドが崖際ぎりぎりで声をかけてくるが、エコーディアは青い顔で首を横に振る。
「あたし実は海苦手なの。泳げないから! そ、そこから落ちてもし溺れたらと思うと」
「一緒にいてあげるから大丈夫だよ。ほら」
 アルケイドに手を引かれ、エコーディアは恐る恐る崖縁に立った。子どもの頃にこの海で溺れてから、エコーディアは海も泳ぐことも苦手だ。
「……そんなに怖いのか? 高所恐怖症とかなら聞いたことあるけれど」
 ゆっくりと手を離しながらアルケイドが言うと、エコーディアは小さく悲鳴を上げた。
「高い所は平気。でなきゃエアバイクも乗れないよ。でも海は、水場は駄目。昔溺れて岩にぶつかってできた傷がまだ背中に残ってるんだよ!」
 よろめきながら背の低い柵にかろうじてしがみついたエコーディアに、アルケイドが不思議そうな目を向ける。その感覚は同じように弱点のある人にしか理解できないのかもしれない。
「本当に気分が悪そうだな。戻ろ――エコーディア?!」
 やはりこの場に長居は無理だと、来た道を戻るためにエコーディアがアルケイドの差し出す手をとろうとしたその瞬間に事は起きた。
「わぁああああ!」
 一人だけ展望台にいた先客の女性がエコーディアを突き飛ばしたのだ。柵の役目を果たしていないような背の低い柵は体勢を崩したエコーディアの足を更に引っ掛ける形となり、鈍色の海を背景に彼女は落下していく。
 女性はエコーディアを突き飛ばしてすぐに逃げ去っていた。それを追うことも重要だが、この場でもっと優先されるのはエコーディアの救出だと、アルケイドは上着と靴を脱ぎ捨て身軽な格好で海に飛び込んだ。
 エコーディアは先程自分で言っていた通り泳ぐことができない。崖下の波は地形のせいで浜辺より荒く、深さもある。突き飛ばされたせいで服を脱ぎ捨てる暇すらなかったのだから、冷静な判断ができねばそのまま沈んでしまうだけ。
 魚もほとんど棲まない黒い海。水は濁っていて視界が悪い。彼女を追って素早く飛び込んだはずのアルケイドだが、そのせいでなかなかエコーディアを発見することができない。
 焦りが募る中、水の中で何かが光を反射した。それを頼りに一気に水をかきわけ、エコーディアの姿を見つけると抱き上げて共に浮上する。
「ぷはっ! げほっ、ごほっ!」
「だいじょうぶか?」
「あ、アルケイドぉ……」
「すまないけど力は抜いて! 二人とも溺れる!」
 しがみついてくるエコーディアを腕だけ掴む形で引き離し、アルケイドは力を抜けと必死で指示した。人間の体は水に浮くようにできているから、と。
「び、びっくりした」
 海水に濡れているのに泣き顔だとはっきりわかるほどぐしゃぐしゃの表情でエコーディアは言った。彼女を岸まで引っぱりあげ、アルケイドは尋ねる。
「さっきの女性が誰だか知っているか? 何故こんなことをしたのか」
「わ、わかんない。でも、でもあの顔は……」
 アルケイドには女性の正体が皆目見当もつかない。エコーディアは突き飛ばされて見た一瞬だが女性の顔に見覚えがあった。しかしそれはアルケイドと同じく、この時代にいるはずのない人物だ。 
「あの顔、あたしのお母さんに、似てた、の……」
 がくがくと震える腕でアルケイドにしがみつき、途方に暮れた顔でエコーディアはそう言った。