002
夕暮れの時間を、黄昏という。
すれ違う相手の顔もわからぬ「誰そ彼」が変化したもので、これに対し明け方は「彼は誰」時と呼ぶ。その一方、夕暮れはこうも呼ばれることがある。
逢魔が時。
赤い太陽が西の空に沈みかかり世界は足元から暗い闇が忍び寄ってくる。そこに住まう物の怪たちの本領が発揮される時間。影の中にある顔の見えない隣人はすでに見知った相手ではなく、闇の夜が近づくにつれていよいよ人の世に繰り出してきたあやかしの類やもしれぬと、誰もが皆、心をざわめかせる時間だ。
しかし現在、この緋色の大陸において薄闇の帳降りる黄昏時は、こう呼ばれる。
桜魔が刻、と。
◆◆◆◆◆
血に濡れて緋色に染まった大地に夜がゆっくりと降りてくる。
「た、頼む。許してくれ」
男は呻き、哀願した。一つしかない目からはぼろぼろととめどなく涙が溢れている。周囲の桜の樹から花びらが散って、泥と血に汚れた頬や額に貼りついた。
目が一つしかないというのは、隻眼だという意味ではない。正真正銘一つ目なのだ。涙を流す男は、桜の樹の魔力と地上の瘴気が結びついて生まれるとされる妖、桜魔(おうま)だった。
それを冷徹な眼差しで一瞥し、すぐに興味を失くしたように視線をそらして自らの足元の物体に向けた青年は人間だ。年齢は二十代の半ばで、服の上からでもわかる隙なく鍛え上げられた体つき。
宵闇に染まりかける世界の中で、その白銀の髪だけが儚く輝くさまはまるで彼自身が幽鬼めいて見える。青年は夜の闇にも似た紫がかった藍色の瞳を足元のそれに向けると、握っていた剣の柄にぐい、と僅かな力をかけた。
「ッ、ァアアアアアア!!」
度重なる暴力に掠れた声が、また耳障りな悲鳴を上げる。青年は頬を歪めた。また力を込めて、小さな指を斬りおとす。
「ギャアアア!!」
泣き叫ぶのは小さな少女だ。まだ十になったかどうかもわからない。しかしそれはあくまでも外見上のことで、少女の実年齢など青年の知ったことではなかった。
少女の頭部には、二本の小さな角が生えている。
彼女もまた、桜魔なのだ。
一つ目の男と違ってこちらにはきちんと二つの目がある。顔だけ見れば少女姿の桜魔は人間の子どもそのものだ。しかしもつれた黒髪に見え隠れする角が確かな異形の証を訴え、青年はそれ故に、彼女に加える暴虐の手を緩めはしない。
少女桜魔の手の指は、すでに四本が斬りおとされている。
一つ目の男と角を持つ少女は、この桜並木で通りがかる人間に親子の振りをして近づいては襲っていた桜魔だった。青年はその退治を依頼され、無力な旅人の振りをしてあえて彼らに近づいた。
いつものように獲物にありつけるとほくそ笑んで青年に近づいた桜魔たちは、しかし次の瞬間まず一つ目の男が腹部を斬り裂かれ、次に少女が長剣で地面へと縫いとめられていた。わけもわからないままに勝敗がつき、それ以来彼らはずっと、この青年に嬲られ続けている。
ずっととはいうものの、それは彼らの主観であって太陽の傾きで換算すればそう長い時間ではない。いくら人間に比べ生命力の強さが尋常でない桜魔と言えど、人であれば致命傷と言える深手を負って、そう長く生き延びられるはずもないのだから。
「何故だ。何故一息に殺してくれない!」
「お前たちはどうだったんだ? 助けてくれと泣き叫んだ人々の命乞いに耳を貸したか? 化け物共」
一つ目の男は言葉を失った。
人と同じ数、十本の指が全て手から斬りおとされた少女の命が潰えていく。それを見て、次は自分の番だと恐怖する。
青年の言葉の通り、男たちも獲物である人間の命乞いにも、早く殺してくれという哀願にも耳を貸さなかった。気の済むまで甚振って弄んでから殺した。だが同じことを自分がされると知った時、桜魔は初めて恐怖というものを知った。
「頼……ガッ!」
しかしその恐怖は杞憂に終わる。少女のように自分も手の指を一本一本切り離されて苦痛に呻きながら死ぬのかと怯える桜魔の頭部を、放たれた矢が射抜き一瞬で絶命させたからだ。
桜魔の命が潰えると同時に、逢魔が時が終わる。太陽は西の空に沈み切り、完全なる夜が周囲に訪れた。
青年は矢の放たれた方向を見遣る。
そこには、予想違わず一人の少年が立っていた。
「酷いことをするのですね」
青年とは対照的に夜の闇に埋もれてしまいそうな濃い紫色の髪をした少年が、弓を手にしてこちらに歩み寄ってくる。成長しきらない体つきは青年に比べずともまだ華奢なところが多く、どこか儚げな面差しは少女めいて見える。
しかし少年の顔つきは戦いの空気に研ぎ澄まされており、身に着けた衣装は、退魔師独特のそれだった。印を結ぶのに必要な上半身の動きを妨げず、足元も庶民のような下駄や草履ではなくしっかりと脚部を固定するものを使用している。この広い東の大陸でも、そんな格好をするのは退魔師くらいのものだろう。
「人とよく似た生き物の命を奪うことに対し、あなたは何の感情も湧かないというのですか」
少年は水のように静かな表情で青年にそれを問うた。だが返す青年の言葉は、皮肉と棘に満ちている。
「命を奪うだけなら、お前だってそうだろう。お偉い退魔師の神刃(しんは)様。人々から英雄と崇められるまでに、どれだけの桜魔の命を奪ってきたんだ?」
「鵠(くぐい)さん」
少年は眉根を寄せて青年の名を呼んだ。
彼の名は天望鵠(あもうくぐい)。少年の名は御剣(みつるぎ)神刃。二人は初対面ではない。このところ神刃というこの少年が、とある目的のために鵠につきまとっているのである。四六時中後をつけまわしているわけではないが、時折ふらりと現れては、鵠と話をして去っていく。
何度も顔を合わせるのは、鵠が決して少年の頼みに頷かないからでもあった。
「人と似た生き物だからこそ、殺された人間側の憎悪だって相当なものだろうよ。これが完全に人外の化け物だったら天災みたいなもんだと諦められる。だが奴らは中途半端に人に似ていて、人の考えを理解し、そして人に牙を剥く。だから殺すんだ。俺は自分が受けた依頼通りやっただけだぜ」
少女桜魔の指を切り離したのは、彼女の力の核がそこにあったからだが、そんなことまで御親切に説明してやる気はない。それがこの少年にどう思われたとしても。
後ろめたさの一つも感じさせず自分の言いたいことを一息に言ってしまえば、鵠としてはもう話はない。だが神刃の話はまだこれからだ。本題に入る前にくるりと踵を返した鵠の背に、少年はいつもと同じ言葉を投げた。
「俺と一緒に、桜魔王を倒してください!」
鵠はそれにやはり頷くことなく、いつも通りにたくましい背だけを少年に見せて去っていく。
後には先程の桜魔たちの亡骸である桜の花びらだけが、風に乗って吹雪のように鮮やかに舞っていた。
◆◆◆◆◆
桜の樹の魔力と、地上に溢れる瘴気、そして人間の憎悪や邪悪な思念。そのようなものが結びついて凝り、地中から生まれた妖魔、その名を桜魔という。
彼らの存在が確認されたのは数十年前。彼らは桜の樹の季節に現れ、人間を襲い、桜が散ると同時に何処ともなく消えていく。
――と、されていた。
しかし現在、桜魔の被害は年々広がり、桜魔王と呼ばれる存在が出現したことから、ついに人類は存亡の危機に瀕することとなった。この大陸に出現した当初はさほど力を持たぬ春の妖の一種に過ぎなかった桜魔は今、爆発的に増え続けて人類を滅ぼそうとしている。
桜魔の勢力がまだそれほどではなかった頃、緋色の大陸では大きな戦乱があった。それまで中程度の国力だったはずの一つの国が当時の国王の強引な政策により周辺国家を次々に侵略併合したことにより、多くの血が流れ、怨嗟の念が地上に溢れた。
そのためにこの大陸に、桜魔が溢れたのだと言われている。
元来美しい花や宝石には魔が憑きやすいとされる。かつてはただ美しいだけの春の風物詩であった桜の花は、しかし桜魔という存在と結びつくことにより変質した。桜魔が桜の樹の微力な魔力を核として生まれるように両者には相関関係があるのか、桜魔の勢力が増すたびに桜の季節は長くなり、今では緋色の大陸では、一年中桜の咲かぬ日はない。
あるいは桜魔にとって桜の花が力の源になるのか、桜魔が桜を増やしているのだとも言われている。桜の樹と桜魔に本当に相関関係があるのであれば大陸中の桜の樹を全て斬り倒せばその被害がなくなるのではないかと考えた者もいたが、実行に移す前に桜魔に殺されたという。
生身の戦いでは桜魔に対し勝ち目がないように思えた人類だが、一部にはその力に対抗できる存在がいた。
桜魔を倒す力を持つ者を、退魔師と呼ぶ。
人間の中に稀に生まれる退魔師は、絶対数が少なく、その持てる力にも各々個性や差異があって、一律的に軍隊などに編成できるものではない。そのため協会を作り登録することによって、各国政府は退魔師同士のやりとりができるようにした。
しかし桜魔の数が増えすぎた現在ではその機構もほぼ意味をなさず、退魔師の能力を持つ持たないに関わらず、人々は独自に桜魔と戦うしかなくなっていた。完全に個人であることは少なく、若者などが徒党を組んで集団で自警団のような活動をする場所が多い。
その一因に、二十数年前に世界に現れた桜魔王という存在が深く関わる。これまで統率する者もなく好き勝手に暴れていた桜魔たちは彼らを束ねる存在を得たことにより、ますますその勢力を拡大し、人類を滅ぼさんとまでしている。燃える夏も豊穣の秋も眠りの冬も来ない永遠の狂乱の春に、大陸は覆われてしまっている。
失われた平穏な時代を取り戻すため、人類は桜魔王を倒す存在の登場を希求していた。