003
天望鵠(あもうくぐい)。それが鵠の正式な氏名だ。平民は普段苗字を名乗る習慣はないが、あえて姓と名を繋げるとそうなる。
一部の貴族は名乗る際に家名までもつけるのが習慣らしい。鵠がそれを知ったのは、随分と後のことだった。両親が健在だった頃は、家名のことなど存在自体知っていたかどうか危うい。
茶屋から家に帰りついた鵠は、まだ日も高いうちから腕を組んで寝台に寝転がった。そうして、普段はあえて思い出さないようにしている両親のことを考えた。
そんな風に色々と思い出してしまうのは、今日茶屋で会った少年のせいだろう。神刃は義父に育てられたと言っていた。彼は恐らく自分自身の実の両親を知らないのだ。
鵠はその話をして、自身があの少年のことを何も知らないことに気づいたのだった。そして同時に、自分が彼に興味を抱いていることにも気づいてしまった。
それが嫌で、いつにも増してろくに言葉も交わさず、逃げるように帰ってきてしまった。あの後、神刃はどうしたのだろう――。
「……いかん。これじゃ堂々巡りだ」
気が付くと紫の髪に朱金の瞳の少年に意識がいってしまいそうな自分を鵠は叱咤する。脳裏に浮かぶ幼い面影を消すように目を開けて、古ぼけた天井を睨んだ。
神刃の噂は街中や遠出をした際にたびたび聞く。大人も子どももなく自衛できる者は例外なく武器を手に取り桜魔の襲来に備える昨今、それでもあれだけ幼い退魔師は珍しい。十代では例え退魔の力を持っていても自分の身を守るのが精いっぱいで、他人を守る余裕まである退魔師など極わずかだ。それだけでも神刃はただの粋がった子どもではなく、退魔の天才を持つ人間と呼んでいいだろう。
けれど鵠が同じ年頃だった時、彼は今の神刃よりも余程強かった。本気で桜魔王を倒そうと考えている神刃が、鵠の噂を聞きつけて、頼ろうとする気持ちはわからないでもないのだ。自惚れるわけではないが、鵠にはそれだけの圧倒的な強さがあるのだから。
そしてその強さは、鵠自身の努力あって開花したものではあるが、それ以前に両親が与えてくれた才能によるところが大きい。
だからこそ鵠は神刃の、共に桜魔王を倒してほしいと言う願いには頷けない。
たとえあの華奢な子どもが、鵠に会いに来る時折その身に激しい戦闘の痕を思わせる血の臭いを漂わせていると知っていても。
「母さん……」
鵠、あなたは退魔師になんてならないで。
桜魔に関わらないで。
両手を紅い血に濡らして懇願する、それが母の最期の願い。
胸の中に沸き立つ黒いものと一緒に母の死に顔を封じ込めたくて、鵠は再び目を閉じる。けれど瞼の裏側の闇にまで、懐かしい両親の面影と今日会った少年の白い面が交互に浮かんできた。そのどちらがより罪悪感を刺激して、鵠を苦しめているのだろう。
もう、彼自身にもわからなかった。
◆◆◆◆◆
鵠は父の名を交喙(いすか)、母の名を花鶏(あとり)という。天望交喙に天望花鶏。
女は――別に女だけでなく男が婿に入る場合もそうだが、結婚すれば姓を夫のそれに変える。だから夫婦の名がそうだと聞いて、即座におかしいと気づける者は少ないだろう。他の大陸の事情は知らないが、少なくともこの大陸の常識はそうである。
そして平民であればそもそも、普段から家名を名乗る習慣もない。
父、交喙は黒髪に紫がかった青い瞳。母、花鶏は白銀の髪に薄紅の瞳をしていた。鵠は父から瞳の色を、母から髪の色を譲りうけた。
夫婦は深い山の入り口にまるで隠れ住むように暮らしていた。一人息子の鵠もまた、近隣の村の人間から引き離されて育った。
幼心に自分の家が何かおかしいとは気づいていたが、その話を持ち出すたびに怖い顔をする父と哀しそうな様子の母に囲まれて、ついにそれを両親の口から直接聞きだす機会を逸してしまった。
少しばかりおかしくても、全てがうまくいっている間はそんなことを気にしなかった。
料理に洗濯にと常に体を動かしていた働き者の母と、それを特に手伝いもせず傲岸不遜に振る舞っていた父。けれどひとたび家を出ればおっとりしすぎていて世間知らずなところのある危なっかしい母の手を引くしっかり者の父と、二人は良い夫婦に見えていた。村の人々もそんな両親のことを理解していたのか、多少不思議なところのある一家に対し、他の村人と同じように扱った。
全てが失われるきっかけの歯車となった事件は、父の死。
両親は共に退魔師だった。二人とも小さな村にはもったいないほど腕の良い退魔師だったが、ある時少し強い桜魔が徒党を組んで村を襲った。それまで多くても二、三匹程度でつるむだけだった桜魔が徒党を組むようになったその頃。世間では桜魔王と言う存在が周知されはじめていた。
父はその、徒党を組んだ桜魔の集団の退治に駆り出され――還らぬ人となったのだ。
母自身もちょうどその時別件で家を空けていた。彼女はほとんど傷すら負うことなく無事に帰ってきたが、村人の手で清められ返された父の遺体を見て――狂乱した。
『いやぁあああああ! お兄様!!』
魂切れるような悲鳴を上げて母は父をそう呼んだ。遺体に取りすがって泣く彼女を引きはがす村の男たちの苦しげな表情を、鵠はどこか遠いところにいるような気持ちで眺めていた。
そして彼女は、狂った。
話しかけても虚ろな目をして何も答えない。交喙の埋葬を行ったのは鵠と村の男たちだった。彼女は我に帰るとまた泣き出した。そんなに泣いて瞳が溶けだしてしまわないのかと心配になるくらい。
父が死んで七日目だった。
それまで呆然と、それこそ死人のように虚ろだった母の表情に、久方ぶりに生気が戻っていた。彼女はいつも通り手際よく家のことを片づけると、数年ぶりに息子と一緒の寝台に入った。
鵠はそれが幸せで、母がこれで元通り元気になってくれるのだと信じて、その紅い瞳に病み疲れ覚悟を決めた者の光があることを見過ごしてしまった。
明け方目覚めた時にはもう母の姿はなく――。
散々村中を探し回って、人気のない森の中でその姿を見つけた時には、もはや全てが手遅れだった。
彼は誰時と呼ばれる、誰そ彼時と対になるもう一つの逢魔が時に、見つけたその人は優しい母ではなく、羅刹よりも苛烈な退魔師の顔をしていた。
淡い紫の空に白い桜の花びらが舞い、真紅の血の池に降り積もる。母が殺した桜魔たちの体が積み重なり、瞬く間に桜の花びらとなり、その花びらさえ血だまりに溶けていく。
鵠の退魔師としての強い力は、両親譲りのもの。特に、母譲りの強大な力。
父である交喙と母である花鶏。どちらが退魔師として優れていたかと問われれば、迷わず花鶏だと答える。彼女は誰よりも優れた退魔師としての力を持っていた。けれど鵠が実際にその戦いを目にすることはこれが初めてだった。
薄紅の瞳が白み始める空の輝きを受けて、緋色に燃え上がる。
母は父の――自分の夫の復讐のために、近隣中の桜魔を集めて皆殺しにしたのだ。そのために彼女自身の、命さえも退魔の力と変えて。
誰よりも誰よりも、交喙を愛していた花鶏。その感情はもはや愛というよりも狂気に近いほど。
倒すべき敵の消え去った空間に、彼は誰時の藍紫の光が差し込む。最後の敵を打倒すと共に全ての力を使い果たし、自らが生み出した血だまりに倒れ込む母に鵠は駆け寄った。
今際の際に息子の顔を認めた母は、震える声で懇願した。
鵠、あなたは退魔師になんてならないで。
桜魔に関わらないで。
彼女は最後に、紫がかった藍色の空を眺めて「お兄様」と小さく呟いた。
桜の白い花弁を血で紅く染め、これで最愛の夫のもとへ逝けると彼女は微笑む。
残された一人息子は、腕の中で冷たくなった母にかける言葉もない。最期まで彼女が見ていたのは、自分ではなく父なのだから。彼を追って、息子の自分を放って一人死んでしまうような人なのだから。
父も母も腕の良い退魔師だった。けれど二人とも、望んでそうなったわけではなかった。
それを鵠が知ったのは、二人がこの世の者ではなくなってからだ。
村の中ではどうやら駆け落ち者扱いされていた両親の実家はどこなのか、誰も知らなかった。村人たちは好意で鵠の両親のことを探らずにいたのだが、そのために両親亡き後の鵠は天涯孤独と呼ばれる身の上だ。まだ十を過ぎたばかりだった鵠のためにもと少しばかり調べてくれた者もあったが、それでもわからない。
家をいくら片づけても父や母の実家や親族がわかるような物は何も見つけられない。嫁入り前の母の姓でもわからぬかと持ち物をひっくり返してみても、出てくるのは天望の文字だけ。
両親から退魔師の才能を継いだ鵠は母の言いつけに逆らってその後退魔師になった。他に特技もない子どもに、それしかこの時代食っていけるような職は見つけられなかったのだ。初めこそ幼すぎると侮られるばかりだったが、近隣にたむろする桜魔たちの幾匹かを倒した頃から評価が変わり始めた。協会に正式な登録はなくとも、貧しい者たちから雀の涙ほどの依頼料を受け取る民間の退魔師として戦うようになった。
そしてある日一人の退魔師仲間が教えてくれた。
たまたま数人で組んで桜魔の大集団を殲滅する仕事の後だった。鵠の戦い方が、かつて共に戦った退魔師と似ているという。
その退魔師の名は、天望花鶏。
首都にある退魔師の名家、天望家の娘だという。
鵠はそれを聞いてすぐに首都に行った。
天望はずっと父方の苗字だと考えていたのだが、どうやら母の家名らしい。鵠の家がある田舎村でこそ知る者はいないが、首都で天望の名を出せば誰もがその名を知っている。
遥か昔から桜魔に限らずあらゆる妖を退治する役目を担ってきた退魔師の名家。しかし今では直系の血は途絶え、分家の青年が後を継いでいるのだと言う。人々は鵠の事情など知るはずもないから、さりげなく尋ねた鵠にあっさりと教えてくれた。
退魔師の名家天望の、行方を眩ませた最後の直系当主となるべきだった少女の名は花鶏。天望花鶏。そして彼女には兄がいた。
妹ほど出来が良くないと言われ続けた不世出の退魔師、交喙。
答は最初から出ていたのだ。天望交喙と天望花鶏。それは父と母の本名。父の遺体に取りすがって泣いた母は、彼を一体何と呼んでいただろう。噂に聞く二人の特徴的な容姿は、両親のものとぴたりと一致する。
鵠は何故あれほどの才能ある退魔師であった両親が、小さな田舎村で隠れ住むようにしていたのかその理由をようやく知った。
顔も性格も才能すらも似ていない。けれど二人は、確かに実の兄妹だったのだ。
そして自分は実の兄妹であった両親の、赦されざる恋の果てに生まれた禁忌の子。
――決して、表舞台に上がることなどない。