桜魔ヶ刻 01

005

 いらない時にはいくらでも顔を見せるくせに、いざ探すと見つからない。
 一度しっかり話をしようと神刃を探し回っていた鵠は、急に姿を消した少年の動向を追うのにうんざりとしていた。
 別に神刃が鵠から逃げているだとか、そういうわけではない。だが、上手い具合に歯車が噛み合わないと言うか、逆に噛み合っているというのか、どうにも捕まらないのだ。
 馴染みの退魔師が集まる酒場の一つに顔を出した鵠は、またも一足違いでいなくなったという少年の目撃情報を仲間の一人から得る。
「向こうで依頼書を千切ったのを見たぜ。仕事に出かけたんじゃねぇのか」
 どこに向かったとまでは断定できない少年を探し、鵠はまたも足を棒にして歩き回るのだ。

 ◆◆◆◆◆

 そろそろ生活費を稼がねばならない。神刃は途中立ち寄った非正規退魔師御用達の酒場で、退魔師への依頼書を一枚千切って持ってきた。
 正規の退魔師協会に依頼できないだけあって、その報酬は微々たるものだ。だが神刃一人が生きていくにはそれで十分だった。その仕事を果たせばまたしばらく放浪を続けることができる。
 明らかに人気がない様子で掲示板の隅に忘れ去られていたその依頼書は、報酬の少なさに比べて被る害は大きい。だからこそ神刃はその依頼を選んだ。
 このような神刃の生き方を偽善だと人は言う。だがそれで良い。本当の善など知りはしない。神刃の行動は所詮とある人の真似事で、模倣が本物に敵うはずもないのだから、それで構わなかった。
 あの人はもういない。
 だから自分は、可能な限り、彼の代わりにならねばならないのだ。だが自分では力不足で彼の代わりになれない。
 その想いから、神刃はこれまで自分と手を組んで桜魔王を倒すという目的を果たしてくれる仲間を求め続けていた。
 脳裏をちらりと、白い髪の青年の幻影が過ぎる。
 ここ数日会っていない彼は今頃どうしているのだろう。神刃としては彼こそが桜魔王を倒し、大陸を救う救世主になってくれるのではないかと期待をかけている。しかし当の本人である鵠が神刃の頼みを聞く素振りはいまだにこれっぽっちもない。
 頭を切り替えて、神刃は辿り着いた依頼人の住居の戸を叩く。
 こんな時代でなければ、それは空き家と見紛うばかりの寂れて半壊した建物だ。しかし現在はその寂れ具合も目隠しに、少しでも桜魔の目から逃げたい人々が細々と暮らしている。
 神刃が依頼されたのは、この地を襲う桜魔の集団の退治だった。

 ◆◆◆◆◆

 問題の桜魔は、森の中に棲みついているという話だ。
 大陸中どこもかしこも桜魔の襲撃に遭い、食料自給率はどこの国も今や壊滅的だ。都会では時折闇市が開かれるが、こうした田舎ではそういったこともない。村人たちは山菜や木の実を採集して食いつないでいる。
 この村にとってその生命線である森に、桜魔が現れるようになった。いつからか森に入った村人たちが帰らないという噂になり、ある日命からがら逃げてきた若者の証言によって、桜魔の存在が知れるところとなったのだ。
 桜魔は森に入る者を手当たり次第に襲う。それが神刃が聞かされた話だった。
 しかし実際はもっと複雑な事情だったようだ。
「今回の生贄はお前か」
 問題の森に足を踏み入れ、標的たる桜魔と顔を合わせた開口一番にそう言われた。
 相手は爛れた肉の柱のような外見の桜魔で、体の中心にある大きな唇だけがやけに目立ち異様だった。その大きな唇がにやりと歪み、笑いながらこう言った。
「食いではなさそうだが、子どもの贄は久々だ」
「……つまり、これは全部お前の差し金ということか」
 依頼料も少ない人気のない仕事。それはこの依頼に凄腕の退魔師がやって来ないことを意味する。報酬の少ない依頼を受けるのは実力足らずの未熟な退魔師か、余程の正義感の持ち主か。そのどちらにしろ、数人で徒党を組んで確実に桜魔壊滅を狙うとは考えられない。
 肉柱の桜魔の言葉から、神刃は事態の裏を読み取った。
 退魔師と一般人の霊力、神力と呼ばれる力の差は大きい。そして霊力を吸い取ることができる種の桜魔にとっては、普通の人間を殺すよりも退魔師を殺して力を奪い取る方が効率がいいのだ。
 この桜魔は村人に取引を持ちかけたのだろう。退魔師をおびき寄せるように計らえば、村人は見逃してやるだのなんだのと言って、人間自身に罠を仕掛けさせた。
「道理で依頼人を名乗る村の人たちが挙動不審だったわけだ」
「可愛いだろう。あいつらはもはや皆、俺の手駒よ」
 依頼の詳細を聞きに行った際の、怯えた人々の眼差しを思い出す。あれは単純な桜魔への恐怖だけではなかったのか。
「奴らのおかげで俺はここまで強大な力を手に入れた。お前のような間抜けな退魔師を喰らい続ければ、いつか桜魔の王にさえ……!」
「ふざけたことを抜かすな」
 神刃は腰の小太刀を引き抜く。
「貴様ごとき卑劣な小者が、桜魔王になどなれるものか。ここで果てろ!」
 大陸中の人類を脅かす桜魔の王に、こんな小者がなれるものか。数多の退魔師たちはそれほど弱くはない。
 手元の刀に神力を伝わせ、神刃はまずは一撃を喰らわせるため地を蹴った。

 ◆◆◆◆◆

 小狡い策を弄しようと、所詮は小者。神刃はすぐに肉柱を追い詰めた。
 力の強い桜魔はこのような小細工をせずとも、堂々と昼日中の街中で辻斬りを行うくらいだ。自分の陣地たる森に人間を引きこまねば殺すこともできない桜魔など、大した強さではない。神刃はそう読んだ。
 実際、その読みは良い線まで行っていた。
 肉柱は神刃の敵ではなく、最初は余裕の態度だったその様子がだんだんと変わっていく。顔と言える顔がないので人間のように感情を読み取ることはできないが、大きな唇が口の端を吊り上げる笑みを徐々に引きつらせていくのがわかった。
 小太刀の一閃が、肉柱から伸びる触手を斬りおとす。
「この……餓鬼がぁ!」
 肉柱の怒りを表すようにどす黒く染まったその大きな唇が開いて、強酸らしき液体を吐きだす。
 神刃は後方に跳んでそれを避けた。しかし反撃に転じようとしたところで、地を蹴るはずの足が何かに絡め取られる。
「!」
 それに気を取られた瞬間、目前の肉柱が伸ばした触手が今度は両腕を縛り上げた。
「ようやく捕まえたぜ」
「あ、くっ……な……にッ?!」
 締め付けられる痛みに喘ぎながら、神刃は先程自分の足を捕らえたものの正体を確かめようと、何とか首を捻る。
 そこにいたのは、目の前の桜魔とまったく同じ姿かたちをしたもう一匹の肉柱だった。
 そして他にもずるずると、異様な肉の塊がそこかしこの茂みから蛞蝓のように這い出てきていた。
「二匹……?!」
 馬鹿な、と神刃は目を瞠る。桜魔の気配は常に目の前の一匹だけだった。自分が読み違えたのか? ……否。
「「そうそう。これが俺の奥の手さぁ」」
 形容しがたい軋むような音で笑った目前の肉柱と、神刃を背後から絡め取ったもう一匹の肉柱の唇から同じ言葉が零れ落ちる。
「「俺は肉の一部を千切って自在に操ることができるんだよ。どいつもこいつも、見事に騙されてくれてなぁ」」
 桜魔とは桜の樹の魔力と瘴気、それに人間の負の感情が結びついて生まれる妖。
 その定義は広く、その性質は個体ごとに大きく異なる。なまじその知能が人間に近ければ近い程、能力も多岐にわたる。
 単純な戦闘力で言えばさして強くないと思われていた肉柱は、意外な隠し玉を持っていたというわけだ。退魔師としての実力があればその不穏さを警戒することもできたかもしれないが、神刃には気づくことができなかった。
 才能以上に経験則が物を言う戦闘においてはまだ未熟、成長途中の退魔師でしかない。
 ぎりぎりと締め上げられた右腕からついに小太刀が落ちる。抵抗を封じられた神刃は、唯一残ったその鋭い眼差しで桜魔を睨み付けた。
「気にいらねぇな。その眼」
 命乞いの一つもすればまだ可愛げがあるものを、と肉柱が囁く。
「冗談……!」
 何があっても、桜魔に屈することはしない。神刃は己の心にそれを――それだけを誓っている。
「なら、命乞いをする気分にさせてやるよ」
「ぐっ……!」
 肉柱の触手が首にまで絡む。肌に触れてみるとそれはべとりと何か粘性の液体に濡れているようで気色が悪い。
 喉首をじわじわ圧迫され、神刃の面に苦痛の色が浮かぶ。視界が暗くかすみがかり、赤や青の光がちかちかと点滅する。
 いけない。このままでは――。
 しかし神刃とて伊達に独りきりでこの依頼を受けたわけではない。少し早いが奥の手を出すかと、途切れそうな意識を集中し始めたその瞬間。
「ぎゃぁあああ!!」

 悲鳴が響き渡った。