桜魔ヶ刻 01

006

 ぶちぶちと嫌な音を立てて、神刃の体に巻きついていた触手が千切られる。魂切れるような悲鳴を上げたのは、神刃ではなく彼を拘束した桜魔の方だった。
「げほっ、ごほっ」
 締め上げられた首が解放され、肺が脳が酸素を欲してむせ返る。
 一体何が起きたのか、神刃は生理的な涙が浮かんでかすむ目で正面を見つめた。そこに立つ背の高い人影。
「火陵……」
 思わず懐かしい名が――もうこの世にいない人のその名が口をついて出た。しかし次の瞬間にかけられた声ですぐに自分の間違いに気づく。
「下がってろ」
「く……ぐい……さん……」
 桜魔の触手から神刃を解放し助けてくれたのは、これまで何度協力を要請してもつれない返事しかくれなかった人物だ。
 花栄国最強の退魔師と名高いその青年は、見たところ何の武器も持たずに、神刃を桜魔から庇うようにその間に立っている。
 彼の立ち姿は堂々としており、精悍な面差しには不安も緊張もない。いつも通りの冷めた眼差しをただ目の前の桜魔に向けていた。
「貴様ぁあああ! 何者だ!?」
 手足となる触手を千切られた肉柱が、その憎悪を鵠に向ける。目はないが全身がどす黒く染まり、桜魔の怒りを如実に表していた。
「俺が何者かなんて、お前が知る必要はない」
 鵠はあっさりとそれを無視し、手足を滑らせて構えをとる。相変わらずその手に武器はない。だが同じ退魔師の神刃の目には、彼がその全身に霊力を漲らせるのがわかった。
「まさか……徒手空拳で?!」
 退魔師の多くは、己の霊力、神力を行きわたらせ強化した武器を使用する。
 神刃なら今のところ小太刀と短弓だ。他にも槍や斧、呪符。あるいは霊力を込めれば手近なものを武器として使用することはできる。
 歴戦の武闘家と言っても退魔能力がなければ桜魔に傷を負わせることはできず、退魔能力があっても格闘の心得のない者がいきなり素手で妖に殴りかかるのは難しい。
 だから、大抵の退魔師は武器を使う。
 刃物はそれ自体に殺傷能力があり、またそれらしい武器はこれから命がけの戦闘を行うという意識を高める。
 精神によって霊力の制御が必要な退魔師は、己に暗示をかける意味でも、最も相性の良い武器で桜魔と戦う。
 純粋な格闘家が退魔師になったり、退魔師が体術を本格的に覚えることは稀だ。霊力を一点集中して武器を強化する方が、己の肉体そのものを武器として戦うより遥かに楽だからだ。
 退魔師という過酷な職業に女性も多い理由でもある。力や素早さは、退魔能力さえ強ければ武器選択次第で補えるのだ。
 しかし鵠の強さは、それらの常識を打ちこわし、神刃の予想を遥かに超えるものだった。
 見る者が見れば今の鵠は全身を金色の炎に包まれているように見えるだろう。
 霊力、神力と呼ばれるその力が、触れる度に桜魔の瘴気で出来た肉体を削り取っていく。
 もちろん素手で仕掛けるからには体術もかなりの腕前で、舞うように繰り出される蹴りや拳には鍛え上げた成人男性が持つ力や鋭さの全てが乗っていた。
「ぎゃあああ!!」
 神刃に対しては善戦を繰り広げた桜魔も、鵠の前では文字通り手も足も出なかった。
 生き残った触手が死角から攻撃を仕掛けようとも、鵠はまるで背中にも目があるかのような勘の良さで相手の攻撃を避ける。真正面から仕掛ければ勿論どのような攻撃も通らない。一方、鵠の一打は確実に桜魔の力を削っていく。
「ぐぁ……!」
 終結は呆気ないものだった。特に気合いを入れたわけでもない鵠の拳の一撃で、桜魔はその核を撃ち砕かれ滅びていく。
 桜魔の肉体は無数の桜の花弁となって、糸が解けるように消えていった。

 ◆◆◆◆◆

 敵が完全に滅びたのを見送り、鵠はようやく神刃の方を振り返った。
「あ……」
「酷い格好だな」
 腕を組んでいつも通りの冷静な口調で言う。神刃はハッとして改めて自分の格好を見下ろした。鵠の言うとおり、確かに酷い。
 服は泥だらけだし、手甲に覆われていない上腕部は触手に絡め取られたせいで赤い痕が残ってしまっている。自分で見ることはできないが、この分では首にも酷い索状痕が残っていることだろう。
 鵠の視線が神刃を上から下までじっくりと眺めまわす。武闘家である鵠は神刃の何気ない動作から、触手の痕は派手でも怪我自体は大したことないのを見抜いたのだろう。
 そして眼差しの鋭さがやがて消えると、ただただ呆れた様子だけが残る。
「馬鹿か、お前」
「う……」
 窮地を救われた立場としてはまったくもって反論できず、神刃は常の彼らしくもなく頼りない目で鵠を見上げた。
 迷子の子どものように、不安と焦燥が瞳に宿る。普段鵠の前では大分気を張っていた神刃が、思いがけず年相応の子どもらしさを見せた瞬間だった。
「その程度の腕前で桜魔王を倒す? 大陸に平和を取り戻す? 笑わせるな。ガキが分不相応な大望抱いて、こんな小者一匹倒せずに一人で死んだところでどうなる。それこそ命の無駄遣いだろうが」
「……仰る通りです」
 耳に痛い言葉を受け止める。鵠の台詞は神刃自身もう何度も何度も繰り返し考えたことだった。
 それでも。
 桜の花が散る。桜魔が棲家としたような森の中だ。彼らは四方を忌々しいその花に囲まれている。
 その花が憎悪を思い起こさせる。
 大陸中からこの樹を消すまでは、神刃は走り続けることを止めることはできない。
「俺は、この大陸から全ての桜魔を消し去りたい。その目的を達するまで、諦めるつもりも戦いをやめるつもりもありません」
 今まさにみっともないところを見せたばかりだ。身の程知らずの子どもの戯言だと今度こそ見放されようとも、神刃は己の意志を偽ることはできなかった。
 燃えるような緋色の瞳で、自分より随分背の高い鵠を見上げる。
「……お前を見ていると腹が立つ」
 神刃の宣言を聞き、細い眉を器用に片方だけ吊り上げ鵠は本当に苛立たしそうに口を開いた。
「両親の命を奪った桜魔を赦せなくて、ただがむしゃらに退魔師として桜魔を殺しまくっていた昔の自分を見ているようで」
「鵠……さん……」
 完璧なまでの強さを誇ると思われた青年退魔師の意外な告白に、神刃は再び目を瞠った。
「お前みたいに未熟なくせに猪突猛進の馬鹿なガキが、一人で桜魔王を倒すなんてできっこない」
「――その通りです」
 背中に冷水を浴びせかけるような一言に神刃が頷く。間髪入れずに鵠が息を吐くように囁いた。
「だから」

「仕方がねぇから、俺様が手伝ってやるよ」

「え……?」
 思いがけない台詞に、神刃は返す言葉を失った。
 ただ呆然と、ぽかんと口を開けて鵠を見上げる。
「昔、どこかのお人好しな退魔師が未熟だった俺を助けたくらいにはな」
 神刃に言葉を向けるようでいて、その実、鵠の目に映っているのは彼の姿ではない。
 今の神刃ぐらいの年頃の自分が一人の青年に助けられた、十年前の光景だ。
「ようやく思い出したよ。あの時、火陵が連れていた子どもがお前だってことを」

 ◆◆◆◆◆

 その青年は、“火陵”と名乗った。
 鵠と違い、誰にでも姓を名乗れるような生まれではないのだろう。穏やかな顔つきだがいつもどこか寂しそうな様子の青年。
 彼が連れていた子どもが神刃だ。
「あ、ああ……! 鵠さんって、もしかして……!!」
「なんだよ。お前の方が覚えていなかったのか? 俺にばかりしつこく勧誘を続けていたのは、てっきりそういうことだと思ったんだがな」
 驚いた様子の神刃に、鵠は眉を顰める。当時の年齢を考えれば仕方のないことだが、なんとなく気に食わない。
「いえ、その、俺も、鵠さんに対しては何か懐かしいような不思議なものを感じていたんですが……」
「ま、俺が火陵にくっついてたお前のことを思い出したのもつい昨日のことだしな」
 どうやら最初から、お互いに響くものはあったらしい。しかしその正体を思い出すのに、鵠も神刃も随分かかってしまった。
 そして神刃があの時の子どもだとわかった以上、鵠はどうしても彼に聞きたいことがあった。
「火陵はどうした」
 彼がここにいない。
 それが答の全てだ。本当はわかっている。
 それでも聞かざるを得なかった。
「亡くなりました」
 彼が育てていた神刃が一人で行動している。その時点でわかりきっていたことだが、鵠はどうしても尋ねずにはいられなかったのだ。
 予期された答に僅かな痛みが胸に走る。脳裏を過ぎる幻影を振り払い、再び質問を続けた。
 神刃にとっても辛い問いかもしれないが、その答を避けて鵠の協力を得ることなどできぬと考えているようだ。声は固いが口調は淀みない。
「……桜魔か」
「いいえ」
 退魔師として戦っていた火陵なら、いくら彼が強いと言っても、過酷な戦闘の中で命を落としてもおかしくはない。そう考えていた鵠にとって、神刃の返答は意外なものだった。

「火陵は自殺です」

「自殺だと?!」
 予想外どころの話ではない。
 こんな時代だ。希望を失い未来を悲観して自らの命を絶つ者は決して少なくない。桜魔の手にかかるよりもいっそと考える者だとて。
 けれど、あの火陵が?
 鵠は今でこそ最強の退魔師と呼ばれているが、決して自身をそんな風に思ったことはない。鵠にとっての最強の退魔師は常にあの日の火陵だった。
「何故だ。教えろ。あいつに何が起きたんだ?!」
 神刃は覚悟を決めるようにそっと息を吐いた。ここから先の話を聞くことは、鵠自身ももはや戻れない道へ踏み込むことへの証だ。
「正確には、ただの自殺ではありません。火陵は――心中したんです。先代朱櫻国王、緋閃と共に」
 王を殺して自分も死んだのだと、そう言った。