桜魔ヶ刻 02

第1章 天を望む鳥は夜明けに飛び立つ

2.天を望み夜明けに発て

007

 かつて、“戦場の死神”と呼ばれた少年がいた。
 朱櫻国王の暴虐を発端に、大陸中が戦火に燃えていた時代だ。
 少年の名は火陵。身寄りのない彼は、自らを拾ってくれた主君を敬愛していた。
 しかしその主君は、朱櫻国王により殺害される。
 主君を救えなかった火陵はそれでも、国王の虜囚となった妹姫だけでも守るために憎き王に頭を垂れた。
 しかし、彼の願いはまたしても届かない。
 亡き主君の妹姫が夫たる隣国の王を憎み、憎み、憎み抜いて自死を選んだ時、火陵もまた決意した。
 いずれ、全ての災いの元凶たる男、朱櫻国王緋閃を殺害することを。

 ◆◆◆◆◆

 火陵と言う名の退魔師を鵠は一時期探したこともあったが、鵠がそうであるように火陵の方も非正規退魔師であったらしく、協会の登録などでは存在を確認できなかった。
 それに今の神刃の話からすると、火陵は長く朱櫻国にいたようだ。道理で花栄国からほとんど出ない鵠では会えなかった訳である。
 神刃の簡単な説明を聞き、鵠は長い沈黙の果てに口を開く。
「先代朱櫻王は、大陸中に桜魔の禍を広めた罪人として悪名高い」
「ええ。その通りです」
 わざわざ確かめる間でもない基本情報だ。この大陸中の誰もが、緋閃王を憎んでいる。
 だが、それでも鵠や花栄の人々にとって、緋閃王は遠い存在だった。隣国の君主は殿上人としても罪人としても、遠すぎて同じ人間だとは思えなかったのだ。
「お前は、緋閃王を直接知っているのか」
「……ええ、一応。火陵が王を殺したその瞬間、俺もあの人の傍にいましたから」
 もしやと思ったことを肯定され、更に衝撃的な事実を告げられた鵠は目を瞠る。
 神刃がどうして桜魔王を倒し、大陸に平和を取戻したがるのか、その熱意の一端を垣間見た。
 恐らくそれは、神刃本人の望みだけではなく、養父である火陵の願いでもあるのだ。
 神刃は努めて感情を排したような語り口で続ける。
「主君の妹姫の死を契機に火陵は緋閃王から逃れ、退魔師として桜魔を狩りながら俺を育ててくれました。そして二年前、ついに王を殺害したんです」
 王を殺し、火陵自身もまた命を落とした。
 緋閃の息子である現王蒼司はまだ少年だ。彼は父の暴虐に心を痛めており、桜魔を討伐し国を建てなおすことに臣下と共に全力を注いでいる。
「その口振りだと……お前は現朱櫻王のことも知っているようだな。王子は父親の殺害を認めたのか」
「――ええ。公にはされていませんが」
「当然だな」
 緋閃王の崩御が伝えられた時、大陸中の国々が歓喜した。これでようやくかの国の暴挙から解放されるのだと。
 蒼司王は速やかに即位し、緋閃王が何故亡くなったのか市井の人々は気にも留めなかった。それどころか緋閃王の死後一年ほど、新体制が安定するまで、蒼司王の存在も市井には深く知らされていなかったくらいだ。
 鵠は朱櫻国民ではなく、隣国花栄国の人間だ。元々朱櫻の事情には疎い。だが、神刃は朱櫻の退魔師。そして養父が養父だけに、大陸中を跋扈する桜魔の討伐について無関心ではいられなかった。
 混沌の元凶がいなくなっても、緋色の大陸の悪夢は終わらない。緋閃王が死んでも、後始末をする人間が必要だ。
 それが、現王と神刃の二人だと言うのか。
 目の前の少年が背負う予想以上に重い事情に、鵠は軽い頭痛を感じてきた。
 桜魔を倒して平和な世界を取り戻す。
 協力すると神刃に告げはしたが、その道は口で言うよりも遥かに困難だ。
 お伽噺であれば悪い化け物を倒してめでたしめでたしと終われるが、現実はそう簡単には行かない。
「鵠さん……先程の御言葉ですが」
 手伝う、と言った。放っておけばどんなに危険な局面でも一人で突っ込んでいきそうな神刃を放っておくことができない。
「本当に、俺と一緒に戦ってくれると言うんですか?」
「……言っただろ。手伝ってやるって」
「お気持ちは嬉しいです。ですが、それが火陵に対しての恩返しのつもりだと言うのならやめてください」
 これまで何度も鵠に会いに来て、しつこく勧誘を続けていた少年とも思えない言葉に鵠は呆然となった。人がようやく決意を固めたというのに、こいつはいきなり何を言い出すのか。
「火陵があなたを助けたことと、俺があなたに協力を願ったことは別の話です。俺はあなたを、養父のかつての行いで縛り付けたいわけじゃない」
「それはまぁ……俺も、そんな形で過去の恩を盾にされたら、協力するなんて言わなかっただろうな」
 鵠と神刃。二人の存在を繋ぐ糸は、火陵という一人の青年。
 けれど火陵はもういない。そして火陵が神刃と築き上げた関係と、鵠が火陵に影響された部分は別の問題なのだ。
 同じ人を知っているからでは仲間ですね協力しましょう、と。そんな単純に意志を決めることはできない。
 神刃の目的は桜魔王の討伐。そのためには当然、桜魔から憎しみを受け矢面に立つ覚悟が必要だ。
 本能で行動する桜魔たちに仲間意識は薄いが、それでも知能の高い桜魔は徒党を組むことがある。桜魔王の側近級ともなれば尚更だろう。
 桜魔王の討伐を決心し、名のある桜魔を狩って行けばその憎しみを一身に受けることになる。退魔師の名が知れ渡るのは人間の同業者の間だけではない。桜魔の中でも危険な人間は警戒され憎悪される。
 神刃の戦いはそう言った面も含んでの戦いだ。生半な覚悟で手出しできるものではない。一度協力すると決めたら、もはや途中で抜けることはできないのだ。
「ですから、俺は――」
「独りで戦うって? それこそ、無茶言うな」
 鵠が火陵のことをいっそ思い出さなければ良かったとでも思っていそうな神刃の言を遮る。
「確かに俺は昔、火陵に恩を受けた。だがその恩を養い子に返すだなんて、そんなつもりでお前に協力してやるなんて言ったわけじゃないぜ」
 見くびってもらっては困る。天望鵠は腐っても花栄国で最強の退魔師と呼ばれた男だ。
「俺がお前を手伝ってやると言ったのは、俺にならそれができると自分で知っているからだ。そんな俺を作り上げたのがたまたま火陵だったってだけだ。そして――」
 他の誰かに言われたわけではない、これは確かに鵠の意志だ。
 切欠を与えたのはかつて鵠の命を救い、その人生に強い影響を与えた火陵の存在かもしれない。けれど今ここに鵠がいるのは、彼との出会いだけが理由ではない。
「何よりお前が……何度も何度もしつこいくらいに桜魔王を倒して平和を取り戻すなんて言う馬鹿が……こいつなら最後まで投げ出すことなく戦い続けて、夢みたいなその目的を成し遂げられるんじゃないかって、信じさせたからだ」
 愚直なくらい一途に、この手で平和を取り戻すのだと訴え続けた神刃。緩やかな滅びへと突き進むこの大陸で、あるいはただ一人、人類が桜魔に勝つ未来を信じているかもしれない少年。
 鵠を動かしたのは、何より神刃の存在だった。
「お前が現実を見据えることもできないくらい馬鹿なただのガキなら放っておいたさ。……だがお前は、火陵の養い子だと言った。あの男の戦いを一番近くで見てきたはずのお前が、そんな軽々しい気持ちで桜魔王を倒すなんて言えるわけない」
 神刃が元々大きな瞳を零れそうな程に瞠る。
 彼が何度も何度も鵠に訴え続けた言葉の数々。鵠は毎回取るに足りない戯言だと聞き流しているようで、本当は一番大事なところにちゃんと届いていた。
 でも信じるにはまだあと一歩足りなかった。
 神刃の意志は固いがその実力は発展途上ということを差し引いても、天才たる鵠と比べてしまえば数段劣る。その程度の実力しかない彼がどうしてそこまで桜魔王討伐に注力できるのかがわからなかった。
 現実味のない計算しかできない愚か者の夢想であればいくら鵠とて付き合いきれない。
 その疑問を解消してくれたのが、火陵との縁だった。
 桜魔王討伐に誰よりも近かったはずの退魔師に育てられ、その意志を受け継いだ子ども。
 事情を知ってしまえば、この大陸に平和を取り戻すという神刃の決意が誰よりも固いことを疑う余地はなかった。
 途方もない理想ではあるが、実現できない夢を語っている訳ではない。
「……お前は自分の交渉だけで俺を説得したかったんだろうが……いや、切欠に火陵の存在があったとしても、結局俺は最終的には、お前の言動に動かされたわけで……」
 次第に自分でも何を言えばいいのかわからなくなってきた鵠の前で、神刃が微笑んだ。
「本気……なんですね。鵠さん……」
 どこか肩の力を抜いた顔は、今までの張り詰めた横顔からは一転してあどけなくすら見える。
 まだ子どもなのだ。正確な齢は聞いたことはないが、顔だけならぱっと見は少女にすら間違えそうな程。鵠と十は違うだろう。
 こんな子どもが、その頼りない腕で大陸の平和を取り戻そうと足掻いている。
 だがその頼りない腕こそが、惰性という闇で溺れる鵠にとって掴むべきものに見えたのだ。
 ――鵠、あなたは退魔師になんてならないで。
 ――桜魔に関わらないで。
 すまない。母さん。
 俺は約束を守れない。
 ただ一人の息子を置いて、夫である兄だけを望んで放り出した母の遺言よりも、今ここで自分を必要としてくれる相手を鵠は選ぶ。
 その時ようやく、退魔師・天望鵠は生きることになるのだ。
「――改めてお願いします。俺と一緒に、戦ってもらえますか」
「ああ。やってやるさ」
 自分たちは退魔師。所詮戦うことしかできない人間だ。
 だが今この世界で、その力こそが何より必要とされているのであれば。
 戦って戦って戦う。そして平和を取り戻すのだ。
 真の平和とは何かなどという問題について議論する気はない。だが少なくとも、人を襲う桜魔が跋扈し人類の滅びを目論む大陸に未来はないだろう。
 桜魔王を倒し、蔓延る桜魔を狩り尽くす。
 そして――。
「俺たちの手で、“桜魔ヶ刻”を終わらせるぞ」
 桜の花が散っていく。
 いつかこの樹から魔性の花が消え、正しき季節が巡りはじめるようにと、彼らは固く誓いを交わした。