桜魔ヶ刻 03

第1章 天を望む鳥は夜明けに飛び立つ

3.紅い夜、白い月

013

「むぅ……」
 深い山の中で、少年は眉間に皺を寄せて考えた。
 周囲には桜が散っている。
 襲い掛かってきた桜魔たちの死体が変じた花弁と言う名の遺骸だ。
「これはなんというか……まずいな」
 年の頃は十かそこらの少年は、その外見に見合わぬ目をしている。
「とりあえず応戦してみたが、普通に殺してしまった。というか、殺してしまって良かったのだろうか? おや? そう言えば私は何のために生きているのだっけ?」
 考えることは無意味だ。
 桜魔に生きている意味などない。それでも少年は考えた。
 自分は何をするべきかと。
 この世に発生したばかりの桜魔である彼には、何もわからない。けれど。
 ――誰かが自分の中で叫び続けている。
「“桜魔王を倒せ”か……」
 それがかつての自分の望みなのか、今の自分の望みなのか、自分以外の誰かの望みなのかも、今の彼にはわからない。
 ただ、行かなければと思った。
 行かなければ。何処へ? 何処かへ。
「とりあえず街に出るか。そうすれば少しは情報も入って来るだろう」
 彼も彼らも、この先の出会いに何があるのかを、この時はまだ知らなかった。

 ◆◆◆◆◆

 深い深い森の奥に、その庵はあった。
 庵の外には幾本もの桜の樹が植わっている。
 噎せ返るような桜の香りが充満し、朝も夜も絶えることはない。白に紅に朱に染まった花が、視界を埋め尽くし雪のように降り注ぐ。
 だからこの場所――朱の森は、大陸で最も桜魔の力が強くなる場所だ。
 だからそこに棲まう者は当然、大陸で最も力の強い桜魔ということになる。
「陛下」
「早花か。どうした?」
 一際大きな樹の上。頭の後ろで腕を組み眠る体勢だった桜魔王に、一人の女の声がかけられた。
 女と言ってももちろん人間の女ではない。限りなく普通の人間の外見に近い、桜魔の女だ。
 高位の桜魔程、その外観は人間に似てくると言われている。
 桜魔王とその側近にもなると、外見上はもはや完全に人と見分けがつかなくなるのだ。
 側近の早花(さはな)に声をかけられて、桜魔王こと朔(さく)は樹から飛び降りた。
 あまりにも軽やかな身のこなしはやはり人の常軌を逸している。だが桜魔である彼にとっては当然のことだった。
「陛下にお目通りを願いたいという者たちが……いかがなさいますか?」
「俺に会いたい? 今度はなんだよ」
 前回花栄国で中規模襲撃を引き起こした者たちは、口でこそ自信ありげなことを言ったくせにその後あっさりと退魔師たちに始末されてしまった。桜魔王に己の業績を売り込んで取り入りたいのだかなんだか知らないが、いちいち付き合うこっちの身にもなれというものだ。
「面倒だな……早花、お前が王代理でいいよ。行ってきてくれ。もしくは夬(かい)にでも任せろ」
「陛下……そういうわけには……」
 彼、朔には、桜魔王としての使命感や人間を滅ぼそうという野望は一切なかった。
 朔は特異な事情により、生まれた時から桜魔王として生きることを余儀なくされていた。しかし彼自身が望んで桜魔たちの王に立ったわけではない。
「朔様、あなたは我々桜魔の希望なのです。王がいるからこそ地上の覇者である人間相手にも我々は戦える。陛下が陛下であられることで、末端の桜魔たちへの求心力が――」
「そんなもの、ただの幻想だろう」
「陛下」
「朔でいい」
 二人が押し問答している間に、もう一人の側近が朔を呼びにやってきた。
「陛下、とりあえず顔だけでも見せてやったらどうです。相手も美人なことですし」
 生真面目な早花と違って夬は適当な説明を加えて、王の興味を引こうとする。
「なんだ、今回の相手は女なのか」
「ええ。熟々ですけども」
「ババアかよ……」
 王相手に一体何を言っているのかと、早花は早花で夬を睨む。
「ま、仕方がない。お前たちがそう言うなら、会うだけ会ってみるか」
 側近たちはほっと息を吐いた。腰の重い桜魔王はようやく動き出す。

 ◆◆◆◆◆

 桜魔王は朱の森に構えた屋敷の一つで、訪れた客を出迎える。
 朔個人が普段使用しているのは質素な庵だが、それではあまりに格好がつかないとして、桜魔王としての役割をこなす時はこちらの屋敷を使うのが側近二人にとって暗黙の了解となっていた。
 夬の言うとおり、今回桜魔王に目通りを願った桜魔は熟女だった。
 外見で言えば確かに美しい。早花のような若さはないが、成熟した大人の女の持つ色香がある。
 もちろん外見は人間に近く、一見して桜魔だと当てられる者はいないだろう。
 彼女は華節(かせつ)と名乗った。
 朔が知らなかっただけで、古株の実力者たちの間では有名な高位桜魔の一人らしい。
 彼女は一人ではなく部下を連れていた。若者から女性まで、十人弱と言ったところか。
 下位桜魔が徒党を組まずに本能で生きることを考えれば、姿から人間に近い同族をこれだけの人数まとめあげているだけで、華節の力量が窺える。
 堅苦しい挨拶は抜きにしろ、と朔は言った。
 華節も現在の王の気侭な性情は聞き及んでいるのか、単刀直入に本題に入った。
「我々の力で、陛下の御威光を人間どもに知らしめるために機会を頂きたいのです」
「俺の威光? そんなもんはない。どいつもこいつも桜魔王の名に惹かれてやってくるだけだ。好きにすればいい」
「ですがそれでは、桜魔が一丸となって人間を滅ぼすことはできません。我々はあなたに真の王となって、時代を導いていただきたいのです」
 裏を返せば今の朔の力では足りないと言うことだが、特に怒る気にはなれなかった。本当のことだ。
「陛下、あなたが望まずともあなたは我々桜魔の王――」
「嘘を吐け」
 朔はあっさりと華節の話を断ずる。
「俺が王だと? 王になりたいのはお前だろう? 上手く隠したつもりだろうが、野心が丸見えだ」
 言い当てられた華節は動じることもなく、ニィと笑う。彼女の部下たちと朔の側近二人の方が、一触即発で張り詰めた。
「それでこそ、我らの王だ。敵は強い方が殺し甲斐がある」
「俺たちは桜魔だからな」
 空が青いのは当然だとでも言うように、のんびりと朔は言った。
 戦い恨み憎み殺し合うのが桜魔の本能だと。
「まぁ好きにすればいい。俺の首をとれるもんならとってみろ」
「それでは遠慮なくやらせていただきましょう。とはいえ、今のあなたを殺して玉座についても、あまりにも箔が足りない。私自身の野望のために、あなたにはもっと立派な桜魔王になってもらわねば」
「立派な桜魔王ねぇ……」
 そんなものがあるのかと、朔は端から疑う調子で華節の言葉を繰り返す。そして己の野心を堂々と晒し、それができるだけの計画を携えた女にさらりと問いかけた。
「それで、お前は何がしたいわけ?」