桜魔ヶ刻 04

020

「どうやら無事に潜入できたようですね」
 真っ暗闇の中で神刃は呟いた。
 別に声を潜める必要はないはずなのだが、なんとなく自然と小さくしてしまうのだ。
「そうだな。しかし、まさかお嬢がこんな能力まで持ってるとはな……」
 鵠も魅了の力を持つ退魔師に実際に会ったのは朱莉が初めてだ。配下の桜魔たちを利用したあまりにも多彩なその技には感心せざるを得ない。
 まぁ……だからと言って、今この状況はちょっとどうかとも思うのだが。
「うーん、快適空間だな!」
 一人蚕だけは、普段なら入れないような場所に入れたことを大層喜んではしゃいでいる。
「そんな馬鹿な」
「お前、本当に桜魔だな」
 人間の退魔師二人は、一応連れてきたこの謎多き子どもの台詞にげんなりとした。
 鵠や神刃にとってこの場所は真っ暗闇の中に無数の桜魔の気配と息遣いだけが充満していて、非常に居心地の悪い空間である。
「申し訳ありません。狭苦しい場所で……」
「ありがとう紅雅。でも問題はそこじゃないから」
 彼らと共にいるのは、朱莉の一の配下で元は人間の辻斬りだったという中位桜魔・紅雅だった。
 鵠からしてみれば今顔を合わせている紅雅は人間の外見にほど近い生真面目な青年に見えるのだが、彼ともそれなりに付き合いのある神刃からすれば、これは朱莉の力によって桜魔としての本性が大分抑えられている状態らしい。
 その話を聞き、ますます朱莉と神刃の間にかつて何があったのか興味が湧いた鵠だったが、いたいけな少年少女の意味ありげな過去を邪推するような真似は大人としてぐっと堪えることにした。
 元は人斬りだったという紅雅の経歴を聞いて、中位桜魔である彼が高位桜魔たちを相手にある程度持ち堪えられたことにも得心がいった。
 紅雅の主である朱莉は今、「一人で」桜魔たちを取引した悪徳商人の屋敷に乗り込んでいるはずだ。
 その彼女から桃浪と接触したという報せを受けて、鵠たちはその気配に集中し始めた。

 ◆◆◆◆◆

 無事に潜入した、桜魔と取引している人間の屋敷。真っ先に顔を合わせた相手が桃浪であったことに、手間が省けたと朱莉は思った。
「おやおや、外回りの仲間が帰ってきたと言われて来てみれば……」
「あら、私はある意味あなた方の『お仲間』でしてよ?」
 嘘は言っていない。朱莉は桜人だ。桜魔に味方する気はないが、桜魔に限りなく近い存在である。
「なるほどな。大胆だなあんた! いくらなんでもそんなに堂々と乗り込んでくるとは思わなかったぜ!」
 何がおかしいのか、桃浪は笑い転げている。
「いいぜ、案内してやるよ。うちのボスと再戦したいんだろう?」
「……本当にいいんですの?」
 あまりに事が上手く運びすぎて、朱莉は目を丸くした。
 確かに桃浪であれば、話の運びによってはこちらの挑戦を受けて彼らの首領の下へ連れて行ってくれるだろうとは思った。そしてここで彼と戦闘になるなら、すぐ近くに救援がいるということでそれはそれで好都合。
 しかしこうもあっさり頷かれると、逆に疑いたくなるのが人情と言うもの。……別に朱莉が極端に天邪鬼な訳ではない。
 桃浪にこちらを騙す意図はなさそうだが、このまま素直に案内してくれるというのがどうにも信じられない。彼は何のためにそんなことをするのだろう。
「別にいいぜ。俺らだってどうせあんたらをいつか相手にしなきゃいけないのは同じだしな。廊下で戦うのと部屋で戦うのとどっちがいいかなんて俺が今ここで考えたところで意味ないし」
「そうですね」
 ここまで来たらもう一緒だと、朱莉と並んで廊下を歩きながら桃浪は言う。案内すると言ってもさすがに前に出て敵に背中を見せる気にはなれないらしい。
「敵を前にしているというのに緊張感がありませんわね」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ、お嬢さん」
 緊張感がないのは朱莉も同じだ。敵地に“一人”乗り込んだとはとても思えない。
「あんたは桜人のくせになんで人間の味方をしているんだ?」
「桜人だからこそと言うべきでしょうか。人間のまま変化したので、私の感覚は人間のままなのです」
 桃浪と朱莉は平然と会話を続ける。
「へぇ、そうなのか。あんた、人生充実してる?」
「充実……しているのかもしれませんわねぇ。とりあえず今はあなた方の王様を倒すために日々精進していますので、何もせず何も出来ず緩慢に死を待つより充実しているのかも知れません」
 朱莉は足下の“影”の中から一体何を敵と仲良くおしゃべりしているのかと責めるような視線を感じたが、さらりと無視した。
 桃浪はなおも声をかけてくる。桜人に興味があるのか、退魔師に興味があるのか、それともまた別の理由か。
 一見自由気儘に見えるこの辻斬りにも、何か柵があるとでも言うのだろうか。
「桜魔王を倒すためか。いいねぇ、俺もあの人とやれたらなぁ」
「あら、あなたは桜魔王と戦いたいのですか?」
「戦いたいよ。だって桜魔の王だぜ? あらゆる桜魔の中で、一番強い。戦えたら楽しいだろうなぁ~」
「ただの戦闘狂ですか」
「その通り」
 朱莉の容赦ない評価にも心底楽しそうに頷いて、桃浪は一人酔ったように続ける。
「戦いはいい。戦っている間だけは、生を実感できる」
「それが、桜魔として何人も斬り殺した理由なのですか?」
「いいや、あれは上の命令さ。俺にも逆らえない相手ってのはいるんでね」
「逆らえない相手がすでにいるのに、桜魔王と戦いたいなどと仰るの? その相手は桜魔王より強いのですか?」
 朱莉は不思議に思って尋ねた。これまでの彼の言動からすると、桃浪はひたすら強さに価値を見出す手合いに見えたからだ。
 だが、桃浪は朱莉の問いにゆるゆると首を横に振る。
「そういうわけでもない。桜魔にもそれぞれ事情があるのさ」
「……それはそれは」
 否定の仕草だがそこにあるのは苛立ちでも諦めでもない。彼は納得してその位置にいるのだ。
「ついたぜ。お嬢さん」

 ◆◆◆◆◆

「のこのこと一人で、よくもやってきたもんだね」
 屋敷の最奥の一室は、桜魔の巣へと改造されていた。
 幾人かの人間型の高位桜魔、そして無数の獣や爬虫類に似た下位桜魔に囲まれて、朱莉はそれでもにこにこと笑っている。
「退魔師としてはこれ以上あなた方の暴虐を放っておくわけには行きませんの」
 朱莉はまったく動じることなく、上座へ陣取る敵の頭領、華節に言い放った。
「退魔師として、あなた方桜魔を滅します」
「ふざけるな! この小娘が!」
 華節は手下たちに指令を下す。
「彼我の力量差も見抜けぬ愚かな贄よ! やっておしまい!」
 華節と朱莉ならば、朱莉に魅了者としての素質を含めても、年季の入った剣士である華節の方が実力は上だ。
 朱莉はなまじ魅了者であるために、直接戦闘力は低い。切った張ったのやりとりは苦手である。
 だが、苦手ならばそんなことは別の人間に任せればいいだけだ。
「ですってよ、皆さん」
 一人でやってきたと桜魔たちは言う。
 だが朱莉はこう返す。こんな敵地に一人で乗り込むわけないでしょう、と。
 足元の影――普段は配下の桜魔たちが術で繋いで棲まう場所から人影が出現する。
「さぁ、殲滅開始ですわ!」
 朱莉の魅了者としての力の応用で影に隠れていた、鵠と神刃、そして蚕が飛び出した。