桜魔ヶ刻 06

032

「お久しぶりです、お兄様」
「ああ。お前も変わりないな。朱莉」
 朱莉は朱櫻国の嶺家――すなわち彼女の実家に、蝶々と一緒に帰っていた。
 朱莉は二年前まで、この朱櫻国で正規の退魔師として暮らしていた。魅了者という特殊な力のために、相棒の蝶々以外の退魔師にはほとんど畏れられながら。
 あの頃の朱莉は兵破たちが言った通り、もっと大人しい少女だった。本質は今とそう変わりない。けれど自分の力の異端に負い目を感じ、退魔師としての在り方に悩んでもいた。
 そこを変える出会いと――そして別れを経験した結果、彼女は今こうして、桜人の退魔師として神刃と手を組むことになった。
 事情を知っている兄の白露(はくろ)や元相棒の蝶々はそんな彼女のやり方を受け入れてくれた。神刃とはいまだに蟠りもあるが、それ故大陸に平和を取り戻したい彼の覚悟は痛い程に理解している。
 そして神刃が鵠を仲間にしたことで、ようやく歯車が回り始めた。最強の退魔師の名は伊達ではなく、彼の力があれば桜魔王討伐も夢ではない。
「退魔師としての役目はどうだ」
「今のところは極めて順調です。楽しいですよ。私以外の面々はどの方も波瀾万丈で」
「……そうか」
 いたずらっ子のような笑みを浮かべている朱莉を見て、白露は諸々の心配を押し殺し今は頷くに留めた。
 二年前、恋を失った朱莉がどれだけ嘆いたか彼は知っている。妹が今笑えているのなら、多少のことは目を瞑るべきだと白露は考える。
 神刃に関しても、彼ばかりを責めるわけにはいかない。朱莉とは色々あったようだが、あの少年は少年で桜魔王討伐という新たな目標を与えたのだ。それも朱莉だけではなく、この朱櫻国全ての退魔師に。
 緩慢に死を待つばかりだった朱櫻国に新しい風を吹き込んだのは、朱莉や神刃や蒼司という、まだ子どもとしか言えない若い世代だ。
 ただ、兄としてこれだけは捨てきれない感情で白露は一言妹に告げる。
「……辛くなったら、いつでも帰ってきていいんだぞ」
 朱莉は一瞬きょとんとして、次いで儚くもはっきりとした笑顔で頷いた。
「ありがとう、お兄様」
 自分はとても家族に恵まれているのだと、改めて朱莉は思い直した。

 ◆◆◆◆◆

「僕たちは家族に恵まれませんでしたね」
 国王と呼ばれる少年は寂しげに呟いた。
 朱櫻国の先王・緋閃は他国に侵略を仕掛け、数多の嘆きを生み出し、彼自身が死んだ今でさえもこの大陸を桜魔ヶ刻の絶望で包む大罪人だ。
「兄上……この関係は、もう少し隠しておくべきでしたか?」
 自室で神刃を前にして、蒼司はそう問いかける。初日に前振りも何もなく、神刃が朱櫻国王の兄だと明かしたことについて。
「……いや」
 神刃は目を閉じて考える。
 鵠の事、朱莉のこと、実の父・緋閃王のこと、そして――育ての親である、火陵のことを。
「鵠さんは、火陵が緋閃王を殺害したことを知っている。俺が話した」
「そうですか」
 その時傍にいたのはここにいる神刃と蒼司、そして情報屋にして間諜である彩軌だけだ。
 二人の少年の父親である緋閃王と、彼を殺した男、火陵。その関係は神刃にも蒼司にも完全に理解することは不可能だ。
 彼らの間にあった感情ごと、火陵は常世に持って行ってしまった。そこには彼のかつての主君も、その妹であり神刃の母である寧璃(ねいり)もいるのだろう。
「鵠殿には、“事実”をお伝えたしたんですね」
「……ああ」
「それで良かったのですか?」
「良かったも何も、あれが事実なんだ。下手な嘘を吐いて信頼を失うよりいいだろう」
「……朱莉殿と鵠殿でお話が食い違うことになります」
「朱莉様が俺に関して、そんな話を鵠さんにするとは思えないよ」
 神刃の言葉に、蒼司はぱちぱちと目を瞬いた。
「……どうした、蒼司」
「いえ。そうかな? と思いまして」
 蒼司の考えは違った。朱莉と鵠の両方が神刃に対して心配していることがあるなら、鵠は神刃の過去を朱莉に聞くと思うのだ。彼女は火陵のことこそ知らないが、二年前の因縁の事件に関わっている。
 だが神刃には、そもそも朱莉が自分を心配するという考えがないらしい。
 神刃は、自分がいまだに、彼女に殺したいほど恨まれていると思っている。
 共に桜魔王を倒すため手を組んだのは、あくまでも目的達成の困難さ故、仕方のない事なのだと。
 蒼司にはそう思えなかった。朱莉はそんなに単純な女性ではない。彼女は自分で考えて、自分の意志で神刃を支えることを選んだのだ。
 でも神刃が朱莉に恨まれているという認識自体は確かに正しい。二年前のあのことだけは、彼女は未だに彼を恨んでいる。その一方で、同時に神刃を心配もしているだけだ。
 蒼司にはその気持ちがよくわかった。
 朱櫻国王として、先王緋閃を最低の男だと憎んでいる。それなのにかつて蒼司は、朱櫻緋閃の息子である朱櫻蒼司として、父親に愛されたいとも想っていたのだから。
 なんてくだらないものを求めるのだろうと自分の幼さに嗤いながら、それでも長くその想いを捨てきれなかった。蒼司がそれを捨てる決意ができたのは、三年前の事件――緋閃王が死んだ、あの日のためだ。
 そして父を完全に葬った時また、残された家族である神刃に執着しているのだと。
 神刃は紛れもなく手櫻国王の息子であり血統的にも申し分ない。だが生まれてすぐの彼を火陵が連れて逃げたために、正式な王子として認められるどころか、彼の存在自体知らない者の方が多い。
 緋閃の悪名が大陸中に轟いている今は、むしろその方が都合よいだろう。
 だが神刃は、緋閃のもたらしたこの悪夢の時代を終わらせるために動く蒼司と一緒に、桜魔王討伐のために尽力してくれている。
 それは実の父の乱行の後始末という面もあるが、第一の理由は養い親であった火陵のためなのだろう。
「蒼司の方は、問題はないか?」
「ありません。至って平和……と言う訳にも参りませんが、まぁ普通ですね」
 蝶々たちが動いてくれるため、退魔師協会との連携の方は年々着実に成果が上がっている。桜魔王や王に継ぐ高位桜魔を倒せる者こそ少ないが、雑魚が何体束になってかかってきても問題なく対応できるだけの勢力は固めたつもりだ。
「あ、でも最近は葦切様のおかげで更に退魔師協会の戦力を増強できました」
「葦切様……って、天望葦切とか言う」
「そう、その天望の御当主です」
 蒼司は鵠も「天望」だということを知っている。だからこの名を出したからには、次の神刃の問いの内容もわかっていた。
「その葦切って人のこと、教えてくれないか?」

 ◆◆◆◆◆

 退魔師協会は人がいっぱいのようなので、鵠たちは首都に宿をとった。協会の人間と面識を持つのは良いが、蚕や桃浪のことも考えれば常に一緒という事態は避けた方がいい。
 そして鵠個人に関しては、一人で考えたいこともあった。
「天望葦切……か」
 この国に来てから聞いた名前。花栄国からやってきて、退魔師協会にも協力している凄腕の退魔師。
 その名を脳裏に思い浮かべて独りごちる。
「実直そうな青年だったな」
 ……が、当然のように反応が返って来る。それでは独り言ではなく会話だ。何故か蚕が同じ部屋の中にいた。
「お前、桃浪と出かけるんじゃなかったか?」
「鵠があまりにも難しい顔をしているものだから相談に乗ろうと思ってな」
「別に頼んじゃいないぞ」
「まぁ、そう言うな。あまり一人で考えすぎると袋小路に嵌まるぞ」
 子どもはいつものようににこにことしている。仏頂面の鵠や常に真面目な神刃とは表情筋の使い方が一から違うようだ。
 そう言えば桃浪もいつもにやにやしているし、朱莉もくすくすと笑っている姿をよく見かける。桜魔とはどいつもこいつもこんななのか? と鵠は一瞬どうでもいいことを考えた。
「蚕……お前には両親の記憶も生前の知識も何一つないんだったな」
「ああ、そうだ。この大陸に関する知識はともかく、自分がどういう立場の人間だったのか、そもそも一人の人間の怨念から生まれたのかどうかもわからない。私が私だと思っているこの人格すら、目的を中心核としてあとから形成された手段の一つなのかもしれない」
 蚕は聞きようによっては異様に寂しいことを言った。桜魔の存在意義など鵠は考えたくもないが、だからといって自分の人格すら手段呼ばわりできるとは。
 人間だったら最初に自分という存在があって、それを生かし幸福になるために目的や手段を得るのだ。
「まぁ、そう憮然とした顔になるな。私は自分を不幸だなどと思ったことはないぞ。私はこれでいいんだ。何せ人間ではなく桜魔だからな」
 少しでも私を憐れむならば、桜魔王を倒すのに協力してくれと蚕は言う。
「だが、そう聞くと言うことは、お前は両親のことが気になるのか?」
「……ああ」
「あの天望葦切とか言う青年、お前の兄弟なのか。神刃と蒼司王のように」
「いや、違う」
 鵠は首を横に振る。
「うちの両親は駆け落ち者だ。だから実の兄弟が実家にいることは考えづらい」
 蚕に対しては説明を端折ったが、鵠の両親自体が、実の兄妹だったのだ。だからこそ二人は家を出たのだろうし、そうである以上どちらかの血を引く子どもだけを実家に残しているなどと言うことは考えづらい。
 普通に考えれば両親とは別の人間が家を継いだのだろう。
「でも親戚ではある訳だな? だったら詳しいことを、葦切本人に聞けばいいのではないか?」
「……直球だな」
「遠回りをする意味が何かあるのか? それに、向こうもお前を気にする素振りは感じられたぞ。敵意があるかどうかまではわからんが」
 確かにそれが一番早い。目を逸らし続けてぎくしゃくとした関係のまま退魔師協会と連携がとれなくなっても困る。
 だが、やはり、直接は躊躇われる。天望家は交喙と花鶏に対し、どう考えているのだろう。
「お前が聞きづらいなら、私がさりげなさを装って聞くか?」
「……いや、別にいい」
 退魔師相手に仲間にしてくれと、それこそ直球勝負を仕掛けてきた相手にそんな高度な話術は期待できない。
 鵠は腹を決めた。
「俺が、自分で聞く。……悪かったな」
 蚕はにっこりと笑う。その笑顔だけ見ていれば、彼はただの親切で歳よりもしっかり者な人間の子どもにしか見えなかった。