桜魔ヶ刻 06

035

 翌日、神刃は退魔師協会の庭の片隅で落ち込んでいた。
 高位桜魔の集団での襲撃があった昨日の今日なので、鵠たち一行も昨夜は退魔師協会に泊まりこんでいたのだ。神刃はそのまま朝から鍛錬用に庭の片隅を借りている。
 けれど、今一つ訓練に身が入らないのは、昨日のことを気にしているからだ。
 自分が桜魔の少年に負けそうになったことで、鵠の――皆の足を引っ張ってしまった。蚕や桃浪は元々桜魔で桃浪に関しては敵だったとはいえ、彼らはしっかり結果を出している。
 敵の攻撃を見事に食らって無様に敗北しかけたのは、神刃だけだった。
 鵠は別に神刃を責めなかったが、神刃は自分を赦せない。守られるために、彼の負担を増やすために桜魔王討伐への協力を求めた訳ではない。
「……しっかりしなくちゃ」
 朱櫻国に帰ってきて、蒼司と会い、自分が緋閃王の息子だと鵠に明かしたことで、内心動揺している。それはわかっている。
 緋閃の息子だという事実は、それだけで神刃を苦しめるものだった。そしてそれを自身が知った三年前の事件にまつわる記憶の全てが、今も神刃を責め続ける。
 幸せになるなんて、赦されるはずない。
 穏やかな生活なんて、例え今の世界が平和だったとしても神刃にとっては幻想だ。むしろこの桜魔ヶ刻だからこそ、桜魔王を倒すという目標を自分に課すことでまだ戦い続けることができるのかもしれない。
 でも、もうその強さも意味がない。
 鵠は凄い人だ。彼にとっては、自分の微々たる力なんてそこにあってないようなものだろう。
 雑魚退治に血道を上げて、ようやく一端の退魔師と名乗れるくらいの実力で鵠と肩を並べようなどと、考える方が不遜なのだと思い知った。
 ――……別に俺だって、そう昔から強かったわけじゃないぞ? 現に死にかけて火陵に助けられている。
 鵠はそう言う。でも神刃は知っている。鵠は今の神刃と同じ年頃の時だって、神刃より圧倒的に強かった。
「はぁ……」
 自分を鼓舞して訓練に戻らねばと考えるのに、どうにも気が乗らない。剣を握る手に込められたのは力ではなく、行き場のない迷いだけだ。
 そんな時だった。
「よー、坊や。朝からお稽古とは精が出るねぇ」
「桃浪」
 お稽古とは何だ、これは訓練だと反論したいところだが、桃浪から見れば神刃の剣技など所詮子どもの稽古にしか見えないのだろうことも理解して神刃はぐっと口を噤んだ。
「おや? 珍しい。お前さんは言いたいことを我慢しない性質だと思ってたんだがな」
「うるさい。邪魔をするならあっちに行け」
「まぁそう邪険にするなよ。どうだい坊や、そんなに暇なら俺とやろうぜ?」
「お前と?」
「鵠も蚕もお嬢も、皆忙しいって俺と遊んでくれないんだよ」
「お前朱莉様にまで声をかけたのか……と言うか、遊ぶってなんだ。ふざけ過ぎだろう」
「いいじゃないか、多少はふざけたって。真面目一辺倒だからって勝てるわけじゃないのは、お前さんが誰より知ってるだろ?」
 神刃はぴくりと片眉を上げた。
「まぁ、昨日のあれは、祓とか呼ばれていた向こうの坊やも真面目系の相手だったけどなー」
「……桃浪」
 神刃は目を座らせて尋ねた。
「要するにお前は、俺を怒らせて、何でもいいから戦いたいんだな」
「その通り」
 色男はいつも通りにやにやと笑っている。
「あーもう! だったら好きなだけ相手をしてやるさ! むしろお前もそのまま退治されろ! この性悪男め」
「御冗談を。桜魔王を倒すまでは死ぬわけにはいかねーっての!」
 神刃は剣の切っ先を突きつけ、桃浪も楽しそうに自らの得物を引き抜く。
 挑発する桃浪と彼の言動にもう我慢がならないと怒る神刃の、訓練と言う名のくだらない喧嘩は、こうして始まったのだった。

 ◆◆◆◆◆

 葦切は庭を通りがかった際、その光景を目にした。
「あれは、鵠殿のお仲間の」
 大人しそうな少年と飄々とした青年。そう記憶していたのだが、今日の二人はどう見ても騒がしい。あれでは訓練と言うよりも子どもの喧嘩だ。
 特に桃浪が挑発して神刃を怒らせ、著しく効率を下げている気がする。
 あれでは駄目だ、訓練にはならない。いっそ仲裁に入ろうかと考える葦切だったが、その光景を見て驚愕した。
「……っ!」
 神刃の剣がかすった先、桃浪の腕から零れた血が瞬く間に幾枚もの桜の花弁に変わる。
 あれは桜魔の血だ。何故桜魔の血が?
 腕を斬られても余裕綽々の男を見る。彼が笑いながら斬られた腕を一撫ですると、傷口はあっさりと塞がった。
「桜魔――」
 葦切は言葉を失った。

 ◆◆◆◆◆

 鵠はまたしても朱莉と顔を合わせていた。
「……神刃の奴はまだ落ち込んでいるのか?」
「わざわざ私に聞かずとも、本人の様子を見に行けばいいと思いますよ」
 まったくもって正論である。だが鵠には神刃と直接話をする前に、朱莉に聞いておきたいことがあったのだ。
「お嬢、あんたは俺たちをこの国に誘ったが……あいつにとっては負担の大きい展開だったんじゃないか?」
「そうでしょうね。神刃様は実の父親のことが嫌いですから」
 朱櫻国に来たことで、鵠たちはこれまで神刃が黙っていた彼の出生を知ることとなった。
 大陸に桜魔ヶ刻と呼ばれる時代をもたらした最悪の大罪人。先代朱櫻国王、緋閃。
 彼のせいで緋色の大陸は戦火に包まれ、そこから派生した桜魔が今も人々を苦しめ続けている。
 この先鵠たちが桜魔王を倒せず人類が滅びるのであれば、緋閃王は正しく「大陸を滅ぼした男」になる。
 今まで鵠はそこに何の感慨もなかった。最強の退魔師と呼ばれたこともあれど、勇者など柄ではない。緋閃王の後始末を、わざわざしてやる義理もない。
 けれど今は、それで神刃が少しでも救われるのなら、桜魔王の一人や二人、倒してやるという気になっている。
 それをそのまま伝えると、朱莉はいつもとは違い、散る前の桜のように儚く微笑んだ。
「あなたがそう想ってくださっただけで、救われているものはありますよ」
 そうは思えない。昨日の戦いは実力差的に仕方がないと思うのだが、祓に負けた神刃は落ち込んでいる。
 だが、彼の落ち込んでいる理由はそれだけではないように思える。
 この国にいることそのものが、神刃の精神を不安定にさせるのだ。
「彼にとって自分が弱いことは、そのまま大陸の危機に直結する。どうしても桜魔ヶ刻を終わらせたい神刃様は不安なのですよ」
「それだけか?」
「……」
 先日――華節の事件の後も、朱莉と鵠は神刃の精神性について話した。
 神刃は桜魔という存在に対し憎しみを抱いているが、その一方で、いくら相手が桜魔であろうと、人の姿をした生き物を無闇に殺すことに罪悪感を覚える性質だと。
 どこまでも残酷になりきれない、なんて生き辛そうな性格だと思うが、だからこそ鵠は神刃のひたむきさに心を打たれたのだ。
 しかしその一途さは、彼自身を押し潰しそうな罪悪感から生まれている。
 それは桜魔を殺す時の態度にも表れているが、それだけではないことにも鵠は気付いている。
「……あいつはそんなに、火陵が緋閃王を殺したことに傷ついているのか」
「え?」
 驚く朱莉の反応が予想外で、目線を伏せて物思いに沈んでいた鵠は顔を上げた。
「違うのか? 神刃自身がそう言っていたんだが」
「私は……緋閃王を殺したのは、神刃様自身だと聞いております」
「何?」
 思わぬ答に鵠は驚愕する。
「いえ、待ってください。私が神刃様の事情をお聞きしたのは、主に蒼司様からなのです。神刃様があなたに嘘を吐くとは思えませんので、多分……鵠様が聞いた話が正しいのだと思います」
「確かに俺も、神刃が父親を殺したというよりは、火陵が覚悟を持って王を殺害したという方が納得する。だが……」
 ならば何故、朱莉が聞いた話では神刃が王を殺したことになっているのか。
 この情報の食い違いの中には、神刃のどんな感情が隠されているのだろう……。
「鵠さん、実は――」
 朱莉が何かを言いかけた時だった。
「鵠殿!」
 葦切が何故か怒った顔で、場に乱入してきたのだった。