047
起き上がれるようになった鵠は、運動も兼ねて朱櫻国王・蒼司のもとを訪れていた。神刃にまだ聞けていない、彼の過去の詳細を聞くためだ。
「兄上が……神刃が火陵に剣を向けたのは、私を助けるためです」
「やっぱりか」
火陵が緋閃王を殺し、自らをも殺し王と心中した。その場にいたのは神刃を除けばもはや蒼司だけだ。
蒼司の話によればもう一人、情報屋の辰こと国王の懐刀・彩軌も事情を知っているそうだが、あの男は尋ねても決して話そうとはしないだろう。
だから鵠は、国王である蒼司に直接、彼と神刃の父親に関して尋ねることにした。
緋閃王のことを口にするのは、蒼司にとっても辛いことだろう。わかっている。それでも鵠は、蒼司と神刃、どちらかに辛い思いをさせるならば前者を選ぶ。
「神刃の母親は、他国から無理矢理攫われてきた貴族の姫です。火陵は、その姫の兄に使える戦士でした。緋閃王は火陵の主君を殺し、妹姫と火陵を奪ったのです。彼の感情は姫よりも火陵に対する執着の方が強かったようです。しかし……」
火陵と緋閃の間に、語られる事実以外の何があったのかなど鵠は知らない。蒼司にもわからないと言う。
ただ、戦場の死神と畏れられる程の戦士・火陵を、緋閃は自分の部下として欲しがっていたらしい。
主君を殺された火陵はそれでも妹姫が生きている限りは彼女を守ろうと、苦渋を飲んで緋閃の配下にくだることとなった。
けれど。
「緋閃王は自分が一番優れていると信じて疑わない暴君。あの男は考えもしなかったのでしょうね、無理矢理攫って妾とした妻が、どうやって己に復讐しようと考えているのかなどと」
姫君が復讐の道具として選んだのは実の息子。彼女と憎き夫、緋閃の間に生まれた子――神刃。
「“神刃”は裁きを意味する“神の刃”。例え女児だったとしても、この名がつけられたことでしょう。寧璃様……神刃の母は、復讐のためだけに神刃を産んだのです」
聞いているだけで胸の悪くなる話だ。だが本当に憂鬱なのはここからである。
「火陵はどう絡んでくる?」
「寧璃様が産んだばかりの神刃を預けたのが、兄の部下として信頼していた火陵です。彼女は自分の存在が、火陵を緋閃王の下に縛り付ける枷になっていると考えていた」
「まさか」
「はい。生まれたばかりの息子に復讐を果たさせろと火陵に預けた後、彼女は自ら命を絶ちました」
「――」
「これは彩軌からの情報なのですが……どうやら寧璃様は、ずっと火陵のことが好きだったらしいのです」
聞くことを後悔したくなるような重い話に、鵠は内心で頭を抱える。神刃が自分の過去を語りたがらない訳だ。
何も――何も持っていなかった。生まれ落ちたその時から与えられた復讐の役目以外、何も。
「火陵は十二年をかけて、神刃を戦士として育てました。彼の言うことならなんでも聞くように優しく、愛情をかけて。彼の目的は、寧璃様の怨嗟を背負わせた息子である神刃に父王・緋閃を殺させることでしたが……」
「殺せなかった……いや、殺させなかったんだな」
「その通りです」
「俺がかつて出会った火陵と言う男は……養い子に実の父親を殺させることができるような、そんな男じゃなかったよ」
「あなたがそう言うのであれば、そうなのでしょうね。私は火陵についてその人柄はほとんど知らないのです。今のことは全て、三年前の事件に関係して、覚えておくべき知識として彩軌に与えられたものがほとんどです」
蒼司は火陵が神刃を連れて、緋閃王を殺すために王宮に乗り込んできた際、初めて兄である神刃と出会った。
兄にまつわる話は知らなかったが、己の父親が鬼の所業を行っていると知っていた蒼司は復讐を止める気も起きなかった。
「火陵は、神刃に父親を殺させたくはなかったようです。結局彼は、緋閃王を自ら殺した。そして自分のことも殺せと、神刃に言いました」
蒼司の表情からはすっと表情が抜け落ち、神刃と同じ緋色の瞳はここではない過去を見つめている。
「神刃は、できないと言いました」
「……」
「火陵は、それなら僕を殺すと、僕の首に剣の切っ先を突きつけて言いました」
「それは……継承権の話か?」
「はい。公式に発表されていないとはいえ、神刃もこの国の王子であることに変わりはありません。でもこのままでは王を殺した弑逆者の養い子として処分されてしまう」
火陵と無関係だと示すために火陵を殺すか。
国で「唯一の」王子となるために、出会ったばかりの弟である蒼司を殺すか。
その二択だと、火陵は神刃に突きつけた。
「でもどちらもできなかった。神刃に人間を殺せるはずがない」
「……そうだな」
「そして火陵は――自ら命を絶った」
「……」
鵠はなんとなく、火陵の考えていることがわかるような気がした。
あの男は神刃にもう、親の復讐を果たすための道具でも、呪われた両親の間に生まれた不幸な子でもなく、ただ自由になってほしかったのだろう。
いまだに神刃を縛り続ける、火陵自身の呪縛からも。
火陵自身の呪縛は解けない。彼にそれをかけた寧璃はもういない。
緋閃は死んだ。彼は火陵に殺されて、火陵は復讐を果たした。果たしてしまった。そして何もなくなり、罪だけがその手に残った。
憐れな男だと、改めて思う。
そんなにも愛していたのか、かつての主君とその妹姫を、養い子の神刃よりも……?
けれど親の世代の憎悪や情愛に巻き込まれて、結局神刃は置き去りだ。
「馬鹿な火陵……そんなことをしても、神刃が喜ぶわけないのにな」
「本当ですよ」
後に残された神刃を知る者たちは、しみじみと死者に対して溜息をついた。
憤りは静かに深く沈んでいく。緋閃王といいその妻・寧璃といい火陵といい、本当に聞くべき相手さえいない恨み言だけが、溜まっていくのだ。
「悪かったな、蒼司王。お前にとっても辛いだろう記憶を、根掘り葉掘り聞いてしまった」
「いいえ、構いません。あなたが神刃を支えてくださるのなら、このぐらいの情報は必要でしょう。それに」
俯く少年はその表情に大人びた影を落とす。
「大きな声では言えませんが、私は生きている父が嫌いでした。誰からも嫌われ、憎まれている暴虐の王。あの人が生きている限り、私はあの人を憎み続けなければいけなかった。だから、火陵が父を殺してくれて、私はこの世の誰よりもほっとしているのです。死んでくれてようやく、私はあの人を父親として愛することができるのですから」
「蒼司」
それはせいぜい十四かそこらの少年が口にしていい言葉ではなかった。けれどこれこそが、紛れもないこの少年の本心だろうことも鵠にはわかった。わかってしまった。
「神刃にはこんな思いをさせたくはありません。いつまでも緋閃の息子などという名に囚われてほしくはない。だからもう……父の生み出した“桜魔ヶ刻”と一緒に、彼の残滓を全てこの世から消してしまいましょう」
神刃が緋閃王の血を引いていることは事実だ。だが鵠には神刃ではなく、目の前のこの少年こそが新たなる時代を作り出す王に相応しいと思えた。
「桜魔王に恨みはありませんが、彼には悪夢の時代の象徴として、我が愚かなる父の名と共に消えてもらう」
厳かなまでの口振りで、王は一人の青年に懇願する。あまりにも重い願いを。
「お願いします、天望鵠殿。この大陸の全ての人々の平和のために、桜魔王を倒してください」
「――ああ」
鵠はその頼みを引き受けた。
蒼司の言う「全て」には色々な人々が含まれている。神刃が、目の前の蒼司が、仲間である朱莉が、退魔師協会の面々が、再従兄弟である葦切が、亡くなった両親が、罪もなく脅威に怯える不幸な街人たちが、そして……鵠自身が。
この時代を終わらせるのだ。その時やっと救われる。
「必ずこの大陸に、平和を取り戻して見せる」
――彼は、唯一無二の“勇者”となる。