048
鵠は葦切と酒楼で待ち合わせをしていた。
桜魔に攫われる前に葦切が口にしていた、鵠の両親に関する思わせぶりな話が気になって、それを聞く約束だったのだ。
退魔師協会のように、花鶏や交喙本人を知る可能性のある人間もいるところではまずいというので、こうしてこんな場所を訪れている。
「なんで外なんだ? 本家とは言わないが、てっきりこの国の中にもある邸の一つに案内してくれるもんだと思ったんだが」
「私としてはそれでも構わないのですが、恐らく貴方の方が気を悪くすることになりますよ」
葦切の言い分に、鵠は眉を潜める。
空いた食器を横に押しやり、彼は一冊の草子を差し出した。
「これは?」
「貴方の母親、天望花鶏の手記です。天望家の別邸の一つに残っていたものが偶然発見された時、私がそのまま預かることになりました」
その言い方から、鵠は葦切がそれを申し出なければ、この手記はそのまま誰にも読まれることなく処分されていただろう事も察した。
「鵠殿。貴方の御両親についてですが……どんな事実でも聞く覚悟はおありですか?」
「……ああ」
鵠の脳裏に浮かんでいるのは、いまだ緋閃王の存在に囚われ続けている神刃と蒼司のことだった。
「大なり小なり親子関係に問題なんて、誰だって抱えているもんだ。俺だけ逃げるってのは許されないだろう」
「……そうですか」
彼らを解放するためにも、自分は桜魔王を倒すのだ。
そして今、両親のことを知ることが、その一助となるらしい。ならば知らねばならないだろう。
二人は何故実家を捨てたのか。
そして、目の前の葦切とは違う、もう一人の鵠に似た男のことについて。
「なぁ、桜魔王ってのは、もしかして……」
「……三十年近く前」
鵠の目を真っ直ぐに見つめたまま、葦切が話し出す。名家天望家の闇を。
「退魔師として名高い天望花鶏は、当時の桜魔王に攫われました。彼女がどんな目に遭わされたのか、その正確なところを知る人間は、恐らくもうこの世にはおりません」
「……それで」
胃を締め付けられるような痛みに耐え、鵠は先を促す。
「天望の家は、彼女を見捨てる選択をしました」
「!」
「花鶏すら歯が立たなかった、桜魔王には誰も敵わない。それが、天望家の見解でした」
「……」
何故、花鶏が桜魔王に攫われたのか、その辺りの事情は葦切もよく知らないと言う。
あの頃すでに時代は桜魔ヶ刻と呼ばれていたが、まだ桜魔王と言う存在についてはほとんど知られていなかったのだ。
ただ、花鶏はその時分、天望家の次期当主と目されていた、花栄国最高の退魔師だった。
彼女が勝てなければ、天望の家に桜魔王に対抗できる人間はいない。
だから、見捨てた。
「花鶏の兄、天望交喙はそんな家の決断に反発し、たった一人で彼女を救出に向かったそうです」
「……」
父は――天望交喙は、退魔師としての腕前は妹の花鶏に劣っていた。
性格的には母より余程しっかりしていたのだが、生まれ持った霊力と言う才能の差は大きい。交喙は早々に後継ぎ候補から外されて、花鶏が家を継ぐことになっていた。
妹が消えれば家を継ぐことができる立場。
けれど交喙はその道を選ばず、一人で花鶏を助けに行った。
鵠は仲睦まじかった両親の姿を思い返す。
少し不自然で不格好な兄妹と言う名の夫婦、けれどやはりあの二人の間で交わされていた愛情に、嘘はなかった。
そして母が、父が死んですぐ仇をとるのに命を燃やした理由もわかった気がした。
「この手記からは、彼女の断片的な想いを読み取ることができます。私はこれを全て読ませていただきました」
そこには一つ、気になることが書かれていたという。
「子どもを置いてきたと書いてあったのです」
「子ども……」
交喙と花鶏、実の兄妹の間に生まれた子は鵠だけだ。
けれど、二人の間ではなかったら。
「この手記に連ねられているのは、子を置き去りにした彼女の後悔がほとんどでした。状況説明も経緯もほぼなく、只々『許して』『ごめんなさい』『あなたをひとりに』と、置いてきた子どもに対する懺悔が書き連ねてあります」
「……」
「これ以上は、貴方が直接これを読んで判断するべき問題でしょう。恐らく私が辿り着いた結論と同じ答に貴方も行き着くはずです」
葦切は鵠によく似た「あの男」を見た瞬間、ばらけた冊子の欠けた頁がようやく見つかったような気分になったと言う。
「……ありがたくもらっておく。悪かったな」
「いいえ。ですが、貴方はこれからどうなさいます? 天望に戻ってきますか?」
鵠は首を横に振った。
「葦切、俺はお前個人に対しては悪感情はない。だがかつて天望の家が父母を見捨てたと聞いては、やはりいい気分にはなれない」
「そうでしょうね。貴方には私に変わって天望家を継ぐだけの器量もあると思うのですが――」
「いいや。俺にその気もなければ、そんな器でもないさ」
かつて家に見捨てられた女の息子と、その息子の立場に成り代わった、彼よりも力の劣る男は向かい合う。
「俺は両親のことはともかく、その更に血縁となると考えたこともなかった。どうでも良かったんだ、本気で」
父と母さえいれば良かった。祖父母も伯父叔母も従兄弟も、再従兄弟どうだっていい。
「鵠殿」
「当主の器ってんなら、お前の方だろ? 家を捨てた親戚の動向なんて気にしなけりゃいいのにいつまでもこんなもの預かって……血縁の末端まで目を配るなんて、お前は本当に当主なんだな。俺はそういう柄じゃない。例え両親がそのまま家に残ったとしても、どうせ俺の代で勘当されて結局お前が当主に選ばれたんじゃねーか?」
「さすがにそこまでは……というか、そもそも貴方の御両親が天望に戻っていたら、あなたは生まれていないのではありませんか?」
「あ、そうか」
極当然とばかりに交喙と花鶏を夫婦として考えていたが、よく考えたら実の兄妹で子を成すことを家が許すはずがない。
「じゃ、こうだ。うちの両親は結局二人で生きるために駆け落ちして俺が生まれるんだから、どちらにしろ俺は天望の家にはいない」
「……貴方が御両親を本気で愛していることが、よくわかりましたよ」
鵠にとって、あの二人の間に生まれたことはやり直したい汚点や変えたい過去ではないのだ。彼らの息子ではない自分など考えられない。それはもはや天望鵠ではない。
「本当は貴方に実際に会ったらどうするべきかと色々考えていたはずなのですが……なんだか毒気を抜かれてしまいました」
「そうか?」
「ええ。まったく貴方といい神刃殿といい、とんでもない方ばかりです」
「む……」
葦切はいつも通りの無表情なのだが、心の底から呆れたと言う気配が伝わってくる。鵠は眉を歪めて唸った。
「でも私のような普通の人間に、桜魔王を倒すなどという偉業は務まらないのでしょうね」
そう零すと葦切は、任せましたよ勇者様、などと茶化してくる。
「おい」
「……まぁ、貴方には必要ないと思いますが、家の名前がどうしても要るような事態になったらお声かけください。私に出来る限りの便宜を払って差し上げますよ。有料で」
「金とんのかよ!」
「当然です。私は家が一番の退魔師ですから」
胸を張る葦切に鵠は笑う。これまでよりずっと軽やかな気分で。
親の言うことの全ては聞けないが、それでもなんだかんだで楽しく生きているのだ。
◆◆◆◆◆
朱の森の奥に建つ屋敷の中に、少年の泣き声が絶えず響き渡る。
「……うっ、くっ……さ、載陽様……」
「……もういい加減泣きやみなさい、祓」
「でも、早花様。載陽様が……!」
師を失った祓の嘆きは深かった。早花が優しく背を叩いて窘めるが、嗚咽はなかなか止まらない。
「しかし……あの蚕とかいう子どもは何者だ?」
「桜魔王を倒すことが目的だなどと言っておりましたね……」
「なーに考えてるんだろうねぇ? 桜魔なのにぃ」
早花と夬、生き残った桜魔王の側近と、載陽のもう一人の部下である夢見は蚕の存在について小首を傾げながら話し合う。
夢見は祓とは違い、載陽の死にそれ程の衝撃を受けてはいないようだった。そしていつも通りけらけらと笑う彼女を見て、祓は余計にその胸の悲しみを深くするのだ。
「あ、あいつら……絶対に許しません!」
「……」
年長の三人は、特に早花と夬は、まだ若い祓の言葉に複雑な表情を浮かべた。
桜魔は一方的に人間を殺す悪辣な存在だ。それが自分の身内を殺されたからと嘆き悲しむなど。
だが、思えば彼らを裏切って鵠についた桃浪などもそういう考えだった。
遺され悲しみに塞ぐこの少年をどう扱うか、夬と早花は途方に暮れていた。
「……これからどうなさいます? 朔陛下……陛下?」
「え? あ、ああ。なんだ?」
早花は桜魔王に声をかける。だが、彼は何か考え事をしていたらしくどうにも反応が鈍い。
怪訝に思いながらもこのままにしておくわけには行かない。早花は話を続けた。
「祓のことです。載陽殿の仇を取りたいと申しておりますが……」
「仇ねぇ……」
桜魔王は退魔師たちを脳裏に思い浮かべる。
人間側の勇者である鵠、彼の傍にいる神刃、桜人となってまで戦う魅了者こと朱莉、彼らを裏切った桜魔・桃浪、そして載陽を倒す程の腕前を持つ謎の子ども、蚕。
更には天望家の当主だという青年、葦切が朔に向けた意味深な言葉。
「……」
相手の顔の見えない幸せな夢は覚める度に気分を落ち込ませる。この世界には、朔を苛つかせるものばかりだ。
だったら胸をかき乱す者は全て、消してしまうのが早い。
「そうだな。載陽の言うとおり、たまには桜魔王らしきことをしてみようか」
「陛下……?」
泣き腫らした目の祓が、期待を込めて朔を見つめる。
「人間を全て殺せばいいんだろう? 人間が死ねばもう桜魔が人間に殺されることもなくなる」
「陛下……!」
いつになく過激な発言に、早花と夬がぎょっと目を瞠る。夢見は激しい戦いの予感を覚えたのか、きゃははとけたたましい笑い声を上げた。
「朱櫻国に本格的な襲撃を仕掛けよう。退魔師の中心地となっているあの国から始めて、大陸中全ての国を滅ぼす。当分は退魔師が邪魔だが、ま、あいつらも全部殺せばいいさ」
全て全て殺してしまおう。彼らの中に和解や平和などと言う言葉はない。
殺すために、滅ぼすために生まれたのだ。だから桜魔というのだ。
朔にとってはそれだけでいい。
大陸に死をもたらす絶望の王が、ようやくその本領を発揮する――。