桜魔ヶ刻 09

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 『勇者』の存在は、速やかに朱櫻国中を噂として駆け回った。公式の発表を手に入れる機会のある王都以外では半信半疑と言った調子だったが、桜魔王を倒す希望の星がついに現れたという朗報は人々の心を絶望の淵から救い上げる。
 瞬郷は再び活気を取戻し、桜魔たちはそれを怪訝に思った。そして彼らも朱櫻国の動向に調査を入れ、その噂を知ったのだった。
「勇者様だってぇ~」
 夢見と祓の二人が、王都に潜入して手に入れてきた噂を聞いて桜魔王の側近たちは目を丸くする。
「陛下、これは一体――」
「どうもこうも、鵠というあの男だろう? 王国側が本腰を入れてあの男を大陸の救世主に仕立て上げることにしたんだ」
 元より自分に立ち向かってくる人間の退魔師を「勇者」と呼んでいた桜魔王・朔にとっては、今更のその報せに何の感慨も湧き起こらなかった。
「朔様、これからどうなさいます?」
 夬が尋ねて来る。
「そうだな……」
 桜魔王は――朔は、考える。
 ここ数日彼を悩ませるあらゆる問題のことを。顔の見えない母の夢、鵠の存在、葦切の言葉、死んだ載陽。
 祓は、殺された載陽の仇を取りたいと言った。自分はそれに、人間を滅ぼせばいいと答えた。
 そう、滅ぼしてしまえばもうあんな連中に煩わされることもない。
 鵠が勇者であるならば、こちらが何もせずともここまで赴いて「桜魔王」との戦いを求めるだろう。
 だがそれまで何もせず待ち構えるより、こちらが打って出るという案もある。
 それを望む者もいる。
 早花が祓に問いかけているのを聞く。
「祓、その勇者たちの戦力について詳細な情報は調べられなかったのか?」
「いいえ。そこまでは政府も発表していないようです。一応王都の中心部では公式に勇者の存在が認められましたが、鵠の名前自体民衆には明かされていません。王都から離れた地域になると、そもそも公式発表自体まことしやかな噂扱いで」
「それもそうか。手札を一々明かしてくれる程、人間たちも愚かではないか……」
 載陽の戦力が減ったことで、今、彼らの力は衰えている。
 自分の意志ではただ揺蕩うことしかできない配下の下位桜魔たちはともかく、人間の退魔師に対抗できるような、人型の高位桜魔が不足している。
 それでも朔は桜魔王だ。桜魔を導き、人間を滅ぼすのが役目だと載陽は言った。
 それが桜魔という妖の本懐だと――。
 きゃらきゃらと甲高い声が、朔の物思いに急に割り込んでくる。
「ねーぇ、桜魔王様ぁ」
「なんだ、夢見」
 載陽を失って意気消沈していた祓とは違い、以前とまったく変わらぬ様子の夢見だ。夬でさえもう一人立ちして随分経つとはいえ師が殺されたことに僅かに動揺していたというのに、彼女には祓や夬のような載陽への思い入れは絶無らしい。
「いつ、人間を滅ぼしますぅ?」
「……」
「夢見、貴様……」
 早花と夬が呆れた目を向ける。
「今、朱櫻国で人間たちが勇者擁立の報に沸き立っていると聞いたばかりなんですけどね……」
 これまでも退魔師たちに阻まれていると言うのに、人間側の士気が上がっている今突っ込んでも上手く行くまい。
 否。
「それも一理あるか……」
「陛下?」
 夢見の提案を斟酌し直して、朔は自らの考えを配下たちに告げる。
「人間共は勇者の存在に沸き立ち士気を上げている……その希望に、水を差してやったらどうだ?」
 一度高揚した分、希望が打ち砕かれた時は落胆も大きいに違いない。
「失礼ながら陛下、申し上げます。それは、我らの襲撃が成功すればという話です」
「そうだな」
 側近としては載陽を失い戦力低下が著しいこの面子で、そんなことができるのかと。
 慎重派の夬の言葉に朔も頷くが、意志を変えるわけではない。
 そしてあえて、この場では確実に頷くであろう人物に話を振る。
「祓」
「……」
「お前はどうだ?」
 載陽の仇をとりたい祓は、人間に対し強い恨みを抱いている。
「……私はできるのであれば、一人でも多くの人間を殺したい。襲撃作戦への参加を希望します」
「祓!」
 後先を考えない祓の自暴自棄な発言に、早花や夬が心配と非難の籠った目を向ける。
「まぁ、そうだろうな。早花、夬。俺の意見にもう一つ付け加えるのであれば、今ここで襲撃を仕掛けておかなければ、いざ勇者とされる鵠たちが万全の力を蓄えてやって来た時に勝てるかどうかという問題がある」
 後がないのは人間側か、それとも桜魔側か。
「それは……」
「人間たちが勇者の存在に希望を見出せば国王に協力したいと申し出る勢力は増えるだろう。一方の俺たちはどうだ? 今更桜魔王の存在に付くような高位桜魔がどれだけいる? 載陽が死んだ今、これ以上戦力を増やすのは難しい」
 珍しく饒舌な桜魔王の言葉に、彼を諌めるべき側近二人も心を動かされていた。彼の言うことにも確かに一理ある。
「桜魔なんてみんな身勝手だよぉ。自分のやりたいことしかやらないのぉ。載陽様、私たち以外にもいーっぱい、声かけたのにぃ」
「我ら以外の高位桜魔は、桜魔王の下に団結するべきという載陽様の言葉に、聞く耳を持ちませんでした」
「まぁ、そうだろうな」
 あっさりと頷く朔とは対照的に、早花と夬が複雑な表情になる。
 それも朔自身の身から出た錆と言えばそれまでだ。これまで桜魔王らしいことをまったくしてこなかった朔に対し、いきなり自分が桜魔王だから従えと言われてすぐに頭を垂れる実力者などいない。
 勝って勢力を増やし、人類を滅ぼすか?
 負けてこのまま勇者に殺され、配下の桜魔ごと滅びるか?
 人に危害を加えぬ雑魚桜魔と違い、桜魔王はその立場故に人々の憎悪と怨嗟を一身に集める存在だ。
 朔が王であった期間は短く、実質的に彼の父王がほとんどの支配を行っていたとしても。
 息子は、父親と同じ立場に下される評価からは逃れられない。その辺りは人間側の事情も同じだ。緋閃王の息子である現在の朱櫻国王が苦労するように、桜魔間でも親子問題は存在するらしい。
 だから、もしもこのまま桜魔王が人類に負けた時彼ばかりはその死から免れることはない。
 先日神刃と葦切に助けられどこか遠い山奥に隠れ暮らすことを選んだ力ない一桜魔たちとは違い、桜魔王は人間たちの憎悪の矛先から逃れることは叶わないのだ。
 ならば徹底的に抗い、戦うのも一興。
「夢見はぁ、桜魔王様の作戦に賛成ぃ」
 戦うことだけを快楽とする狂気の淵にいる女は、きゃらきゃらと楽しそうに賛意を告げる。
「私もです」
 祓も先程意志を示した。早花と夬はまだ渋い顔をしているが、朔が本気で実行するのであれば刃向かうことはない。
「どうせ遅かれ早かれ奴らとはぶつかるんだ。今のうちに派手にやろう」
 朔は桜魔王として、朱櫻国王都瞬郷への、大規模襲撃作戦を指示した。