第3章 桜の花が散り逝く刻
10.血の花が降り注ぐ刻
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先日は半ば桜魔側の自主撤退だったとはいえ、退魔師たちが桜魔王の襲撃を防いだという話は人間たちに大きく希望を与えた。
朱櫻国の王都には今までにない活気が戻り、魔王を倒すために赴く勇者たちと、その間街を守る退魔師たちを支えようと言う意識が生まれている。
鵠たちは鍛錬を欠かさず積みながらも、具体的にいつ、桜魔王の根拠地がある「朱の森」に向かうかの計画を立てる段階に入っていた。
朱莉が配下の下位桜魔を使い、桜魔側の噂まで集めてくる。
「向こうは士気がガタ落ちですわね」
「やはり、桜魔王の撤退の影響か」
「もちろん。これまでもほとんど王らしいことを何もしない王でしたが、ここで人間に負けるとは……みたいな感じだそうです」
「まぁ、そうなるよな」
「王の存在感と言う話ならば、数年前から大陸を救うために退魔師協会に援助して国を立て直し始めた蒼司の勝ちだな」
蚕が冷静に評価する。それを聞いて、神刃も表情を緩めた。
「……あいつの頑張りが、報われて良かった」
「そうだな。だが、本当に報われて終わるかどうかはこれからだ。肝心の俺たちがこれから桜魔王に負けたら意味ない」
ここでもしも自分たちが桜魔王に負ければ、蒼司の評価も共に地に落ちることになる。そうなれば元も子もない。
「悪いが劇的な大逆転は、あいつらには与えない。勝つんだ。俺たちが――」
「はい!」
鵠の言葉に、神刃も強く同意する。
「鵠さんなら、必ず桜魔王に勝てます。俺も、あの早花という側近に勝って見せます!」
「期待してるぜ、神刃」
鵠が珍しく神刃の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。それに対し、ここ最近は神刃も笑顔で返せるようになった。
鵠たち一行の絆も、これまでの戦いで十分に深まっている。
なんだかんだで共に強敵を相手に死線を乗り越えてきた仲間との連帯感は強い。
――それから更に半月程、鵠たちは鍛錬を積んだ。
一応自分たちが相手をする面子を決めているものの、実戦ではどんな不測の事態が起こるかもわからない。蚕や朱莉の攻撃方法の豊富さを活かして、桜魔との戦いそのものに慣れていく。
日々はあっという間に過ぎ、桜魔王の根拠地へ乗り込む日が近づいていく。
◆◆◆◆◆
鍛錬予定も大詰めになってきたある日、神刃は朱莉と話していた。
「それにしても、神刃様はここ数か月で随分強くなりましたわね」
「ええ。ここ最近、みんなにとにかく鍛えられましたから」
かつてはどこか自信がなさそうにしていた神刃も、今はそうして力を褒められて素直に返せるようになっている。
「以前は祓と言う名の桜魔に負けましたが、最近は蚕のおかげで中距離戦の機動も安定してきました」
「……そうですか」
自分の弱さで、鵠に傷を負わせてしまった苦い敗北の記憶。けれどそれさえも、強さに変えてみせる。その意気込みで神刃はここまで戦闘訓練を積んできた。
「……神刃様も随分、桜魔であるあの二人に慣れましたわね」
朱莉の静かな言葉に、神刃がぴたりと動きを止める。
「朱莉様……?」
「咎めるつもりはまったくありません。むしろ、良い事だと思っていますよ。でも、大丈夫ですか? あの二人にそこまで心を許して、これから先の世界の変化についていけますか?」
「変化?」
桜魔王を倒すという目の前の目的に対し精一杯な神刃は、朱莉にそう言われて自分がこれまでまったく「その先」のことを考えていなかったことに思い至る。
先。桜魔王を倒したその先。
勝てるか勝てないかもわからない今言うべきことではないかもしれない。けれど朱莉は言わざるを得なかった。
例え桜魔王に勝てなくても、この大陸が滅びても、彼女はこれからもこの世界で桜人として生きていくのだから。
それが朱莉と神刃の意識を分けた違いだ。
「あの二人を受け入れた当初は、もっと警戒なさっていたでしょう? 神刃様だけではない。私も、多分鵠様も。でも今はもう……仲間として信頼し始めている」
咎めるつもりはないと言われたが、神刃には朱莉がそれをまるで悪い事として語っているかのように聞こえた。
「朱莉様は……何が言いたいのです?」
「あの方たちは、いつまでも私たちの傍にいるとは限りません。そして彼らが我々から離れた後、どういう行動をとるのかも」
元々人間だった時代から面識のある朱莉と違い、蚕と桃浪とは、桜魔王を倒すという目的のために手を組んでいるだけだ。逆に言えば。
「桜魔王を倒して利害の一致が無くなったのなら、あの二人はどう出るかわかりません」
「そ、それは……」
確かに朱莉の言うとおり、いつまでも彼らが桃浪たちを見張れる訳ではない。
「でも、蚕も桃浪も、これから先無闇に人を襲ったりすることは、ないんじゃ……」
「けれどここまで重ねた罪は消えない。蚕の方はまだしも、桃浪は私たちも知る辻斬り事件の犯人ですのよ。本当に、最後まで信じられますか?」
「朱莉様は疑っているんですか?」
「私のことはいいのです。問題はあなたの――神刃様の気持ちです。桜魔を憎んでいたはずのあなたの」
そこまで聞いてようやく、神刃は朱莉の目に宿る感情に気づいた。
彼女が神刃の感情に拘るのは、神刃自身を案じているからだと。
「俺は……」
養父にまつわる悲惨な過去故に、桜魔を憎みその殲滅のためだけに人生を捧げてきた。神刃は実父と養父、両方の存在にこれまで魂を囚われてきた。
その鎖から、解放してくれたのが先日の鵠の言葉だった。
「俺は……桜魔王を倒し、この大陸に平和を取り戻したい」
鵠の存在によって救われはしたが、神刃の望みは変わらない。緋閃王の乱行の後始末として、桜魔王を倒し桜魔ヶ刻を終わらせるのはもはや神刃の使命だ。
「蚕と桃浪と手を組んだのもそのためです。だから……この戦いの結末に伴う事象もまた、受け入れます。俺自身に出来る限りの、正しいことを選びたい」
「相変わらずクソ真面目ですわね」
脳裏をこれまで二人の桜魔と共に過ごした時間が次々に過ぎる。自分の弱さに悩んでいた頃、わざわざ鍛錬の相手を買ってくれた桃浪。いつもさりげなく神刃を庇ったり慰めたりしてくれる蚕。
個人としての彼らを知ってしまえば、もうこれまでと同じように桜魔だからという理由で憎むことはできなかった。
「もしも蚕がこれからも人を傷つけない桜魔として変わらなければ、桃浪が過去の罪を悔いてこれからは人を傷つけないと誓うならば、俺は――」
これもまた一つの罪だと思いながら、それでも神刃は口にする。
「彼らを許し、受け入れたいと思います」
「ぬけぬけと言いますわね」
表情を変えない朱莉の言葉がだんだんと辛辣になっていく。
その理由がわかっているからこそ、神刃は彼女の審判を待つ。
自分が桜魔を赦さない理由があるように、彼女にも自分を赦さない理由がある。
今の神刃は蚕や桃浪の在り様を知って、桜魔でも人と手を取り合い共に生きるつもりであれば受け入れ、許したいと思う。
でも今まではそうではなかった。過去は消えない。桜魔を憎んだ過去は。
――総ての桜魔を憎むあまり、桜魔であった朱莉の恋人を殺した過去は。
自分はこの戦いが終わった後で、朱莉に殺されても仕方ないとすら思う。
「まぁ、私にとっても蚕や桃浪は大事な仲間です。桜人である私としても、桜魔の殲滅を目論まれるよりは、人に害を与えない最下層の桜魔などなら野放しにされている状況の方が都合がいいのです」
「朱莉様……」
「あなたはあなたでお好きになさったらいいわ。どうせこの対桜魔王戦が終わったら、私は“彼”を探してこの大陸を出ます」
「そう……でしたね」
「その後はあなた方がどうなろうと、私の知ったことではありません。……だから、あなたはあなたの望むように生きればいい」
「朱莉様、俺は、あなたに――」
「湿っぽいことは言いっこなしですわよ。まだ戦いが終わってもいないのに」
朱莉は神刃を置いて踵を返す。神刃は口を開きかけ、結局は何も言えずにその背を見送った。
そのまましばらくぼんやりしていると、背後から小さな声で呼ばれた。
「……神刃」
「蚕。もしかして、聞いてたのか?」
子ども姿の桜魔が気遣うような表情で話しかけてきたことに驚き、神刃は思わず問い質す。
「途中からな。何やらお前と朱莉には因縁があるようだな」
「うん……」
謝らねばならないことがある。
でもきっと彼女はその謝罪を受け取らないだろう。
赦されたいのは自分の勝手な望みだ。赦さないのは彼女の自由。
「神刃」
過去を振り返り一人懊悩する神刃に、蚕は穏やかに、しかししっかりと言い聞かせる。
「私たちの手で桜魔王を倒そう。それが、この大陸総ての者を、過去の因縁から解き放つことになる」
「うん……。そうだね」
蚕の温かい言葉を信じたいと神刃は思った。
最初は桜魔の言葉など疑っていた。でも今はもう、それが蚕の言葉だからという理由だけで信じられる。
後のことも色々考えねばならないだろうが、まずは桜魔王を倒すことに注力しなければ。
――けれど、もしも無事に桜魔王を、彼らの力で倒すことができたなら。
その時、ようやく神刃の人生も始まるのかもしれない。