桜魔ヶ刻 10

056

 解き放とう、と彼は言った。
 過去はないのに、過去から総てを解き放とうと。

 ◆◆◆◆◆

 そしてついに、勇者は魔王を倒す決意をした。つまり、鵠が桜魔王との最終決戦のために戦う日取りを決めたということだ。
 人間である以上、常に万全の状態とは言えない。体調を整え天候を考慮し、彼らは周囲の協力を得ながら慎重に出立の日を決定した。
「必ず、生きて帰ってきてくださいね。私からかけられる言葉はそれだけです」
「いいのか? 国王様。王として魔王に勝って来いと言うべきなんじゃないか?」
「本当はそうなのでしょう。でも私は、あなた方が生きていることの方が大事です。死んでも勝って来いなどとは言いません。負けてもなんとかして、生きて帰ってきてください」
「ありがたい言葉だが、俺たちは負けないさ」
「ええ……信じております」
 蒼司はいつもの格好ながら少しばかり緊張した面持ちで鵠にそう言葉をかける。この戦いの意味を、鵠たちと同じくらいに理解しているからだ。
 退魔師協会の面々も、自分たちが参加できない頂上決戦を行う勇者たちに、各々が各々らしい激励の言葉をかける。
「留守はあたしたちに任せておくんな」
「頼みます、蝶々」
「悔しいが、桜魔王に勝てるのはお前らだけだからな」
 蝶々や兵破からの激励を朱莉たちが受け取っている間、葦切が鵠の方へとやってきた。
「鵠殿」
「おう、なんだ」
「ついに行くのですね」
「ああ」
「いいのですか? 彼は、あなたの――」
「葦切」
 鵠の眼差しに言葉を封じられて、葦切は口を閉じる。
 鵠は懐の冊子に手を当てる。どうしてもこれだけはと肌身離さず持ち続けているものだ。
 鵠の母こと天望花鶏の手記。先日、葦切の手によって、二十年以上の時を経て鵠に渡されたものだ。
 そもそもこれがどういう状況で書かれ、どんな経緯を辿って天望家に死蔵されていたのかも鵠にはわからない。
 思い返してみれば、鵠は両親のことをほとんど知らなかった。けれどこの世には、鵠以上に自分の両親を知らない者がいる。
「俺が俺であることを選んだように、あいつも選んだのかもしれない。桜魔王であることを」
 鵠は桜魔王と、ほとんど話をしたことはない。お互い何度か顔を合わせてはいるが、その時は常に激しい戦闘か凄惨な結末が付き物だった。
 顔立ちは確かに自分と似ているかもしれない。けれど、親しみはまるで感じない。
 気づかなければ一生気づかないままであっただろう、あるかなしかのその縁。
「そうでなかった場合は」
「揺さぶりをかけてみる。一応。どっちにしろ戻れまい。それでも何か心を動かされる様子があるなら――少しは救われるかもしれない」
「それを勝算に加えているのだとしたら、あなたの実力は――」
「あぁん? ふざけたことを抜かすな。そんなものがなくても勝てると思う程度にこちらも鍛錬を積んでいる。負けっこねーよ」
「……なら、良いのですが」
 真実を確かめるために、鵠はこれからの戦いであることを行う。卑怯だと言われてもいい。ただ知りたくて、同時に一生知りたくなかった。
 だが、それによって真実が明らかになれば、救われるものがあるかもしれないのだ。
 すでに常世の住人となった者と、未だ現世で彷徨い続けている魂が。
「なんだよ、何かあるのか? 今更勇者の名が惜しくなったとか?」
「貴方こそふざけないでください。そんな訳ないでしょう。ただ……」
 葦切は珍しく眉を潜めて告げた。険しい顔ではなく、湧き上がる不安を抑えこむかのような表情だ。
「嫌な予感がするのです。この戦いは、きっと平穏には終わらない。そんな予感が」
「それこそ出がけになんて嫌なことを……」
 不吉な発言を茶化そうとした鵠だったが、葦切の表情はあくまでも真剣だった。とてもふざけている様子や、鵠をからかう顔ではない。
「用心は勿論する。だが俺たちは、この日のために準備してきたその成果をぶつけるだけだ」
「わかっております……御武運を」
 決意を込めた鵠の言葉に、葦切は丁寧に頭を下げる。
 そこここで別れの挨拶、そして激励が終わり、いよいよ鵠たちは出発した。

 ◆◆◆◆◆

 侵入者の気配に下位の桜魔たちがざわつき始め、朱の森は俄かに騒がしくなった。
「陛下! 退魔師たちの気配が近づいてきます」
「そうか」
 見張りをしていた祓の報告に、朔は腰を上げた。同じ部屋で待機していた早花と夬も、武器を手にとり立ち上がる。
「夢見、祓。先鋒はお前たちに任せた」
「御意!」
「はぁ~い」
 生真面目な少年と狂気の淵にいる女が揃って飛び出していく。
「陛下」
「最後だけはそれらしくしてやるか」
 朔はいつも適当な格好をしているが、一応それらしい衣装も持ってはいるのだ。如何にも桜魔王らしい装束を。
 埃避けを退けてそれに着替え、武器や防具もしっかりと身に着けていく。朔だけでなく、早花と夬も同様に身形を整えた。
 戦いに際し、これだけ気合いを入れたのも初めてかもしれない。
 そしてきっとこれが最後になる。
 朔たちが先行した二人の気配を追うと、朱の森の中ではなく、森に入る前の何もない平野にあった。
 夢見たちはどうやらそこを戦場と決めたようである。すでに各々自分の相手を見つけて戦闘に入ろうとしていた。
 祓は、前回苦戦させられた朱莉と再戦。夢見はいつも通り桃浪の相手だ。
 あとの三人が朔たちに気づいて向かってくる。
 桜魔側の三人も、彼らへと向かって行った。
「よぉ、来たぜ」
 覚悟ができたら来いという朔の台詞を覚えていたらしく、向こうも向こうで装備を整えたらしき鵠が言う。
 白銀髪の偉丈夫がそれらしい衣装を身に纏えば、ほら立派な「勇者様」の出来上がりと言う訳だ。
「へぇ、準備はできたってわけか。これで人間共も終わりだな」
「こっちの台詞だ。桜魔ヶ刻は――俺が終わらせてやる!」
 威勢の良さをそのまま叩き付けるように、鵠が吼える。だが朔も簡単にやられはしない。
 鵠が何年勇者として鍛錬を積んだかは知らないが、朔は生まれてこの方ずっと桜魔王として生きて来たのだ。それこそ桜魔ヶ刻が始まる前、緋閃王が戦火を広げる前からこの世界に存在していたのだ。
 大陸を自分たち人間のものだと思い、他の存在を虐げているのは人間の方だ。
 桜魔王らしく部下を率いたことなどなかった朔だが、だからこそ簡単に勇者に倒されてやるわけにはいかない。
 全ての血と死を踏みにじり、傲慢なまでに上に立つから桜魔王と呼ばれるのだ。
 最悪の結果でも、相討ちくらいには持っていく。
 否、もしくは――。
 朔は視線をちらりと、正面の鵠ではなく、彼の傍にいつもつき従う若い少年の方へとやった。
 勇者も知ればいいのだ。立ち上がれなくなるほどの絶望を。
 載陽の仇とは違うが、鵠にも仲間を喪う痛みを味わわせれば、師を殺されて嘆く憐れな祓の溜飲も下がることだろう。

 こうして、退魔師・天望鵠と桜魔王・朔の最終決戦が始まった。