桜魔ヶ刻 10

059

「させるか!」
 トドメの一撃を入れようとした鵠の前に、早花が飛び込んでくる。
「!」
 ぎりぎりにも程がある、朔に攻撃が届く直前だ。この時点では鵠が攻撃を逸らすのも間に合わず、桜魔王の消滅を狙った渾身の一撃は、二人の男の間に割って入った早花の身体を貫いた。
「がっ……!」
 肉を骨を砕く音と共に、流れ出た血がその瞬間から桜の花弁へと変わっていく。
「早花……!」
 その光景に取り乱していた桜魔王こと、朔の意識もようやく我に帰った。
「貴様、よくも!」
 瞬間的に爆発させた妖力で、最大の一撃を放った直後の隙があった鵠はその場から吹き飛ばされてしまう。
「くっ……!」
「早花! しっかりしろ早花!」
 宙に投げ出されようとしていた早花の体を朔が両腕で抱き留める。何度もその名を口にして呼びかけるが、応答はない。
 だが、まだ早花は死んではいなかった。そのまま手当てをせずに放置しておけば命を喪う重傷であることに変わりはないが、この場ですぐに彼女が絶命するような状態ではないこともわかった。
 桜魔の肉体は、人間よりも頑丈にできている。人に近い姿の高位桜魔は急所も人間と大体同じ場所にあるが、鵠は最初から早花を狙ったわけではない。
 滑り込んだその時に鵠の攻撃は早花の胸の下辺りを貫いたことが手ごたえでわかった。心臓を潰したわけではない。
 蒼い顔をした朔が妖力を集中し、少しでも傷を塞ぐための処置に入る。
「鵠さん!」
 だが、こちらもそれを黙って見ている訳ではなかった。
 吹き飛ばされた鵠の代わりに、元は早花を追っていたはずの神刃が朔へと迫る。その手に剣を握り、追撃を仕掛けるつもりだ。
「よせ! 神刃!」
 だが鵠は、遠くから制止の声をかけた。
 一見今の桜魔王は傷ついた早花を抱えて隙だらけに見える。だがそうではない。配下を傷つけられた怒りを抱えながらも恐ろしい程に冷静で、普段は無意識に制御をかけている分の強大な破壊の力まで解放している状態だ。
「うるさい」
 ぎらりと、獲物を狙う獣のように爛々とその瞳を滾らせた朔が向かってくる神刃を睨む。
 鵠の制止の声が聞こえていても、もうこの距離では神刃は反撃を躱せまい。
 鵠は体勢を立て直して駆けるが間に合わない。
 朔がすっと手を伸ばす。永遠にも思えるその時間は、実際にはまばたきをする暇もない瞬間的な出来事だった。
 これでは先程の逆転だ。鵠の朔への攻撃が、今度は朔から神刃への致死の一撃へと状況を変えて。
「神刃!」
 そして、状況は本当に逆転したのだ。
「……蚕?!」
 先程早花がそうしたように、今度は蚕が、神刃を庇うために朔の攻撃の前に身を晒したのだった。

 ◆◆◆◆◆

 再び時間が凍りつく。その中で散る紅い紅い花の色ばかりが鮮やかに。
「蚕! 神刃!」
 鵠はまず少しでも二人への追撃を逸らすために、朔へと仕掛けた。
 鵠自身も先程の攻撃で多少の手傷を負ってはいるが、瀕死の早花を抱える朔の方が当然動きが鈍い。
 だがそこに、今度は蚕の相手を免れた夬の攻撃も加えられた。
 夬の方は朔を狙わせないよう、全力で鵠に仕掛けてくる。呪符による様々な攻撃手段を持っている夬のやり方は、目晦ましには最適だ。
 他の戦場でも動揺が広がっていた。朱莉と祓は双方が手傷を負った仲間を心配して戦闘への集中力を欠いた状態だ。だが彼らの場合は相手も同時に油断しているのだからまだいい。
 夢見を相手にした桃浪の動きが僅かに鈍る。しかし夢見の方は、桜魔王が窮地に陥ろうが、側近の早花がそれを庇って重傷を負おうが、まったく動じた様子を見せずに攻撃を仕掛けているのだ。
「あーもう、畜生! あっちがどうなってるか知りてーってのに!」
「だったらぁ、あたしを倒していけばぁ、桃浪ぉ」
「そうしてやる、ぜ!」
 桃浪はひとまず戦いに集中することにした。ここで夢見を自由にしてしまえば、もっと酷い状況になる。できれば勝ちたいが、それが無理なら今は足止めだけでも確実にこなさねばならない。
 だが、不安と焦りが広がる中、その混乱は、更なる混乱によって覆されることとなった。
 鵠と夬が拮抗した勝負を続ける戦場を抜けて、何かが放たれたからだ。
 一筋の光が――光を反射する糸の針が、朔の胸に刺さる。
「がはっ!」
「桜魔王様!」
「呼んだか?」
 それは、この場にいたはずの誰でもない声だった。

 ◆◆◆◆◆

 ――数瞬前。
「蚕! 蚕! しっかりして、蚕!」
 神刃を庇った蚕は、深い傷を負っていた。
 傷の大きさ自体は先程の早花と似たようなものだ。だが、元となる体がまるで違う。
 成人女性の体格を持つ早花と違い、蚕は神刃でさえ軽く抱えられるような小さな子どもなのだ。その分、傷も大きい。
「死なないで!」
 神刃は祈る。火陵を喪って以来、初めて心からそう祈った。
 底の見えない桜魔。でも神刃のことも鵠のこともいつも気にかけてくれていた。小さな子どもの外見に、老成した大人のような中身。
 蚕。
 いつの間にか、もう仲間以外の何者としても見れなくなっていた。この戦いが終わった後の別れを想像するだけで辛かったのに、喪うことなんて考えられない。
「蚕! 死なないで! 蚕!」
 けれど祈りは――届かない。
「え?」
 周囲からざっと桜の花弁交じりの風が吹いて来て、蚕の身体の中に吸い込まれていく。
「一体、何が……?!」
 その風を吸いこみそうになった神刃は慌てて手で口を塞いだ。これは……瘴気?
「蚕!」
 風が子どもの体を包み、無数の花弁で覆い隠す。その塊が、目の前で動き出した。
「ふん……」
「さ、蚕……?」
 それは――その姿は、すでに見慣れた白金髪の子どものものではなかった。
「やれやれ。予想外に早かったな」
 低くなった声。高くなった背、神刃よりも。
 小さな蚕の面影を残しながらも、それは十にも満たない子どもではなく、二十歳を過ぎた青年の姿だ。
「な、なんで……」
 神刃の驚きを意に介さないまま、青年はふいに手を挙げると、妖力を通した糸の針をある方向に向けて放つ。
「がはっ……!」
 その攻撃は、早花を抱えた朔の胸を、一撃で貫いていた。