桜魔ヶ刻 10

060

「桜魔王様!
「呼んだか?」
 くすくすと青年の笑い声が響く。この状況を、彼以外の誰も理解できなかった。
「な……何? なんで?」
「一体何が起こっていますの……?!」
 早花を抱えていた朔が、血を吐いて倒れる。一同の視線は彼らよりも、それを成した人物の方へと集中した。
 祓が愕然とした声を上げ、朱莉も動揺に眼差しを険しくする。
「なんだ……?」
「あれー」
 桃浪も思わず手を止め、先程まで一切精神的に揺らがなかった夢見までもが、追撃を忘れてこの状況を不思議がっている。
 鵠と神刃は、そして夬は、ただただ呆然とその光景を見ていた。
「蚕……?」
「蚕、なの?」
 彼らにとって、蚕は白に近い金髪に金色の瞳の、十にも満たない幼い少年姿の桜魔だった。
 だが、今そこにいる「男」は違う。
 短い手足がすらりと伸びて、二十歳前後の青年の姿にまで一気に成長した。髪や目の色は変わらないのに、その面差しは急激に大人びてしまった。
 鵠や神刃の名を呼んでいた、あの高く澄んだ声も低くなって、すっかり男の声になっている。
 纏う衣装は絢爛豪華、朔が桜魔王として彼らの前に現れた時と同じような、王であり戦士でもある者の格好だった。
 なんだ。これは。
 脳が目の前の現象の理解を拒否している。
 これは、この事態は、まるで――。
「貴様!」
 混乱する退魔師一行を置き去りに、蚕に攻撃を仕掛けたのは祓だった。
 真なる主君は師であった載陽。そして現在の主はその仇討ちを認めてくれた桜魔王・朔。
 蚕がどのような変化を遂げようと、祓にとっては載陽を殺し朔までも手にかけた敵であることに変わりはない。
 しかしその行動は軽率に過ぎた。祓の攻撃は呆気なく蚕に似た男に防がれ、逆に近づきすぎたその腕を捕らえられてしまう。
「祓!」
「ぐっ……」
 周囲が呆然と立ち尽くす中、男は祓に何か術をかけたらしく、次の瞬間その体がぐったりと弛緩する。
「お前は……いや、あなたは……」
 祓を取り返しに動きたい夬だったが、男の圧倒的な存在感にすでに押され気味だ。桜魔である彼には人間の鵠たち以上に、目の前の存在が力を持つことがわかっている。
「蚕……?」
 神刃が呆然と、その名を呼んだ。
 彼は確かに蚕のはずなのに、先程桜魔王の攻撃から神刃を庇って傷を負った存在と同じはずなのに、どうもそうは思えない。
 小さな子どもの体が大人のものへ変化すると同時に、まるで蚕自身の性格や魂まで変わってしまったようで。その肉体の変化を間近で見ていたにも関わらず、信じられない。
 あれほどの大怪我だったのに、今や影も形もないなんて。
「“蚕”ではない」
 そして、男は答える。神刃を、鵠を、その他の者たちを目の前にして。

「“蚕月”。我が名は、桜魔王・蚕月(さんげつ)だ」

 ◆◆◆◆◆

「どういう意味だ」
 次第に冷静さを取り戻していった鵠が尋ねる。
「言葉通りだ。私は、朔の『次』の桜魔王。自らが桜魔王となるために、桜魔王を殺すために生まれた存在」
「!」
 桜魔として本来抱えているはずの、核となる死者の妄執の記憶がないと言っていた蚕。
 自分でもわからないが、生まれた時から“桜魔王を倒す”という目的だけが存在していたと。
 それが、こんな意味だなんて――。
「お前は俺たちの知る“蚕”なのか」
「お前たちと過ごした記憶はあるぞ。ありがとう、鵠。お前のおかげで、私は桜魔王・朔を倒すという目的を果たすことができた」
 にっこりと笑う顔には小さな子どもだった時の面影がきちんとあるのに、その笑顔の意味は今までの彼とは違う。
 蚕として、彼らの仲間として生きてきたあの子どもの意識はもはや完全に失われてしまったのだろうか。
 あの人格はこの覚醒を促し、目的を遂げるための手段として用意されたものに過ぎなかったのだろうか。
「桜魔王に……」
 いまだ幽鬼のように蒼い顔をしたままの神刃が問いかける。
「桜魔王になって、どうするつもりなの?」
「もちろん。桜魔王らしいことをするつもりだ。でなければ、こうして王になった意味がない」
 蚕――否、桜魔王・蚕月は立ち尽くす夬と状況を見守っている夢見へと声をかける。その腕には、先程気絶させた祓を抱きこんだまま。
「夬、夢見。お前たちも一緒に来い」
「あらぁん」
「朔に代わって、私が次の桜魔王になってやる。私の目的は朔と大して変わらない。お前たちはそのまま、私に仕えればいい」
「何を、ふざけたことを……!」
 夬が歯噛みする。
「おや、逆らうのか? お前も」
 蚕月は指を伸ばす。だがそれは逆らう意志を口にした夬の方にではない。
「う、ぐ……」
「祓!」
 いまだ意識の戻らない祓の首に、そっと指を当てる。仕草としてはそう見えるが、実際にはあれは頸動脈を圧迫しているのだ。
「待て! わかった! 従う!」
 高位桜魔は人間と近い姿をしているが故に、急所もまた人間と同じ。首を絞め続ければ死んでしまうし、今の祓には意識もないのだ。
「……従います。新たなる、王陛下よ」
「それでいい」
 夬が蚕月に歩み寄るのを、鵠たちはただ見守るしかできなかった。
「うふふふふふ。じゃあ、あたしも行こーっと」
 夢見の方は仕える王が誰であるのかなどどうでもいいらしく、気にした素振りも見せずに蚕月に駆け寄っていく。
「鵠さん……」
「……」
 神刃に呼びかけられるが、鵠は何も言えなかった。この状況に混乱しているのは神刃も鵠も同じである。
 目の前の相手は敵か? 敵にしか見えないし思えない。
 けれど、あれは同時に蚕でもあるのだ。神刃を命懸けで庇った、蚕であったのだ。
「……蚕月、お前は桜魔王として、人間に危害を加える気か?」
「知れた事よ。人間と桜魔はこれまでにも大陸の覇権を巡って争ってきた。私が王に代わっても、その戦いは終わらない」
「そうか」
 問いに込めた一縷の望みは、蚕月の返答にあっさりと引き裂かれる。
 鵠たちと過ごした記憶は残っているとは言うものの、あれはもはや彼らの知る蚕ではない。
「どうしても止めたいと言うのなら」
 新たなる桜魔王は、朔にはなかった自信に裏打ちされた威厳と態度で鵠に告げる。

「お前が再び勇者として立てばいい、天望鵠。殺しに来い、私を」

 桜魔王朔がいなくなった今、敵は桜魔王蚕月であると。
 戦う相手が別人であろうと、それが人間に危害を加える桜魔王という存在であるならば敵には変わりない。
「とはいえ、今回はこちらの陣営ももうがたがただ。決着はまた後日としよう」
「……そうだな。俺たちよりもそっちの連中の方が余程蒼い顔をしていることだしな」
 意識を失った祓と蒼白な顔の夬を示して言うが、それを指摘する鵠自身の顔にも精神的な疲労の色が濃い。
「ふふふ。だが次には、その憂いも払拭されている」
 蚕月には夬や祓の忠誠を完全なものにする手立てがあるのか、意味深な笑みを浮かべた。
「さようなら、勇者様。次に会う時が我々の本当の最終決戦。お互いの肩に大陸の命運を背負って、劇的な決着をつけようじゃないか」