第3章 桜の花が散り逝く刻
11.君の夢が滅び望む刻
061
一体何が起こっているのか。まだ混乱を引きずったまま、鵠たちは一度朱櫻国に戻った。
蚕が敵になった。一言で言えばそうなのだが、それでもどこか腑に落ちない。
あの“桜魔王”は本当に蚕なのだろうか。蚕月としての意識の奥に、これまでの蚕の意識が存在していたりはしないのだろうか。
詮無い考えが脳裏を過ぎる。諦めがつかない。溢れる想いが止まらない。
「正直、裏切り者ってのは俺みたいな奴の十八番だと思うんだけどね」
茶化すように口にする、桃浪の表情も常より強張っている。
「そうだな。もしもお前がそんなことをした時には、何血迷ってんだとぶん殴って連れ戻すつもりだった。だが、蚕は……」
桃浪に返す鵠の言葉も、やはり、戸惑いを多く含んでいた。
彼らは退魔師だ。やることは変わらない。桜魔王を倒して、大陸に平和を取り戻す。
それでも神刃の口から、こうした言葉が零れ落ちるのを鵠も、朱莉も、桃浪も、誰も止められなかった。
「俺たち、これからどうすればいいんでしょう……?」
殺せるのか? 新たなる桜魔王を。
かつて蚕であった存在を。
◆◆◆◆◆
朱櫻国王蒼司は、報告を受けて難しい顔になった。
それはそうだろう。鵠たちの一行は誰も死んでいないとはいえ、そのうちの一人が彼らを裏切り敵――それも倒すべき桜魔王になってしまったのだと言うのだから。
「……あなた方が桜魔王を倒しに行ったこと自体、まだ民衆には伝えていません。ですが、退魔師協会の方には……」
「伝えてくれ。あいつは桜魔王としての役目を果たすと言った。近いうちにきっと大きな襲撃がある」
「……そうですね。すでにいくつか小規模な襲撃が活発になっているという報告を受けています。退魔師協会に更に警戒するように依頼します」
蒼司は鵠たちを一切責めはしなかった。だがそれが逆に辛い。
国王への報告を終えて、また四人だけになる。
「鵠さん……」
「とにかく今は体を休めよう。そしてもう一度、“桜魔王”を倒しに行かなければならない」
不安気な様子の神刃に、鵠がかけられる言葉もほとんどなかった。むしろこんな状況でなければ、鵠の方が誰か俺を落ち着かせてくれと叫びだしたいくらいだ。
鵠は、桜魔王を倒すために戦ってきた。
けれど今の桜魔王は、これまで想定した存在とは違う。
相手は蚕だ。蚕なのに。
殺さなければいけない。彼が桜魔王である限り。
「どちらにしろ俺たちは体勢を立て直さなきゃならん。蚕……蚕月と話をするにも、何があるかわからないからこそ、身を守れるだけの実力は必要だ」
「そうですね……」
鵠たちは数日を、ほとんど放心状態で過ごした。
体を休めるとは言っても自然と鍛錬に赴き、そのくせ戦いに集中しきれず結果につながらない。かと言って部屋で大人しくしていては全く気が休まらない。落ち着かない日が続いた。
そして桜魔王――朔との決戦から三日もした頃だった。
「襲撃です! 桜魔が王都だけでなく、周辺地域にも破壊活動を広げたと!」
朱櫻国に、再び襲撃の報が入ってきた。
「すぐに救援に――」
「すでに現地の退魔師たちが向かっています。あなた方はここにいてください」
報告こそ受けたものの、今回は鵠たちに何とかしてほしいという依頼ではない。
場所が場所だけに鵠たちが向かっても間に合う距離でなく、その近くに待機していた退魔師たちが向かっているという。
この件で鵠たち一行に出来ることは何もない。それでも苦い思いは残った。
蚕月は本当に、桜魔王としての役目を――人間を滅ぼすという目的を果たすつもりなのだ。
青褪めた神刃の横で、鵠は白むほどに強く拳を握りしめる。
◆◆◆◆◆
新たなる桜魔王蚕月に支配された世界で、夬は考える。
あの時、朔と早花の無事を結局確認していない。だが自分たちは蚕月の存在に気を取られて、彼らが死んだという証拠もこの目にしてはいない。
桜魔は死体を残さない。致命傷を受けた個体は、解けるように無数の桜の花弁となって消えていく。だから、その桜魔が死んだかどうかを正確に判断するには、死んだ場面を誰かが目撃しなければならないのだ。
朔も早花もかなりの深手を負っていた。
蚕月は朔を倒したと言っている。
けれど、誰も二人の死を確認してはいない。
その時目の前で目まぐるしく変化する状況に対応するだけで、夬もそれを確認できなかった。後に残された血だまりだけを見ても、二人の生死は確認できない。
どうか生きていてくれと願う。
もう自分には彼らのために何もできないけれど、それだけは。
あの混乱に乗じて姿を消したと言うのなら、逆転の目はあるはずだ。
――眼下には地獄が広がっている。
新たなる桜魔王となった蚕月がまず行ったことは、自分の命に従わない桜魔たちの粛清だった。
元より桜魔王に従わず自由に生きていた者、朔を主人として蚕月を認めない者、それら全ての桜魔を圧倒的な力で屠り尽くす。
先王の影響により、自ら率先して桜魔王として動くことはなかった朔に比べ、今度の桜魔王は随分とやる気があるらしい。
だがそれは必ずしも良いことだとは言えない。蚕月は自らに従わない桜魔を全て殺し尽くすつもりのようだ。
そして夬も、すでにそれに手を貸してしまっている。
「さて、次はどこだ?」
「ここから南にしばらく行くと小さな山があります。そこに下位桜魔の群れが棲んでいます」
「なるほど、わかった」
自分の命惜しさに仲間を売り渡すのかと言われれば、答は応だ。自分より強い者に夬は逆らえない。
「何故だ! 何故今更桜魔王が我らの暮らしを脅かす!」
「王は朔陛下ではなかったのか」
「従えないな。お前にも、朔殿にも」
「そうか。ならば死ね」
蚕月は躊躇いすら見せず、虫を叩き潰すかのようにあっさりと同胞たちを屠っていく。
「何故」
しばらく地面から消えることのない血の海の中心に佇み、夬は思わず口を挟んだ。
「何故、ここまでするのですか……?」
朔は桜魔王らしいことなどほとんどしなかったが、代わりに無用な虐殺も行わなかった。自分に近づく者はかなり制限したが、彼の与り知らぬところで勝手をする分には許した。
朔と蚕月のどちらが桜魔王に相応しいのかなど、夬にはわからない。
あるいはどちらも、自分の全力を以てまともな統治をする気がないという意味では、間違っているのかもしれない。
けれどこの二十年弱、朔のおかげで桜魔たちの世界は確かに安定していたのだ。
華節のように野心を持って近づいて来る者は別だが、そうでない者は桜魔として静かに暮らしていた。
自身を構成する生前の怨嗟に耐え切れず人間を襲う桜魔は勿論多いが、そればかりでもない。
「何故? 何故も何もないだろう」
蚕月は薄く微笑む。
「こうするのが、私の役目であり、私に従うのがお前たち配下の役目だ。違うか?」
「……いいえ」
元より桜魔は人に危害を加える妖。
穏やかな暮らしなど望む方が間違っている。それはわかっている。
新しき王は自らに従わない全ての同胞を殺し、自らの命に従う兵だけを抱えて人間たちを襲わせる。
もちろん向こうも退魔師たちを出して、雑魚の群れを掃討させるだろう。
鵠たちは再びやってくる。新たなる桜魔王を倒しに。それが元仲間とはいえ、人界に悲劇をもたらす邪悪の根源を放置しておくとも思えない。
桜魔王と勇者が命懸けで殺し合い、その配下たちも全力で潰し合い、戦いの先にあるものは。
それはきっと、全てが死に絶えた世界でしかないのだろう。
「あなたは王です。桜魔王蚕月陛下」
総てを滅ぼすために生まれた、桜魔の王よ。