桜魔ヶ刻 11

062

「それで? お前はまだ私に逆らうのか?」
「当たり前だ!」
 朱の森の屋敷に怒声が響く。祓は腹の底から叫んだ。
「誰が、誰が貴様などを王と認めるものか!」
 祓は頑なに蚕月の説得に抵抗を示し続けていた。
 彼にとって、蚕月は載陽と朔、二重の仇である。
 自分を拾って弟子として育ててくれた載陽は勿論、その仇を討ちたいと言った自分に理解を示してくれた前桜魔王・朔のことも祓はそれなりに慕っていた。
 その二人を殺したと言える蚕月を許すどころか、新しい主として認めるなど、彼には決してできぬことだ。
「ふむ。それならば仕方ないな」
 蚕月は祓のことを諦めたかに見えた。
 説得を諦めると言うのなら、もう彼にとって祓の存在は価値がないということだ。最悪殺される覚悟をして、それでも祓は蚕月を主君として仰ぎたくはなかった。
 だが、蚕月が次にとった行動は祓の予想を超えていた。
「ならば、強制的に聞かせてやろう」
 蚕月の指が祓の首を掴む。細い少年の首が赤い指の痕で染められていく。
「なっ……あ、くっ……!」
 窒息の苦しみを味わう祓の髪を、蚕月はそっと撫でた。
 次の瞬間、ふらりと少年の体が崩れ落ちる。
「祓!」
 夬は倒れた祓に駆け寄る。
「……蚕月様。彼に一体何を?」
「何、少し私の言うことを聞いてもらいやすくしたまでだ」
 夬の腕の中で、祓がそっと目を覚ます。
「祓?」
「……」
 だが、少年の様子はとても健常に意識を取り戻したとは見えない。
 瞳に光はなく虚ろで、人形のように表情が抜け落ちている。
「これは……」
「糸針を体の中に埋め込んだ。それを外さない限り、彼の洗脳は解けない」
「ここまでしなければならないのですか?」
「祓がもっと弱ければ殺していたのだろうが、例え未熟でもここまで才能を持ち育った高位桜魔はなかなかいないからな」
 似たようなことは朔も言っていた。祓の代わりを探すのは簡単ではないと。
 だが彼はここまでしなかった。
 攫ってきた人質の男にさえ洗脳術を使うのを嫌がった朔だ。自分の部下にそんなことをするはずがない。
 それが良いとも悪いとも夬には言えないが、事あるごとに朔と蚕月を比べてしまうのは確かだ。
「……そうですか」
 祓はすっかり操り人形と化してしまっている。
「何。鵠たちとの戦いが終わったら、その時は私から解放してやるさ」
 蚕月がここまでして備えているのは、鵠たち退魔師との戦いなのだ。
 では彼が言う「戦いが終わった時」とは一体どういう状況を指すのだろう。
「それは洗脳を解くことと、祓を殺してしまうこと、どちらの意味なのです?」
「どちらだと思う?」
「……私には、わかりません」
 夬は諦観と共に呟く。
 だが次に返ってきた言葉は、ある意味彼の予想外の内容だった。
「もしかしたら、その結末はどちらでもないかも知れないぞ」
「え?」
 更に詳細を尋ねようとする夬だったが、蚕月は意味深に笑うばかりだった。

 ◆◆◆◆◆

 新しい桜魔王があちこちで彼に従わない桜魔たちを殺しているというのは、彼女たちの耳にも入ってくる噂だった。
 山奥にひっそりと隠れ住む親子はいつもより更に息を潜め、戦々恐々としながら日々を送る。
 息子を罠に使われ、獲物本人である退魔師の少年に助けられ、更にその割を食った人質の青年に救われたことを切欠に、無力な桜魔の親子は桜魔王から離反して静かな暮らしを選んだ。
 先代王である朔は彼の目に入らぬ者までは追って来なかった。望まぬ玉座についた彼は、他者を自分に従わせることに関し、そう熱心な王ではなかった。
 けれど今度の王は違う。蚕月と名乗る新しい王は、部下たちからわざわざ配下以外の桜魔がいる場所までも聞き出して、全てに襲撃をかけているらしい。
 そして桜魔王に従わぬ意志を見せた者は、圧倒的な力で捻じ伏せて虐殺する。
 それは退魔師にあっさり狩られるような力ない下位桜魔も、桜魔王の側近に匹敵するような高位桜魔でも変わりないと言う。
 戦う力を持たぬ彼女たち親子にとってはひとたまりもない。
 そしてついに、死の翅は彼女たちの前にも降りてきた。
「む。お前たちは……」
 子どもを抱いてがくがくと震える彼女の姿に、蚕月は何事か考え込む様子を見せた。
「うむ、やはり……あの時葦切が見逃した親子か。ふむ、どうしたものかな……」
 親子は驚く。これまで話に聞いた印象では、新王は理由や事情に関わらず彼に従わない桜魔を容赦なく屠る死の使いとしか知らなかったからだ。
 だが目の前にいる、どこかで見たような面影を宿す青年姿の桜魔は彼女たちを見て何かを躊躇っている。
「……まぁ、いいか」
 びくりと震えて息子を抱える母親に対し、蚕月は気のない風情で言った。
「せっかく神刃と葦切に助けられた命だ。このまま大人しく暮らすと良い」
 驚く親子の前で、結局桜魔王は、何もせずに翅を広げて飛び去っていく。
「……!」
 山奥には、再び静寂の平和が戻った。

 ◆◆◆◆◆

 桜魔王の根拠地は、以前に比べて格段に静かになってしまった。
 長閑に昼寝をする朔の姿も、困ったように呼びかける早花の姿もない。
 そして生真面目ながら彼らには持ちえない若々しさでどこか周囲を盛り立てていた祓も、今は自我を喪って蚕月の命令だけを聞く人形状態になっている。
 夬も勿論口数が減った。こんな現場で、一体何を朗らかに話せというのだろう。
 ただ一人、以前からまったく態度を変えない者もいる。
 夢見だ。
 彼女だけは載陽が死んだ時も、朔を喪った今も、変わらぬ調子っぱずれの鼻歌を歌いながら他者にはよくわからぬやり方で戦闘訓練に励んでいる。
「……夢見」
「なぁにぃ、夬ぃ」
「……お前は何とも思わないのか? 今のこの状況を」
「えー、別にぃ?」
 載陽にも、朔にも、早花にも、祓にも。
 夢見は情など持たない。彼女はただ楽しく戦いを続けられればそれでいいと言う。
「だってぇ、載陽様がここに来た時ぃ、あたしに“桜魔王に従え”って言ったの! 今はぁ、蚕月様がぁ、王なんでしょお?」
「それはそうだが」
 割り切れない夬とはまったく対照的に、夢見はすでに新しい王を受け入れている。
 彼女が従うのはあくまで王と名のつく存在であって、その肩書きを持つのが朔であろうと蚕月であろうと変わらぬと言うのだ。
「王であるなら別にぃ……あたしは誰だって構わないの!」
 きゃははははと突然笑い出す。今の祓は洗脳により感情のない人形のようだが、夢見の方は顔を合わせた最初からこんな風に壊れた笑い人形のようだったと思い出した。
「夬、何を言っているの? あたしたち、桜魔なんだよ? 人間を憎み、恨み、殺すために生まれたの。ただそれだけじゃない」
 普段のとろけるような喋り方をやめ、不意に明瞭になった語尾で告げる。
「……!」
 尤もな言い様だが夬は動揺した。
「変なの。主君がー、仲間がーって、そんなのまるで人間みたい。あたしは人間になりたくないの。だから桜魔になったの」
「桜魔に“なった”? まさかお前……」
「きゃはっ、蚕月様ぁ、おかえりぃ」
 夬が夢見の発言を追及する前に、屋敷を空けていた桜魔王が帰還した。
「ただいま」
 夢見はもうそれ以上夬のことなど気にも留めず、蚕月にどうでもいいことを話し出す。蚕月の方も、夢見の意味不明な話を平然と聞いて相槌など打っている。
 その光景にやはり自分がとるべき態度や向かうべき未来が見えず、夬はひたすら、一人途方に暮れていた。