063
王宮の鍛錬場で一人、神刃は物思いに耽る。先程から剣を振るい続けていても、結局どうにも気が乗らないので諦めてしまった。
これまで桜魔に憎しみを抱いて生きてきた神刃にとって、桜魔らしくない、人を襲わない桜魔・蚕の存在は大きかった。
桃浪に関しても悔しいことに今は仲間だと思っているが、彼は元は何人もの人間を殺した辻斬りだ。全てを赦せるわけではない。
けれど蚕は出会った当初から穏やかで落ち着いていて、時には悩む神刃を静かに諭してきた。
「蚕……」
――私たちの手で桜魔王を倒そう。それが、この大陸総ての者を、過去の因縁から解き放つことになる。
「そう、言ったくせに……」
彼は桜魔王となってしまった。目を疑う程に大きく変質してしまった。
蚕や桃浪を受け入れて段々と価値観が揺らいできた神刃の心は、この大きな変化を受け入れがたく、また揺れる。
桜魔であってもそれが人に害をなす存在でないならば、受け入れられる。最近の神刃はそう考え直すようになってきていた。
もともと、桜魔自体の存在は桜魔ヶ刻が始まる前から細々と確認されていたのだ。彼らの数が爆発的に増えたのは、緋閃王が大陸中に争乱を広げ、瘴気と怨嗟で諸国を満たしたため。
神刃はだからこそ、これまで桜魔の殲滅を願ってきた。桜魔さえ滅びれば、大陸は平和になると。
けれど必ずしもそうではないのだと、ゆっくりと諭して来たのが蚕の存在だった。
そしてようやく、神刃は気付いたのだ。自分が桜魔に向ける憎しみは、実の父・緋閃王に向ける憎しみの裏返しなのだと。
桜魔が蔓延り人類が滅びかけているこの大陸の危機は、戦火を広げた緋閃王の暴虐によるもの。だから彼の「後始末」の一環として、桜魔を滅ぼせば全ては良くなると、神刃はそう単純に信じていたのだ。
だが実際は、緋閃王はあらゆる物事のただの切欠にすぎない。彼自身の暴虐は憎悪を向けられて然るべき蛮行だが、桜魔の存在全てが彼によって生み出されたわけでもない。
人間の姿も心も持たない下位桜魔から、人と見分けのつかない高位桜魔たちまで。桜魔にだって人間と同じ、あるいはそれ以上に豊かな個性がある。
華節を喪って桜魔王への復讐を決意した桃浪は、載陽を殺されて神刃たち退魔師一行を仇と憎む祓の姿は、感情によって行動する人間たちと、一体どんな違いがあると言うのだろう。
「俺たちは……俺は……どうしたら」
「どうもこうもねーだろうよ」
背後から声をかけられて、神刃は思わずびくりと飛び退く。
「桃浪!」
「油断しすぎだぜ? 坊や。まだ戦いは終わっちゃいない」
「お前、どうしてここに?」
「組手の相手を探しにな。なんか鵠の奴とお嬢ちゃんは向こうで二人難しい話しててな。割って入れそうにないんでお前さんを探しに来たんだ」
「組手? それなら――」
ここにいないもう一人の名を思わず出そうとして、神刃は思わず口を噤む。
「まだ蚕のことを気にしてんのかい? 坊や」
「……当たり前だろ。お前は気にならないって言うのか?」
「そうは言わないが、まぁやることは変わんないからな」
倒すだけだと。
それが桜魔王を名乗るだけなら、倒すだけだと桃浪は言う。
「でも」
「なんだい、鵠だって同じことを言ってただろうが。あいつの言は受け入れられて、俺の話は聞けないって言うならそりゃ贔屓だぜ」
「当たり前だ。お前の話なんか信用できるか!」
「酷えなぁ、坊や。蚕の言うことはよく聞いてたくせに」
「……!」
言い返されて神刃は押し黙り、桃浪はふーと長い息を吐く。そして改まった様子で口を開いた。
「……気にしても、しょうがないだろ。あいつは自らの意志で、俺たちの敵に回ったんだから」
「そんな言い方……!」
「事実だ。そして俺たちがあいつにしてやれるのは一つだけ。桜魔王として、倒しに行くこと」
「……ッ!」
神刃は目を瞠り息を呑む。
「鵠の奴に、自分を殺しに来いって言ってただろ。あいつは勇者が魔王を倒しに来るっていう展開を律儀に守っている。そうしなければいけない何かが、あいつの中にあるんだろ」
「そうしなければいけない理由……」
「本当にあいつが最初からお前たちを、俺を、裏切っていたならあんな場面でわざとらしく本性を現さずとも、いつだって俺たちを殺せた」
そうだ。蚕にそんな不審な素振りはなかった。いつだって。
けれど、それは――。
「もう蚕はどこにもいないのか? 取り戻すことはできないのか?」
あの頃、蚕が浮かべていた笑顔が真実ならば、今の彼は――蚕月は一体何なのだろう?
神刃たちの仲間であった蚕はやはり真なる桜魔王の中で消えてしまったのだろうか。
「……俺にもわからないさ。一度は仲間と呼んだ奴らがまだいるのに、それを裏切って倒されるべき王になっちまう奴の気持ちなんて」
桃浪は華節を、仲間を、全てを喪って鵠たち退魔師の側についた。共に過ごした記憶があると言いながら彼らを裏切った蚕月の真意は、桃浪には理解しがたいものだ。
そして不意に神刃は気づく。蚕だけでなく、目の前のこの桜魔にも、もう彼らと共に戦う理由はないことに。
「お前は? 桜魔王であった朔が死んだなら、お前の復讐はもう果たされているだろう? まだ戦うのか?」
「俺にまで裏切って欲しいのかい? 坊や。そんなことになったら、誰が夢見の奴を抑えるんだ?」
「桃浪……!」
神刃は再びの驚愕に目を瞠る。
「ま、そういうこと」
桃浪はぽんぽんと、子どもを宥めるように神刃の頭を軽く叩く。
「決着をつけようぜ。俺たちの望み通り、あいつの望み通り」
大陸の命運の鍵を握るのは、“勇者”と“桜魔王”。
◆◆◆◆◆
鵠と朱莉は、二人庭園を望む回廊に並んでなんとはなしに話を始めた。
「何を考えていらっしゃいますの?」
「……蚕のことだ。あいつは本当に、俺たちを裏切ったんだろうか」
「……彼が、桜魔王として配下を焚きつけ、諸国各地を襲撃させているのは事実です」
「それはわかっている。だが……」
だが、まだ何かが納得いかない。腑に落ちない。
「……辰から聞いた話なのですが」
朱莉と神刃、両方に縁の深い情報屋の名を出して、朱莉は桜魔の生態について説明する。
「桜魔というのは、ほとんどが偶発的に発生するそうです。血縁関係のある者も例外的におりますが、あくまでも稀な存在だと。大抵の桜魔は、桜の樹の魔力や瘴気に、死者の遺した怨念や悪心が結びついて生まれます」
「……」
あまりにも基本的な桜魔に関する講釈。だがこれは前置きだと鵠にもわかっている。肝心なのはここからだ。
「蚕は桜魔王を倒し、自らが桜魔王になるという目的を抱いていた。辰にそれを説明したところ、彼はこういう推測をしていました。――蚕、蚕月と言う名の桜魔は、“桜魔王に殺された者たち”の怨嗟の念の集合体だったのではないかと」
「集合体?」
「はい。私のしもべの一部がそうであるように、核となる生前の人格を有さない発生の桜魔です」
大抵の桜魔は核となる死者の記憶を持つ。自分がどのような恨みを抱いて生まれ落ちたかを、彼らの多くは覚えているのだという。
しかし蚕にはそういった核となる人格が存在せず、幾人もの桜魔王の被害者の怨念の寄せ集めだったのではないかと辰は考察したらしい。
朱莉が使役する配下のように、偶然瘴気と死者の念が結びついて生まれたような下位桜魔にはたまにあることだと言う。
けれど、高位桜魔の中にそういった者は珍しい。桜魔の発生には、恨みを抱いて死んだ者の念が瘴気や桜の樹の魔力を引き寄せることが強く関係するからだ。
「桜魔王は、必要なら自分の部下も殺すことがあるな」
華節にトドメを刺した朔の姿を思い返しながら鵠は言う。あのような出来事が、日常的にあったとしたら?
ほとんど朱の森から出なかった朔の周囲に、そうした穢れが溜まっていたのだとしたら?
「ええ。ですから蚕は人間だけではなく、殺された桜魔の念も取り込んだ存在だったのでしょう。だから桜魔たちの事情に詳しかった」
「……成程な」
記憶を持たず、桜魔王を倒すという目的だけははっきりして、幼い子どもの見た目にそぐわぬ知識を見せていた蚕。
「彼の目的の半分は達せられた。桜魔王・朔を討ち取ることによって」
「……」
考えを自分の中に落とし込むように淡々と語る朱莉の声を聴きながら、鵠は己の中でも蚕と蚕月の存在について考えをまとめる。
「けれど……もう一つの目的が、彼自身が桜魔王になることだったというのは」
「本当に……そうなのか?」
そして鵠の心は、またしてもその疑問に戻った。
「本当にそれが、あいつの『本当の目的』なのか?」
「鵠さん?」
怪訝な顔をする朱莉の声をもう半ば聞き流しながら、鵠は蚕月の最後の言葉について思いを馳せた。
――さようなら、勇者様。次に会う時が我々の本当の最終決戦。お互いの肩に大陸の命運を背負って、劇的な決着をつけようじゃないか。
「蚕の奴は、もしかして……」
しかし尋ねたい人物は遠い朱の森の向こう。問いかける言葉に、返る答があるはずもなかった。