065
脳裏をいくつもの映像が過ぎり、彼の心を無限にかき乱していく。
「陛下……」
遠く近く、寄せては返す波のように、誰かが呼ぶ声がする。
だがそれは、今の朔には届かなかった。
頭が割れるように痛み、反乱した記憶が洪水のように彼の意志を、意識を押し流す。
夢に見た女の顔と、見たことはないはずの男の顔が繰り返し繰り返し、朔を苛んだ。
――さく、さく。
屋敷で二人暮らしていた数年間。
桜魔には赤子の時代がない、どんなに小さくてもその発生は幼児からだ。だが自分の場合は人間の女の胎から生まれた。だから、もしかして違ったのだろうか。
――さく。
女は彼をそう呼んだ。やわらかな春の陽だまりのような、優しい声で。
あの頃、世界にはまだ四季があって、彼はわずかながらその違いを知っていた。
春はやわらかで夏は燃え上がり、秋は舞い散り冬は静かに眠ることを知っていた。
森の奥の屋敷に彼は女と二人。
女はいつも寂しそうで、誰かを待っていて、けれど朔の前では無理をしたように笑っていた。
何故泣くの? 問う彼に彼女は答える。答にはならない答を。
――あなたのせいじゃないわ。
あの頃は意味がわからなかった。今は嫌でもわかってしまう。
先代桜魔王の名が『朔』と言った。
自分は彼の生まれ変わりだ。
まだ桜魔の勢力が然程でもなかったその頃、桜魔王にとって最も厄介な敵は花栄国の退魔師の名家、天羽家の後継ぎ娘だった。
先に生まれた兄よりも優秀な力を持って生まれてきてしまった娘は、いつも兄に対する引け目を感じながら生きてきた。
彼女が兄より上回るのは退魔師としての霊力だけ。それ以外全ては兄の方が優れている。それなのに霊力ただ一つを理由に家を継ぐことに、娘は不安と罪悪感を抱いた。
娘は、兄に恋をしていたからだ。禁断の恋を。
だが結局彼女が天望の家を継ぐ未来はなかった。彼女は桜魔王に攫われた。
桜魔王は、一目見た退魔師の娘に惹かれ、本来王の使命をもって倒すべき彼女を自らの屋敷へと閉じ込めた。
兄に恋する娘は、決して桜魔王を振り返らないと知っているのに。
二人が心から結ばれることは決してない。
なのにあてつけがましく自分で自分を彼女の子として転生させるなんて。
なんて憐れな母。
なんて憐れな父よ。
そうして生まれたのが、今の桜魔王・朔だった。
否、違う。朔ではない。父そのものの名ではない。それが彼の意識を揺らがせる。
『“桜”』
朔……“さく”ではなく。
『お前の名は桜だ。桜魔王、いや――兄さん』
自分にどこか似た白銀髪の男は告げた。
それが彼の全てを象徴する真の名だと。
……鵠がそれを認めることなどないと考えていたのだ。
母を攫った先代桜魔王のことなど知りたくもないと、現在桜魔を束ねている王が、自分の兄だなどと考えたくもないだろうと。
だから記憶に蓋をした。向こうも自分も、こんな記憶を抱いては生きてはいけない。そんなものは忘れてしまえと。
それは半ば以上成功したはずだったのに、結局は鵠の言葉一つでこんなにも揺さぶられている。
そして。
『“蚕月”。我が名は、桜魔王・蚕月だ』
ついに彼は、自分自身の役割さえ見失った。
◆◆◆◆◆
「朔様!」
早花の必死の呼びかけに、ついに朔は反応を見せた。
「ごふっ……ぐっ……」
「どうか、安静になさってください。まだ完全に傷は塞がっておりません」
「お、前は」
「私も完治はしていませんが、朔様のおかげでこうして逃げて来られました」
ここは朱の森の片隅。
森の中央に存在する桜魔王の屋敷は、今は蚕月が主に取って代わり、利用していると言う。
「無茶をしたな、早花」
「申し訳ありません、私のせいで……」
「いや、そうじゃない。そうじゃなくて……」
遮ってはみたものの、朔はそれ以上の言葉が思いつかなかった。それよりもと、話題を変えてみる。
「あいつは、どうなっている……?」
早花の表情が曇る。
「あの子どもは、鵠の仲間じゃ、なかったのか……?」
「……配下を使って少しだけ話を集めました。あの男は……」
蚕月自身が言った言葉と、鵠が朱櫻国で朱莉から聞いたような話とを合わせた内容を早花は朔に告げる。
蚕月の存在は、桜魔王がこれまで手にかけた者たちの怨嗟の集合体だと。
「なるほどな……因果応報というわけか……」
「陛下……」
もう自分は、早花にそう呼ばれる資格すらない。
無理矢理に押し付けられた桜魔王の座を、朔は半ば以上放棄して生きてきた。部下を率いて人間たちに襲撃を仕掛けることもなく、自らが気に入らない部下は早々と粛清、この森でただただ、怠惰な沈黙を守っていた。
ここ最近少しだけ活動していたのは、華節の横槍や載陽の叱責、祓の嘆願があったからだ。
そうでなければ朔は何もしなかった。
人が桜魔に滅ぼされても――桜魔が人に滅ぼされても。
元より彼の存在などに大した意味などないのだ。
先代桜魔王のただの意地。彼自身は朔より余程まともな魔王だったろうに、朔を遺してわざと死んだのだからある意味朔以下の存在だ。
そしてそのどちらも、蚕月を生み出した桜魔王の被害者たちの怨念からすれば似たようなものだと。
「早花、お前は逃げろ。いや……お前が、新たな桜魔王に従いたければ、そうするがいい」
もう、朔の役目は終わった。
作られた桜魔王。母の胎から生まれた、父そのもの。
呪われた桜魔王であり続けることが、これまで朔の役目だった。だが彼は、蚕月に負けた。全ての桜魔の頂点に立つ桜魔王ではなくなった。
もう生きている意味などない。
「いやです、私は、桜魔王朔の部下です。桜魔王の配下ではなく、あなたの、朔様のしもべなのです」
「早花……」
「どこまでもついていきます。最期まで、最期までお傍に……」
横たわる朔の上に体重をかけずに顔を伏せた早花がくぐもった声を上げ、朔の服には暖かいものが染みていく。
「……」
先程の夢とはまた別の意味で、胸がかき乱される。
自分の命に意味など見出していなかったから、ここで死んでもいいと思っていた。
けれどそのせいで彼女まで巻き込みたくない。
遺してきた者たちも気になる。夢見はともかく、夬は、祓は、一体どうなったのか……?
「命令をください、陛下。私にあの男を殺せと。簒奪者を殺し、玉座を取り戻せと」
「お前の腕では無理だ」
「でも、このまま引き下がれません。あなたは王です。我が王」
脳裏に誰かの面影が過ぎり囁き尋ねる。
“どうしたいの?”
“君は、本当は、どうしたいの?”
望みはなんだと声は問う。
望まぬ玉座を与えられた王としてではなく、朔であり桜である一人の男としての望みはなんだと――。
「俺は……」
朔は腕に力を入れ上体を起こした。
ハッとした顔の早花の頬を撫でると、決意と共に口を開く。
「ならば、共に行こう」
「陛下!」
「一人で突っ込んでも死ぬだけだ。それは俺も同じだ。だから、二人で」
どうせ新たなる桜魔王の下には、いずれ必ず鵠たちが現れることだろう。
勇者は魔王を倒すためにやってくる。
そこを利用すればいい。
生きている。生きる意味はもうない。でも生きている。
ならばこの命を、真実朽ち果てるその時までまだ使っていてもいいだろう。
脳裏で顔が見えなかった人影。母親がようやくその表情を見せる。
望まぬ方法で得た子とはいえ、彼女は息子の――自分の前ではいつも儚くも優しく微笑んでいた。ようやく思い出した。
だからどうか、もう少しだけこの命を使わせて。
――この戦いに、本当の決着がつくその日まで。