第3章 桜の花が散り逝く刻
12.桜の花が散り逝く刻
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鵠は剣を構える。朔との戦いの時には素手だったが、今回の相手は蚕月だ。無手よりも得物があった方がいいという判断だ。
「なるほど、剣か」
蚕月も鵠の思考に気づいたのだろう。金色の瞳に面白がるような光を湛えている。
初めて戦う相手ではない。これまで何度も何度も、それこそ鍛錬と言う名目で何度も手合わせを重ねてきた相手だ。
とは言っても、実際の戦闘となれば今までと勝手は違うのだろう。
何よりまず、相手の大きさが違う。これまでの“蚕”は十にも満たない小さな子どもの姿だった。今の“蚕月”は鵠より僅かに目線が低いだけの青年の姿だ。
組手を始めた頃は、子どもを苛めているようで気分が悪いと思ったことを思い出す。しかしすぐにそんな感情は消えうせた。蚕は強かった。
あの頃、鵠は桜魔王として朔を想定していたため、体格の違いにもやりづらさを感じたことを覚えている。主に無手で戦うのが鵠と蚕のみだったため、それでも彼との戦闘は朔との戦いには役に立った。
今はその蚕――蚕月と戦うことになっている。あれだけ「今日」について考えたのに、いまだに不思議な気分だ。
「針対策だな」
蚕は主に無手で戦っていたが、彼の得物はそれだけではない。
名が示す通り、彼は「蚕(かいこ)」の生態を模倣した桜魔のようだった。「蚕蛾(かいこが)」の幼虫であるかいこは、成虫になる際に糸を吐いて繭を作ることで知られている。その繭糸を紡いだものが絹だ。
糸と絹。そのどちらも蚕の武器だった。中距離戦で使用する糸の針の能力と、載陽を倒した時に使った布の刃の能力。どちらも素手で対抗するには厄介な代物だ。
鵠はそれを踏まえ、今回は剣を持ちこんだ。素手で戦うとは言っても霊力を纏わせることで尋常ではない防護能力はあるのだが、蚕月の能力の方が強い場合は少しの油断で手足を持って行かれかねない。
今まで何度も戦ってきて、相手の力を知っているからこその用心だ。
「お前は本気のようだな」
「なんだ、手を抜いて欲しかったのか? 俺に勝たせてくれるっていうなら、今すぐ抵抗をやめて棒立ちで首を差し出してくれ」
「生憎だが、そうはいかない。私にも目的があるのでな」
「……」
目的……蚕月の目的とはなんだろう。
考えても詮無いとは知りながら、鵠は一瞬だけ考える。
桜魔王として各地の桜魔を統べ、人類を滅ぼして大陸の覇権を握る。……本当にそうなのか?
何度も心の中で繰り返した問いが蘇る。
しかし、考え続けている暇はない。
案の定飛んできた糸針を、鵠は剣で斬り落とす。その隙に飛び込んできた蚕月の蹴りも、同じように剣を身の前に構えて防御した。
鵠が霊力で己の肉体を保護するように、蚕月も妖力による防護は完璧だ。やはりこんなものでは傷一つつかない。
「さすがだな」
「嘘を吐け。まだまだこんなものじゃないだろう? 俺もお前も」
蚕月がにっこりと笑う。見慣れぬ大人びた顔立ちに、見慣れたあどけない笑みが重なる。
「そうだな。では体も温まったことだし、そろそろ全力で行こうか」
今までのは準備運動だと言い捨てて、蚕月は再び攻撃を開始する。
◆◆◆◆◆
夢見と桃浪の激しい戦いは続いていた。まさにこのために生きていると言っても過言ではない戦闘狂二人の戦いだ。他のどの場所よりも熱く激しく、森を破壊する勢いで繰り広げられている。
「ねぇねぇ桃浪! 聞いてもいいー?!」
「ああ、いいぜ!」
だが、戦いを続ける当人たちに殺し合いをしているのだという不穏な気配は一切ない。両者とも相手を確実に殺せる機会を常に狙っているというのに、二人の間に流れる空気はどこまでも明るかった。
戦闘狂同士、退魔師についた裏切り者と、桜魔王の配下として立場こそ極端に別れ敵対しようと、所詮は似た者同士なのだ。
二人ともそう考えていた、今日この日までは。
「桃浪はぁ、何のために生まれて生きて、戦ってるのー?」
「あん? なんでって、お前そりゃ……」
答えようとした桃浪の隙を突くように、夢見の強烈な蹴りが襲う。咄嗟に刀で防御したが、桃浪はまたも足で地面に深い痕を残しながら、後方に押し遣られた。
話しかけておいて人の返答は聞かず、夢見は一方的に喋り続ける。
誰も知らない彼女の過去を。
「あたしはねぇ、とにかく殺したかったの! あたしにとって邪魔な人間すべてを! だってみんなうるさいだもん! あれしちゃ駄目、これしちゃ駄目って、あたし、最初から人間に馴染めなかった」
「ん? ってことは、お前さんもしや……」
夢見の告白を聞いて、桃浪は気付いた。
彼女の口にする状況は桜魔の発生状況ではない。生まれた時周囲にいたのは人間で、それを殺した。これは……。
「だからあたしぃ、みんな殺して、桜魔になったの。桜魔になれたから、もっともっと殺したの!」
「お前さん、桜人か!」
きゃらきゃらと笑いながら、夢見は戦いになんら関係のない無駄な動きをとっている。そんな状態でも、夢見にはまったく隙がない。
……いや、隙自体はあるがいざ攻撃を仕掛けるとその隙は罠として機能するのだ。やりづらい相手である。
そんな夢見は、本来は桜魔ではなく桜人なのだという。
朱莉と同じだ。だが彼女と朱莉とはある意味でまったく違う。
朱莉の方は、恋人である桜魔を神刃に殺されて、再び人として生まれ変わる彼を探すために永遠の時間を欲して桜魔――桜人になったのだという。それは計算し尽くされた意図的なものだ。
しかし夢見の場合は、人として生まれながら人として外れてしまった意識が魔を呼び寄せ、憑りつかれたことにより桜魔化した存在。死者の念からの発生ではなく、生きた人間を核に変質したその存在を桜人と呼ぶ。
確かに桜人の発生としては朱莉よりも夢見の方が一般的だ。人とは心の均衡を喪えば、あっと言う間に魔に憑りつかれる生き物である。
だからこそ桜魔などと言う存在も生まれるのだ。桜魔は死者の怨念に桜の樹の魔力と瘴気が結びついて生まれる妖。誰も何も恨まなければ、桜魔も桜人もこの世には存在しないのである。
夢見の中途半端な説明では、彼女に具体的に何があったかはわからない。そんなことは本来どうでもいいことなのだろう。夢見は桜人として、強い者と戦い殺し合うことに満足している。
その姿は、人の意識を残したまま魔に変じる桜人と言うよりも、死者の念を核に発生する桜魔本来の姿に余程近かった。誰も言われねば夢見が桜人なのだと気づかない程に。
だが、それでも自分と同じような戦闘狂と評される桃浪に某かの共感を覚えたか、夢見が普段は捨て去っている元人間としての感情が初めて顔を見せた。
「桜魔なんて、みんな憐れよ。どいつもこいつも、生まれる前のことばかり考えて、泣いて苦しんで、その苦しみから逃れたくて人間を襲うの」
人を恨んで死んだ死者の想いから生まれるから。
桜魔はどうしても、人間を憎まずにはいられない。
いつも甘ったるく溶けている夢見の語尾が明瞭になる。今までも何度かあったことだが、今日はまたいつもと様子が違う。
「ねぇ、桃浪? あたしたち、本当に憐れね。人生をやり直すために生まれて、こうして戦っている」
桜人として生まれ変わったはずなのに、人間だった頃の感情に縛られている夢見も。
元々が死者の怨念から発生し、その憎悪を生きた人間に向ける桜魔も。
どちらも憐れだと彼女は告げる。
死ぬのは嫌だと嘆きながら、殺し殺される世界でしか救われない。
――けれど、桃浪は夢見の台詞をその体ごと一閃する剣と共に切り払った。
「憐れ? 自分で自分を憐れなんて言うなよ。誰からどうやって生まれようが、俺は俺だ。それ以外の真実なんてないね!」
桃浪は「今」のために戦っている。過去? 前世? 自分を作る核となった死者の怨念? そんなものはどうだっていい!
桜魔・桃浪として生まれ生きてきた全ての時間のために今戦っているのだ。彼が戦う理由は復讐と言う過去のためだが、過去は過去でもそれは紛れもなくこの桃浪自身が生きて得た軌跡である。
誰かの人生のやり直しなんてした覚えはない。するはずもない。
「……ああ、そうだったね。桃浪は華節の復讐のために戦っているんだった。立場としては祓の方に近いんだっけぇ?」
あっさりと攻撃を避けた夢見の喋り方がいつも通りになり、桃浪も調子を戻す。
「あの坊やとは気が合いそうにないけどな」
同じ復讐者でも生真面目に桜魔王・朔に従っていた祓と、最初から朔に従う気がなく、華節の一件で即座に裏切った桃浪では絶対に馬が合わないだろう。
「じゃあ余計な話だったなぁ。ごめんねぇ、桃浪ぉ。無駄な時間使わせちゃったぁ。じゃあ、すぐにこの時間を終わらせるからねぇ」
生を憐れみ死を産む女は、死によって生まれ生を積み重ねた男と対峙する。
手に妖力を溜めはじめる夢見に対し、桃浪は剣を構えなおしながら告げた。
「いやいや、俺こそお前に無駄な時間を使わせてるからな。そろそろ――終わらせようぜ」