桜魔ヶ刻 12

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 鵠と桜魔王・蚕月の激戦は続く。夢見と桃浪を喪ってなお、二人の戦意は衰えていない。否、むしろ、彼らを喪ったからこそ、今度こそ確実に勝たねばならないのだと――。
 そしてまた、戦場に変化が訪れた。
「朱莉か!」
「まさか……あの術を解くとは!」
 祓の気配が小さくなる。だが彼は夢見や桃浪たちのように致命傷を負って力が弱まったわけではない。
 朱莉が魅了者として全霊をかけて、祓を支配下に置くことで蚕月による洗脳を解いたのだ。
「お前、あの餓鬼に何したんだ」
「妖力の針を脳に埋め込んだのだが、朱莉による新しい支配によって消し飛ばされてしまったようだな」
 だが、いくら支配下に置いたとは言っても納得させるのはそう簡単なことではない。
 洗脳されて戦っていた時の記憶が祓にはないらしく、いきなり朱莉の下僕とされたことに戸惑い取り乱している様子だ。
 朱莉の方に危険はないが、これではあの二人も迂闊に動くことはないだろう。
「援軍は来ないぞ」
「いいや、まだだ」
 相手を撃破して二対一となり、数の優位をとって桜魔王を倒す。それは以前から何度も話し合ってきた戦術で、以前は仲間だった蚕も勿論知っている。
 だが桃浪は夢見と相討ちになり、朱莉は祓を抑えるのに手一杯だ。鵠の援軍はいない。
「神刃では夬に勝てないだろう。大分成長はしたが、それまでだ。長年、朔の傍で側近をしていた男を舐めてはいけない」
「そうだな」
 朔や、あるいは夬に殺された者たちの意識もあるのかもしれない。桜魔王に対してあらゆることを知っている蚕月は事もなげに言う。
「だが――」
 神刃は勝つことを諦めてはいない。鵠も。
 別に神刃が無理に勝つ必要もないのだ。数の優位を獲りたいのは向こうも同じだろう。夬の足止めをしているだけで、もう十分神刃は役に立っている。
「俺が」
 鵠は呟く。まだ足りないと言うのか、届かないのか。
「俺が、桜魔王を倒しさえすれば……!」
 全てが終わる。わかっているのだ。他にどんな理由をつけたところで、結局は鵠自身の力不足がこの事態を招いたのだと。
 桃浪は夢見を命と引き換えに倒した。朱莉は祓の洗脳を解いた。神刃は夬の足止めを十分こなしている。
 あとは鵠が、蚕月を倒せばいい。
 二人の攻防は目まぐるしく続く。蚕月は糸針や布刃、無手の格闘技を駆使して絶え間なく攻撃を仕掛けてくる。
 鵠はそれを捌きながら時折隙を見て剣を振るう。だが、蚕月には難なく躱されてしまう。
 桜魔は人間の何倍も体力がある。長引けば鵠たち退魔師側が不利になる。
 膠着状態を打破するには、何らかの切欠が必要だ。
 そして――その機会は訪れたのだった。
「なにっ……!」
 矢のように放たれた妖力の刃が蚕月の背を貫く。傷を受けた瞬間咄嗟に防御はしたものの、背中からの不意打ちを蚕月はまともに受けた。
「誰が……朔っ?!」
 振り返った蚕月の背後、遠くから攻撃を放ったその影を目にして彼らは顔色を変えた。
 早花に肩を貸された朔が、蚕月に攻撃を仕掛けたのだ。
 ――その瞬間、全てが同時に動いた。
 後から振り返ってみればほんの数瞬、だがこの時はもはや無我夢中で、永遠にも等しく感じられる時間。
 蚕月の背後をとった朔だが、深追いはせずに標的を変えた。蚕月に対しては今正面で戦っている鵠がトドメを刺すと思ったのだろう。彼は、次の標的として夬と対峙している神刃を狙う様子だった。
 だがその攻撃が炸裂する前に、蚕月の放った無数の糸針が朔を襲う。何の躊躇も容赦もない攻撃は、今度こそ朔の命を奪った。
「すまない、早花――」
「朔様!」
 早花の悲鳴が終わりもしない間に、戦場は絶えず動き続けている。
「貴様!」
 今度こそ本当に主を奪われた夬が、遂に反逆の意志を見せる。だがそれは、神刃に隙を晒すことへと繋がった。
 夬の意識が蚕月へ向いた瞬間、彼を倒す機会がここしかないと悟った神刃は彼の撃破を優先し、死に物狂いでその懐に飛び込んだ。気付いた夬が迎え撃とうと動き出す前に小太刀で斬りかかる。
「……っ!」
 己の激情を制御できなかったことが敗因とばかり、悔しげな表情のままで夬の体もまた、主の後を追うように散り続ける桜の花弁へと変わっていく。
 そして鵠もまた、蚕月が朔を狙った一瞬の隙に、攻撃を仕掛けた。しかし。
「!」
 鵠の剣は、蚕月が一瞬で生み出した絹の盾に防がれる。柔らかな布はどんなに硬い鋼よりも柔軟に刃を包み込み蚕月本体への攻撃を吸収してしまう。
 片手を塞がれて残るはもう片手だけ。これは先程の桃浪と夢見と似た状況だ。だが一つだけ違うことがある。
 咄嗟に出した絹の盾は、蚕月自身の行動も僅かながら制限していたのだ。彼は二刀流の夢見と違って武器を使わない。拳に妖力を纏わせても、それで攻撃をするには拳を繰り出すだけの大きな動作が必要だ。
 一方の鵠は、初めから剣を止められること前提で、もう片腕に霊力を纏わせていた。
「――」
 蚕月の唇が震える。
 全てが決したその一瞬。
 どこかあどけなさを残した金の瞳が見開かれる前に、すでに鵠の腕が、蚕月の心臓を貫いていた。
 朔を狙って早花に防がれた時のように急所を逸れてはいない。鵠の腕は確実に、肉を貫き骨を砕いた。
「は……」
 蚕月が激しくせき込みながら血と共に言葉を吐き出す。
「見事だ……大陸の勇者、鵠――」
 最強の退魔師は、ついに桜魔王を倒したのだ。

 ◆◆◆◆◆

 なのにどうして気分がまったく晴れない。力を喪った体が腕にかける重みが胸を押し潰しそうだ。
「蚕……」
「私の名は――」
「いいや、お前は“蚕”だ。そうだろう?」
「ふふ……気付いて、いたのか……?」
「ああ……さっきまでは半信半疑だったがな」
 一言ごとに苦しげに言葉は途切れる。けれど蚕月は話すことを止めない。
 こんな時ばかりは、人間よりも頑丈に過ぎる桜魔の肉体が恨めしくなるだろうに、それでも蚕月は――蚕は、笑っている。
 彼は何も後悔していなかった。
「お前は蚕としての記憶を喪ってもいないし、蚕月になっていきなり俺たちと過ごした日々の感情を無くして桜魔王としての使命に目覚めたわけでもない。最初からずっと、変わらない蚕のままだ」
 会話が聞こえる距離まで神刃と朱莉が近寄ってきた。早花はすでに姿を消していて、祓は呆然と経緯を見守っている。
「ああ、そうだ……私の、望みは……」

 桜魔王を倒すこと。

 蚕はずっとそう言い続けていた。
「――ッ!」
 神刃の顔が何か言いたげに悲痛に歪んだ。だが、唇は戦慄くばかりで言葉が出てこない。
 鵠に、神刃に、朱莉に、これまで蚕と交わした数々の言葉が脳裏を過ぎる。
 ――もしも私が桜魔として、人類にとって有害な存在だと判断したなら。
 ――その時はお前たちの手で、私を殺せばいい。
 ――私たちの手で桜魔王を倒そう。それが、この大陸総ての者を、過去の因縁から解き放つことになる。
「我ら桜魔は、散り逝くための、存在……」
 すでに蚕の体は鵠に縋る形になっていて、鵠も血に濡れることも構わずその身を抱き留めている。
「これでようやく、目的を、果たせる……」
「蚕!」
 たまらず神刃が叫んだ。
 彼に一緒に過ごした日々の感情を忘れられたのだと思うことは、もうどうだっていいと思われていると考えるのは、神刃にとって辛かった。
 でもその辛さは、本来この辛さより何倍もマシだったのだと今更気づく。
「死なないで」
 詮無い言葉が口をついて出る。
 もうどうにもならないのに、それでも涙はぽろぽろと、炎色の瞳に洪水を起こすかのように溢れ出る。
「やだ、やだよ……蚕……!」
 こんな結末を望んでいたわけではない。
 こんな勝利を望んでいたわけではない。
 あの時までは、朔と戦っていたあの時までは、戦いが終われば、一緒に生きられると思っていたのだ。蚕とも。桃浪とも。
 蚕はふいに祓の方を一瞥すると、そのまま視線を動かして朱莉に微笑みかけた。
「朱莉……祓を頼む……。桜魔王の襲撃命令以外は、退魔師たちと戦うばかりで……実は、人一人殺したこともない子だ……」
「……わかりましたわ」
 朱莉は色々と言いたいことをぐっと堪えて、ただ頷くに留めた。
「……っ」
 憎んでいた桜魔王から思いがけず自らの身の上を案じる言葉を聞いた祓は、ますます混乱したように顔色を失っている。
 お互いを理解するような間柄ではなかった。だがもう、祓が蚕の本心を確認するだけの時間は残されていない。
 鵠の胸に縋る蚕の腕にほんの一瞬だけ、最期の輝きとばかりに強く力が宿る。
「鵠、神刃……お前たちに会えて」
 良かった、と。
 その声は、聞こえたのかどうかもわからなかった。
 もしかしたら言葉の続きを自らの願望で埋めたのかもしれないと。
 それぐらい呆気なく、蚕の姿は無数の桜の花弁へと変じて鵠の腕から零れ落ちていく。
「蚕……!」
 わかっていたのに。この手でトドメを刺したのに。
 それでもまるで諦め悪く、鵠はその名を呼んだ。
 神刃が遂に泣き崩れる。これまでずっと、実父のことや養父のことがあっても悲しみを堪えて戦おうとしていた少年が。
 そう、もう涙を堪えて戦いに望む必要はないのだ。何故なら――。
「桜が……っ!」
 朱莉の叫びにふと顔を上げれば、朱の森のあちこちに咲いていた桜の樹が一斉にその花を散らしている。
 空の色が少し変わり、気温も僅かに上がっている気がする。同じことはきっと、この大陸のあちこちで起こっているはずだ。
「止まっていた時間が、動き出すのね……」
 朱莉が薄らと涙を浮かべた瞳で、舞い散る桜の花びらを受け止めるかのように両手を差し出した。
「そうか」
 そして勇者は――鵠は静かに目を閉じた。
「“桜魔ヶ刻”が、終わったんだな」