桜魔ヶ刻 12

071

 大陸全土で咲き誇り狂った春を謳い続けていた桜の花が枯れた日。
 人々は桜魔王がこの世からいなくなったことを知った。
 勇者の勝利、人類の勝利だ。
 平和を取り戻した大陸は、朱櫻国を中心に諸国が一丸となり各地の復興を始める。
 妖に大陸を支配されつつあった悲惨な桜魔ヶ刻を生み出したのは、元は人間同士の争いがあってのこと。当時戦争を行った関係の国同士の遺恨が完全に消えたわけではないが、もう無益な争いはやめようと――。
 特に朱櫻国の若き王は、父王の贖罪のためにより一層自国、他国を問わず人々のために働き、誠意を尽くした。
 少年王のその姿に心を打たれた者も多く、隣国である花栄国は朱櫻国によく協力した。
 どうやら花栄国でも名門の退魔師一家・天望家当主から花栄国王への口添えがあったらしい。
 凄惨な過去を忘れたいとばかりに、人々は復興に力を入れ、襲撃の恐怖に怯えていた分の時間を早く取り戻そうと動き出す。
 そうして残った少ない桜魔たちも、いずれ自然と消滅していくのだろう。

 ◆◆◆◆◆

「よ、蒼司陛下。調子はどう?」
「蝶々殿」
 朱櫻国の王宮で、蒼司は久方ぶりに退魔師協会の協力者として蝶々と顔を合わせていた。
 他に兵破と、葦切がいる。彼らは桜魔ヶ刻の終焉を各地に宣伝し、桜魔の残党を狩る任務を朱櫻国王蒼司に与えられ、今もまだ退魔師協会の人間として働いていた。
「協会長が愚痴ってたよ。桜魔がいなくなったらうちは商売あがったりだって」
「ま、あの親父の言うことはどうせいつも照れ隠しの憎まれ口なんだけどな。なんだかんだで平和な時代が来て、退魔師協会もみんな喜んでるよ」
「そうですね」
 葦切が静かに口を挟む。
「鵠殿に、感謝を――」
 蝶々、兵破、蒼司の三人が、その名を耳にして途端に真面目な顔になる。
「あいつら、結局どうすんだい? 朱莉はもうこの大陸を出ちまったようだけど」
「兄……神刃も、鵠殿も、そのつもりだそうです」
「朱莉殿とは別行動ですよね」
「はい、神刃と朱莉殿には過去の因縁がありますので」
 勇者の活躍によって、世界は平和を取り戻した。
 だが戻らなかったものも多い。襲撃の死者や、桜魔を倒すために立ち上がり二度と帰って来なかった者たち。
 そして最後の戦いで喪われた鵠の「仲間」たち――。
 戦いの最前線にいた鵠たちにしかわからないことも多い。蚕が敵に回り、桃浪が敵と相討ちになって死んだと。蒼司たちが帰ってきた彼らから聞かされたのはそれだけだ。
 桜魔でありながら退魔師の仲間になった二人と鵠たちの絆について、誰も外から見て本当のことなどわからないのだろう。
 蒼司も蝶々たちも追求を止め、彼らの今後の身の振り方は彼ら自身の意志に任せた。
 本当なら、蒼司は兄に、大陸救世の英雄にこれからも傍に、せめてこの国近隣にいて欲しい。
 けれどそれは、蒼司の我儘だ。彼らは桜魔王を倒すという役目を立派に果たした。これからのこと――疲弊した人々の暮らしの復興は、王である蒼司の役目だった。
「蒼司、あんたも大丈夫かい? なんか物凄く頑張ってるらしいけど」
「……大丈夫です。疲れる時もありますけれど、今は皆の瞳に、未来への希望がありますから」
 緋閃王が大きな罪を重ねた分、それを償うために、蒼司はこれから長い長い時間を費やさねばならない。
 蒼司は自らその道を選んだのだ。子として父親の死を喜び、王として先代を断罪し、一人の人間として、朱櫻を始めとした大陸の国々の救済と復興に尽くすことを。
 それは父親とは正反対の道で、兄であり桜魔ヶ刻の終息に一役買った神刃ともまた違う道だ。
「僕はずっと、桜魔王を倒すことを誓う神刃の姿に希望を与えられてきました。彼には苦しい戦いでも、彼がいたからこそ僕の目には未来が映っていた。その分のお仕事はしませんと」
「……そうかい」
「ま、王様も俺たち退魔師協会に依頼があったら気軽に言ってくれや」
「ええ。頼りにさせてもらいますよ」
 蒼司は蝶々と兵破に向けて笑い、次いで葦切を振り返る。
「葦切殿も、天望家から花栄国王への口添えをありがとうございます」
「私はただ、繋ぎをつけただけです。我が国の王を説得した手腕は、蒼司陛下ご自身のものですよ」
 桜魔王は倒されたが、まだ大陸各地に散って今も人間に危害を加えている桜魔の全てが滅ぼされたわけではない。むしろここでどれだけの働きを見せられるかが退魔師の名家の本領であると、葦切は天望家の力を総動員して名を売り始めている。
 それはこの大陸に広まった、もう一人の「天望の退魔師」の名を隠すかのような勢いだ。
 本物の勇者は、己が名を語り継がれることを望んではいない。彼が一時最強の退魔師と謳われながらその後長いこと世間から忘れ去られていたように、魔王を倒し大陸を救った勇者の名もいずれ呆気なく忘れ去られるのかもしれない。
 朔と蚕月、それぞれ鵠と並々ならぬ因縁を持っていた二人の桜魔王の存在と共に。
「ま……残された我々は、自分にできることをやるだけですよ」
「そうだね」
「そうだな」
「ええ」
 四人は顔を見合わせて、これからの未来に想いを馳せた。

 ◆◆◆◆◆

 船に乗りましょう、と少女は言った。
「船?」
「あら? 知りませんの? 水の上に浮かべて人や貨物を渡す――」
「馬鹿にするな。船はもちろん知っている。だが何故、そんなものに乗らねばならない。まさか……」
「ええ。そのまさかです。私は緋色の大陸を出るつもりですわ」
「何故……」
「会いたい人がいるんです。いえ、次も人に生まれ変わるかはわからないのですけれど」
 朱莉の言葉に、その隣に立ち大陸西端の港で忙しなく動き回る人々を見つめていた少年――祓はそっと目を瞠った。
 あの時、全ての戦いに決着がついた時。
 祓にはもはや何もなかった。蚕月に洗脳されて戦わされていたことを聞かされた直後に、退魔師に倒された蚕月から朱莉相手に自分をよろしく頼むなどという言葉を聞かされて。
 もう何を信じればいいのか、何と戦えばいいのか、祓にはわからなくなってしまった。
 混乱する彼を更に混乱させるようなことを目の前の少女は言う。
「あなたは魅了者としての私の支配下になりました。以後、私を主人としてその力を私のために尽くしてくださいな」
 ふざけるな、と思ったが何故か逆らう気力が涌いてこない。これが魅了者の力なのか。そんなものに支配される自分は自分で思っていたよりも意志弱い存在だったのかと、ただひたすら落ち込んだ。
 朱莉は祓に対し特に気にした風もなく接してくる。彼女は「じゃあ行きますわよ」と突然朱櫻国を出て、大陸を横断する移動を始めた。
 祓は見た目だけなら人と変わらぬ高位桜魔だからと、こうしてたまに外に連れ出されて、一緒に街の景色を見せられる。
 その何にも、これまで祓の心は動かされなかった。だが今、大陸を渡ると聞かされて少し動揺している。
 桜魔として桜のある緋色の大陸に生まれた祓は、死ぬ時もこの大陸だとばかり思っていた。
 現在、緋色の大陸を除いても世界中に魔性が溢れ天変地異が多発している危機的な時代には変わりない。
 船に乗って大陸を渡る行為も、当然それ相応の危険を伴う。だが朱莉はいとも容易く、大陸を渡るなどと口にした。
 そこまでして求めたいものが、彼女にはあるのだ。
「ねぇ、祓。救いや希望は、簡単には手に入らないからこそ価値があるのです。運命の相手は、滅多なことでは出会えないから焦がれるのです」
「……だから?」
「ゆっくりでいい。状況に納得するのは、心の整理をつけるのは、今すぐでなくてもいい。……けれど、歩みを止めないで。私が私の愛する人の生まれ変わりを永遠をかけて探すように、あなたもあなたの大切なものを見つけましょうよ」
 朱莉と、その配下の同族たちと、こうしてゆっくり旅をしながら。
 その言葉に祓は眼前の広く青い海を見つめながら、朱莉へぽつりと問いかけた。
「……見つかるかな」
「ええ。きっと見つかります」
 だから行きましょう、この大陸を飛び出して、新しい時代、新しい世界へと。
 そして朱莉の言葉に、祓はまだぎこちないながらも、確かに小さく頷いたのだった。