桜魔ヶ刻 12

072

 しばらくの間を仲間たちと共に過ごした花栄国の家を去り、花の散った桜が並ぶ峠の頂上で、鵠と神刃は言葉を交わす。
「一つ、気になることがあって」
「なんだ?」
 戦いが終わり、人々は取り戻された平和の中で明日へ向かって進み始める。
 鵠もそのつもりでいた。これまで身の回りのものを置いていた「家」を片づけ、簡素な荷造りに精を出す。
 神刃はそんな鵠の様子を見ながら、何も言わずに自分もこの場所を去るべきかと、同じように身辺整理を始めていた。
 ――そしてそれらの片づけは、蚕や桃浪の分も行わねばならない。
 二人が残したものはそう多くはないが、逆に僅かなものは本当に気に入って使っていたものが多く、一つ一つにまつわる思い出を振り返る度に胸が痛んだ。
 朱莉はもうこの大陸を出たはずだ。
 神刃と因縁のある彼女は、これでさっぱりしたと言わんばかりに戦いが終わるとさっさと荷造りを済ませ実家に挨拶をし、自らの配下の桜魔たちだけを引きつれて単身この大陸を飛び出したのだ。
 最後に蚕に頼まれた祓ももちろん一緒である。若干不安がないでもないが、まぁ、朱莉なら大丈夫だろう。
 鵠と神刃は彼女の行動力に圧倒されてあっさりとしたその別れの後しばらくのんびりと……もしくは呆然として過ごし、蒼司や退魔師協会の面々の働きかけで民衆に活気が戻った辺りで、ようやく勝利の実感が涌いてきたぐらいだった。
 そう、彼らが勝ったのだ。多くの大きな犠牲と引き換えに。
 やることがなくなった鵠は家を片づけて荷物をまとめ始め、神刃もそれに倣ってなんとなく整理をし始めたのである。
 肩の荷が下りた。そんな気分だった。
 下ろさなくていい方の荷物まで下ろしてしまったくらいだ。神刃はなんとなく、自分がからっぽになったように感じていた。
 そんな折、ふと気になったのがいまだ行方不明の最後の桜魔王側近のことだった。
「早花は……彼女は一体どうしたんでしょう? 蚕月が殺したのは、朔の方だけですよね?」
 最後の戦いで――蚕月に攻撃を仕掛けた朔は、逆に蚕月の攻撃を受けて斃れた。激昂した夬は神刃に殺され、蚕月は鵠の手によって心臓を貫かれた。
 あの時、神刃は蚕月に助けられた気がする。
 朔にとっては蚕月も神刃も敵でしかない。彼は一度蚕月の隙を突いた後、標的を神刃に変えた。しかし実際にその攻撃が神刃に放たれる前に、蚕月が朔を絶命させたのだ。
 蚕月と名乗ってはいても、あれは蚕だ。蚕の心がそのままなら、神刃を庇ったのも……。
 とにかくそうした混戦の中で、いつの間にか早花が姿を消していた。
「……さぁな、お嬢と彩軌の調べによれば、もう一部を除いて各地の桜魔たちは徒党を組んで悪さをする様子はないってことらしい。あの女が生きていたとしても――」
「早花は高位桜魔です。一人でも充分大勢の人に危害を加える力を持つ……」
「やると思うか?」
「……いいえ」
 結局神刃は自らの言葉に、自らで首を横に振る形となった。
 以前の神刃だったら、見つけ出してしっかりトドメを刺すべきだと考えたかもしれない。けれど戦いを通して、彼もこれまでと大きく変化した。
 蚕や桃浪、そして敵ではあったが、朔や早花、夬、夢見に祓、載陽、華節……様々な桜魔たちとの出会いが、彼らにも個々の人格と意志があることを神刃に気付かせたのだ。
「これでお前との約束は果たしたな」
「はい……あの、鵠さん、ありがとうございました」
「なんだよ、“桜魔王を倒した”のはお前も一緒だろうが。今更礼を言われるようなことでもないぞ」
「いえ。それもありますけどそれだけじゃなくて……あの、本当に色々、ありがとうございました!」
 これで伝わるだろうかと神刃自身半信半疑になりながらも、精一杯の気持ちを込めて頭を下げる。
 鵠は理解してのことか単に流しただけか、ぽんぽんと宥めるように軽く神刃の頭を叩いた。
 そして、唐突に話題を変える。
「神刃、俺はこの大陸を出る」
「え……」
 荷造りを済ませ家を空けた様子から鵠が旅に出ようとしていることは察せられたが、まさかの大陸越えを聞いて、神刃は目を瞬かせた。
「それは、朱莉様のように……?」
「お嬢みたいにきっちり目的があるわけじゃないがな。まぁ、この目で別の世界を見てみるのもいいかと思って」
 鵠は大陸の外を知らない。鵠だけでなく、多くの人々がそうだ。
 現在他の大陸も情勢が不安定で、そもそも航海の途中で海賊や海の魔物に船を沈められることを考えれば、気軽な船旅などできない。
 大陸を渡る決断には、それだけの意志の強さが必要だ。
 桜魔に大陸を蹂躙されている間、人々は大陸の外に逃げるという選択すらできなかった。
 確かに大陸住民全員が移動するなどということを考えたら馬鹿げている。けれど、そんなに桜魔を恐れるのであれば、逃げてもいいのではないかと鵠は思うのだ。
 存在するかどうかもわからない勇者を待って死の恐怖に震えるよりも、自らの脚で逃げ出す。その方が余程前向きだと。
 それができない人間が多かったのは、結局彼らもこの大陸以外での生き方を知らなかったからで。
 囚われていた。血に、過去に、この大地に。
 その鎖を、鵠は解き放つことを望む。
 勇者は忘れ去られるべきだ。桜魔王も。
 鵠がこの大陸にいては、人々はいつまでもその栄光と共に苦渋の時代を忘れられない。そしてまた過去に囚われる。
 それは“彼”の望んだことではない。
 ――私たちの手で桜魔王を倒そう。それが、この大陸総ての者を、過去の因縁から解き放つことになる。
 だから鵠は、勇者として、最後の仕上げに自らの名を葬り、この大陸を過去から、全ての因縁から解き放つ。
 後のことは、この日のために色々と準備してきた蒼司や葦切、退魔師協会の面々がやってくれるだろう。彼らを信じているから、後を任せることを心配もしていない。
 ……それに、こう言ってはなんだが、元々鵠に平和の中で人々と積極的に交わりながら安定した生活を作り上げるなど、そういった才能自体皆無であることだし。
 だが神刃は鵠の生活能力をそこまで酷いとは考えていないようだった。鵠の身内の話まで知っている彼は、顔を曇らせながら問いかける。
「いいんですか? 鵠さん。あの、天望の家とは……」
 総てを捨ててしまうのかと。蒼司との兄弟関係を表に出せない神刃と違って、鵠にはまだ望めば会える血縁がいる。
「家? 何のことだ? 俺は天望家なんて知らないね」
「でも、御家族が」
「……あのな、神刃。俺はあんなんでも、自分の両親が好きだったんだよ」
 真実の言葉でしか頑固な神刃を納得させられないと、鵠は普段、思いついても決して口にしないような、どこかむず痒い本音を語った。
「おっとりしすぎの母さんとか、その母さんより退魔師として弱い父さんとか、短所も弱点も色々あったけど、でも……好きだった」
 考えるまでもなく当たり前だと思っていたことを。
 それは、実父が緋閃王であるという神刃の苦しみを聞いたからでもある。親を憎む子供がいると知識では知っていても、鵠には実感がなかった。
 それ程に彼は、自らの両親を愛していた。
 だから今度は、鵠にそれを気づかせた神刃に伝えてやりたい言葉がある。
「俺の家族はあの二人だけだ。あの二人が家を捨てたって言うなら、俺も別にそんなものいらないね。俺と両親は血縁だけど、血縁だから愛さなくちゃいけないわけじゃない」
 神刃がハッとする。彼もまた暴虐の王を父に持ち、呪われた血に縛られる一人だからだ。
「ただ俺が、俺を愛してくれた親を子どもとして愛してただけだよ。そこに血は関係ない。血で人を、ましてや自分自身を縛るなんて愚かなことだ」
 もうわかっている。
 葦切から両親の様々な事情を聞いても、鵠の両親に対する愛情は変わらなかった。
「愛するに値しない血縁だってこの世にはいるだろう。俺にとって両親を捨て、両親が捨てた家なんてどうでもいい存在だ。……葦切の奴はまぁ別だが、それだって俺とあいつの問題で、血そのものが重要なんじゃない。少なくとも俺はそう思う。葦切の奴もまぁ多分……そう思っているだろう」
 天羽の家は花鶏を見捨て交喙も手放し、その代わりに現在葦切という当主を得ている。それでいいのではないかと、鵠は思う。
「桜魔ヶ刻は終わったんだ、神刃。もう生まれる前からの因縁などに、縛られるのはやめようぜ」
 それは人を桜魔にする。
 過去の、生前の、誰かの妄執のために生まれ生きるしかできない、憐れな妖――。
 だが彼らの知っている桜魔たちは、自らの運命に抗った。
 桜魔としての自分が築いた絆を選んだ桃浪も、桜魔王を倒すという自分自身の意志に殉じた蚕も――。
 自らの意志で戦い、誰かを守り、何かを成し遂げる。もはや彼らと人間の間に何の違いがあろう。
 桜魔はいなくなったのだ。最初から、そんなものはいなかったのだ。
「……」
 長い話の締めくくりを装って、鵠はようやく本題を口にした。
「一緒に来るか? 神刃」
 荷造りや身支度はちょうど済んでいる。家も引き払い、どこへ行こうとも決めていない。
 帰る場所は確かになかった。でもだからこそ、これからどこへでも行けるだろう。それが鵠の考えだ。
 神刃は驚きに目を見開き、次の瞬間、彼がかつて見せたことのない満面の笑顔で頷いた。
「はい!」

 大陸に、新しい時代がやってきた。
 子どもたちの顔に笑みが戻り、大人たちはそれを見て復興への気持ちを新たにする。
 亡くしたものへと今も時折想いを馳せながら、それでも過去に囚われることはないようにと。
 その祈りを、前に進む力へと変えて。

 そして、“桜魔ヶ刻”は終わりを告げる――。

 桜魔ヶ刻 了.