推定有罪

9.豊穣の神子

 ティーグに抱きかかえられて登場したルゥは、特に酷い傷を負っているというわけではなかった。周りは一瞬その可能性を考えてぎょっとしたようだったが、すぐに彼は騎士の腕から降りて、自分の足で歩き始めた。実はここまで抱きかかえられていたのは、彼が自分で歩くよりもティーグがルゥを抱きかかえて走った方がよほど早いからという判断だった。
 ティーグの腕から降ろされる時、ルゥは愛しい騎士に向けて囁いた。
「――今までありがとう、ティーグ様。あなたは私を嫌いになるかもしれないけれど、私は今でもあなたが好きだということだけは、どうか覚えておいて……」
「ルゥ様?」
 見つめ合ったのはほんの一瞬だけだった。ラーラのように事情を知っているものでなければ、そこにどんな感情があるかなど到底読みとることはできないだろう本当に短い時間。だけどルゥには、それだけで十分だった。覚悟を決めるための時間は。
 そして彼は――豊穣の巫覡ルゥは声を張り上げる。
「やい! 第二王子さんよ! 大事な式典の最中に人をかっさらうなんざよくもやってくれたな!」
 高いは高いが明らかに少年のものだとわかる声を、これでもかと張り上げる。この会場中に、国中に届くように。もちろんそれは無理だが、ルゥの声が聞こえる範囲にいた人々に動揺を与えることはできた。
「巫女姫さま……?」
「今のって、男の子の声……」
 別に女だと名乗った覚えはないのだが、会う者会う者が勝手に勘違いしていってくれるのがルゥの容姿だ。それは今回の時のようにルゥの身を守るのに必要だったから、彼自身あえて周囲の誤解を解かなかった。
 だが今、窮地に陥った友人のために、ルゥはその幻想を自ら打ち砕く。
 “神聖な少女”、その仮面を剥ぎ取った時にルゥに残されるのは人々の落胆と失望の眼差しかもしれない。けれど、それでも。
「てめぇの手下が随分いろいろと喋ってくれたぜ! 人を攫って嫁にするだのシャニィを追い落とすだのな! 俺が男だってことにも気づかないような間抜けが、王として神に認められるなんてありえないね!」
 いくら豊穣の巫覡とはいえ普通に考えれば王子に対する口の利きようとも思えない口調でルゥはまくしたてた。ただでさえ王子としては立場の弱いシャニィディルを守るためには、巫覡であるルゥがこのくらい強気に出なければ意味がないのだ。その様子に、呆気にとられていたクラカディルの顔色が変わる。
 彼が勘違いするのも無理はないのだ。何故なら他でもないシャニィディルが、時折冗談でルゥを嫁にするだのなんだのと言っていたのだから。聖色を持たないことはシャニィディルにとって尽きない悩みの種であり、もしもルゥが本当に女であったならば、その話は洒落にならなかっただけではなく、彼の王位を守るのに最も有効な手札だったのだろう。
 クラカディルが恐れたのはそれだった。神子を手に入れれば、いくら聖色を持たない王子と言えど兄王子の立場は確たるものになる。ならばそれを奪ってしまえばいいと彼は考えた。
「御冗談を。巫女姫様。私が兄上を陥れるためにあなたを手に入れようとしたなんて……。そんなものは何かの間違いです。まるでガサツな男のような振る舞いをするのはやめていただきたい。あなたのそんな御様子に、あなたを信じる民も嘆いていますよ」
「生憎だが、こっちが俺の本当の姿だよ。クラカディル王子。俺は一度も自分が女だと名乗った覚えはないぜ」
 そう言ってルゥは、あろうことかその場で祭祀服を脱ぎ出した。いくらなんでも女であれば十三歳にしては平坦すぎる胸が露わになる。微かな膨らみも何ももちろんない。
 まず上着を脱ぎ、続けて下に手をかけたところでルゥは背中からラーラに蹴りを入れられた。
「ぎゃー! 神子のくせに何やってんだよお前は!」
 巫覡を守るべき護衛騎士のする行動ではないが、誰もラーラの暴挙を止められなかった。色々な意味で。
というか、周囲にとっては間違いなくルゥのとった行動の方が暴挙であろう。
「え、いや十三歳くらいだとまだ泣く子も黙るド貧乳だったら誤魔化せるとかなんとかイチャモンつけられるかと思っていっそ下も脱ごうかと」
「そこまで余計な気を回さんでいいわボケ!」
「だってラーラ、お前なんてもう十四歳のくせにその貧にゅ」
「それ以上言うな馬鹿――!!」
 二人のやり取りはもはや漫才の領域だ。貴族も国民たちも皆一様に呆気にとられていた。まさかあの楚々とした巫女姫だと思われていた豊穣の巫覡がこのような性格だとは誰も思ってはいなかったのだ。
「おい、あれもしかして、何年か前までパン屋のところの下働きしてたルゥじゃないか?」
「最近見かけないと思ったら、まさか!」
 下町育ちとはいえだてに王都で暮らしていたわけではなく、ここまで本性をさらけ出して喋れば、都民の中でもルゥの顔に覚えのある者たちが声を上げ始める。事実を知る者は一部だが、別に緘口令を敷いていたわけでもないのだ。一人気づけば、その一角から情報が伝わっていくのはあっと言う間だった。
 しかしクラカディルは諦めが悪かった。無礼とも言わずルゥを指さして、糾弾する。
「いいや! そもそもそなたが本当の大地の神子だという証拠は何もない! 巫覡とよく似た偽者ではないのか!」
 豊穣の巫覡、神聖なる巫女姫、そんなルゥの姿に最も幻想を重ねていたのは本当はクラカディル自身なのだろう。だから彼は冗談でもルゥが男であると疑ったりしなかった。そして今、現実を認められないのも。
 それにクラカディルの作戦が成功していれば、確かにルゥは今ここにはいないのだ。万が一純潔を奪われるようなことがあれば、男にしろ女にしろ、神子としての神性は失われるのだから同じだ。
 だが王子の糾弾を受けたルゥは知っている。
 己がまだこの国の、大地神の加護を受けしタルティアン王国の豊穣の巫覡であることを。
「我が力を疑うか! ただ王家に生まれ、ただ聖色を持つだけの王子よ! ならばその目で見るがいい! ディオー神の加護は、例え我がどのような姿になり果てようともこの身と共にある」
 ルゥは傍らのラーラに、短剣を貸してくれるように頼んだ。彼女が理由も掴めず咄嗟に渡してしまうと、迷いもなくそれを己の長い藁色の髪に押しあてる。
「ルゥ?! 何を!」
 護衛騎士であるラーラでさえその行動の意味がわからずにぎょっと目を瞠った。だがルゥは癖のある長い髪の束を空中に散らすように無造作に放り投げると、その唇から神の慈悲を請う言葉を紡ぎ出す。
「偉大なる大地の神よ、豊穣のディオーよ! 我はこの身をもって御身に願う! 恵み深きダードリア・アーシェナータ! ――この国に栄光あれ!」
 すると、先程ルゥ自身の手によって切り取られ、空中に投げられた髪の一本一本が一束の麦の穂へと変わった。黄金の麦は地面より高く作られた式典会場から、民衆の集まる地面へときらきらと光を放ちながら落ちていく。
「おおっ……!」
 その光景の美しさに、会場は沸き上がった。
 魔術ではない。もちろん界律でもない。
 これは巫覡の技だ。神の加護を受けたものが神に願うことで手に入れられる奇跡。
 長かった髪を肩にも届かぬほど短く切ってしまうと、表情や仕草、裸の胸を晒した上半身も相まってもはやルゥは少女には見えない。そこにいるのは。やわらかな陽だまりのような容姿をしながらも、その中に一筋、誰にも折られることのない確かな芯を持った少年だ。その姿に人々は力強さを覚える。
 人々が神子の御技に感動し、落ちてくる金の麦を受け止めようと必死になって歓声をあげている間、ルゥはふと視線を感じて横顔だけで微かに振り返った。その視線の先にいたのはティーグだ。
 彼の眼には紛れもない驚きと、今も残る愛情と、そして微かな寂しさが湛えられている。
「神子殿、ルゥ様」
「……今までありがとう、ティーグ様」
 ルゥは口元だけで淡く微笑んだ。髪と同じ藁色の眉は、ほんの少し困ったように下げられている。
「俺は今まで、あなたやラーラにずっと守られてきた。だから今度は、俺がシャニィを、そしてみんなを、守らなきゃ」
 本当はまだ周囲に、特にティーグには、自分を少女だと誤解したままでいてほしかった。本当の自分を見てもらえないということも、それでティーグが自分を愛してくれるというならば耐えられた。
 まだ自分を偽り、嘘をついていたかった。男だと知られて、ティーグに嫌われるのは怖い。けれど――豊穣の巫覡であるルゥがその資格を失えば、神子を攫われた咎を問われているシャニィディルはどうなる。
 そしてこの国は。
 名ばかりの巫女ではなく、本当の神子。昔は感じられなかったディオー神の加護をいつも受けていることを、今のルゥはちゃんと感じ取っている。その感覚は、あの時、水面に無数の花が浮いた神殿内でティーグに慰められたからこそ得られたもの。あの時間があったからこそ、ルゥは厳しい修業にも耐えられた。
「……いいのかい? ルゥ」
 銀髪のシャニィディルがルゥの隣に歩み寄ってきた。こっそりと尋ねて来るのはもちろんティーグのことだが、もし声が聞こえていても周囲はきっと性別のことだと思っただろう。
 もはやこの少年を豊穣の巫覡ではないと疑う者はおらず、彼が男であることは知れ渡った。神子としての大いなる加護と共に。
 野望を砕かれたクラカディルは、シャニィの命により動いた兵士たちに拘束されながら、何処か虚ろな眼差しでルゥを睨みつけていた。
「あの時の……!」
 真剣になって思い返してみれば、クラカディルは先日の城の食堂などで、少年姿のルゥと何度も顔を合わせているのだ。その時にこの事態を見抜けなかったことが、さぞや悔しいに違いない。
 ルゥとてクラカディルに恨みも敵意もない。もしも彼の計画が上手くいっていたならもっと酷い目に遭わされたのかもしれないが、ティーグとラーラのおかげでそうした最悪の事態にはならなかった。だから第二王子に対して、ルゥは憎しみを覚えることはなかった。だが、彼が兄であるシャニィを害するつもりならば、ルゥは友人のために彼と戦う道を選ぶ。
「いいんだ」
 ルゥは頷く。
「きっとこれで良かったんだ。あとはお前が立派な王になればめでたし、めでたしってね」
「……本当にそれでいいのかい?」
「いいんだ」
 同じ答を、先程とはまた別の意味でもってルゥは繰り返す。その視線が彷徨う先には、ティーグの姿があった。
「いつか来るはずの日が、ほんの少し早くなっただけだから」