推定有罪

2.偽りの恋人たち

 それは美しい衣装を纏った時でも、長い髪を下ろして綺麗に編み込んだ時でもなく。
 ただ、その「時」になればかの者の中に、すっと神意が降りてくる。
 神が降りてくるわけではない。神がこの世界に直接顕現することは稀だ。創造神が悪の魔術師・辰砂に名を奪われて眠りについて以来、神々は自ら母の眠りを妨げぬようにひっそりと己らの住居で暮らしているという。
 だが、その神々の意志は人の中に降り、そして伝えるのだ。神々の言葉を。
 巫覡は媒介、神の意志を伝える器、依代。
 神自体をその身に降ろすことはできないが、意識をこの地上のどことも異なる異層に飛ばして神の心を知り、その言葉を聞き、また時に神の力を借りうけることもできるという。
 それら神々の領域に触れている際の巫覡には、その性別も外見も超越した神秘性が伴う。

 ◆◆◆◆◆

 金でも銅でもないけれどそのどちらにも劣らぬ穏やかな藁色の髪に、榛色と呼ばれる淡い茶色の瞳。肌の色は白く、未発達な手足は細く、声変わり前の声は高い。
 顔立ちは少年というには穏やかで、黙って微笑んでいれば少女のようにも見える。その面に今は繊細な化粧を施し、白と金と緑を基調にした巫覡の衣装を纏うルゥ。
 何の変哲もない下町の少年であった彼は、大地神ディオーのための巫覡となると見出された時から修業を受けて神の声を聞くようになった。
 そして今では彼こそが、押しも押されもせぬ大地神の巫覡。月に一回の祈祷の際に神託を聞く役目は彼のものだった。
 神性とは長い髪に宿るのだという説がある。
 神子として定められた時から、ルゥはその藁色のふわふわとした髪を長く伸ばすよう言いつけられた。少女めいた面差しはますます少女じみて、こめかみから少しだけ編み上げて後はその長い髪を背に流した姿は、少女そのものにしか見えない。
 月に一度の祈祷は、神殿の中で行われる。巫覡の専属騎士である少女ラーラ、聖騎士団の男たちも護衛としてこれに並ぶ。
 聖騎士団が参加するということは、当然ルゥの意中の相手であるティーグもこの場にいると言うことだ。彼は隙なく職務を真面目にこなしながらも、巫覡姿のルゥに熱い眼差しを送っているのがラーラにはわかる。
 そして何もそう言った男たちは、この場に一人や二人ではないのだ。ルゥはまだ十三歳で、見るからに幼くその姿に色気も何もあったものではない。だが、祈祷の際に彼が見せる、神子としての神性は格別だった。神の声を聞く巫覡としてのルゥの姿は、まるで彼自身が境界線の向こう側の住人になってしまったかのように神秘的で端麗だ。
 水を張り、その上に色とりどりの花を浮かべた託宣の間。水は近くの滝から流れ出しているもので、そもそも神殿は王都にそびえる山の麓の滝つぼ近くに建てられている。大地神を崇める場として、吹き抜け構造となった採光性の高い建物の柱には緑の蔦が葉を茂らせて巻き付き、自然の美しさと人間の作りだした建築の芸術が見事に調和していた。ちなみに護衛の騎士たちは足元を濡らさないよう、水の入らない場所に立っている。
 ルゥは裸足をその水に浸すようにして跪き、祭壇の前で手を組み合わせ頭を垂れていた。祈る横顔は張り詰めた様子こそないものの真面目で、その精神が神の声を聞くその一心に捧げられていることがわかる。
 彼のそんな姿には、ルゥの本性というのもなんだが、下町の元気少年としての姿を知っているラーラでさえ思わず溜息をついて見惚れたくなるのだから、男たちの気持ちもわからないではない。だが、ラーラの立場としては主である巫覡の美しさにあまり喜んでばかりもいられない。
 神子は神聖にして決して穢してはならぬ者。それを知っているからこそ、男たちはルゥを熱い眼差しで見つめるだけでそれ以上の行動を起こそうとはしない。――恐らく、彼に告白したというティーグさえ。
 祈祷の間、託宣を聞くルゥはまるでこの世の者ではないかのように美しい。もともと整った顔立ちが化粧と衣装の相乗効果で何倍にも飾り付けられていれば尚更だ。だがそんな彼にも、一歩この場所を出れば普通にその年頃の少年が持つ感情がある。
 ティーグが熱い眼差しを向ける「ルゥ」の姿は、この間の中と外、果たしてどちらのルゥなのだろう。
 ラーラにはそれが不安でならなかった。

 ◆◆◆◆◆

「神子殿」
「ハルディード伯……」
「いや、このような他人行儀な呼び方はやめましょう。――ルゥ様」
 愛しい人の声で名を呼ばれ、ルゥはどきりと高鳴った胸をぎゅっと手で押さえた。これだけのことで、頬が薄らと赤く染まる。
 今は少女にも見える格好をしていて良かったとルゥは思った。ティーグにも少女だと思われているのだから、ただの下町の少年ルゥとしては不本意だが、この場ではこれで良い。第一、そうでなければ男の前で顔を赤らめる自分など気持ち悪くてきっと見れたものではないだろう。
 そう考えながら、彼は相手の名を呼んだ。
「ティーグ様」
 伯爵としての呼びかけではなく、彼個人を表す名前を口にする。ルゥ自身は気持ち悪いだろうなどと思っているが、薄らと頬を赤らめたその笑みは見る者を魅了する笑みだった。
 ティーグもまた赤くなった。二十五歳の青年としては実に初々しく、彼は年下の巫覡相手に照れた顔をしてみせる。
「座りませんか? この後お時間がありましたら、ぜひお話をさせていただきたくて」
「お……私もです。ティーグ様」
 一番上の豪奢な上着だけは脱いだが、あとは神子の衣装と化粧をしたままのルゥは頷いた。そうしていると、見た目は少女にしか見えない。
 あと数年もあればどうせ全ては明るみに出る。ルゥにとって、これは期限付きの幸せだとわかっていた。そんなに長く男だということを隠しておけるわけはないだろうし、第一、貴族の位を持つティーグが巫覡と深い仲になることはありえない。
 神子は聖性を保たねばならない。つまり、誰かと肌を合わせることもない。
 ティーグの告白はさすがに彼自身聖騎士であるだけあって、これらのことも了承済みだった。聖騎士が巫覡に捧げるのは精神的な愛情、忠誠。恋人としての振る舞いや立場を赦されても、決してその先に進むことはない。
 ルゥとティーグは祈祷の終わった託宣の間で、水に浮かび流れる花たちを眺めながらただ話をしているだけで幸せだった。
 こんな関係が続くのは、あと一年か、二年か。それとも半年やそこらか。
 重ねられた手の暖かさに驚き、自分にはないたくましさに乙女のように胸をときめかせ――けれどルゥは、この幸せが長く続くとは思っていない。
「ルゥ様。どうかしたのですか?」
「え?」
「あなたはどうしてか、いつもお寂しそうだ。たくさんの人に囲まれて笑っている時もあるのに、私の前でばかりいつも寂しそうにしている」
「そんなことは――」
 ルゥは言葉に詰まった。ティーグの言葉は的を射ていたからだ。
 彼といる時間が幸せであればあるほど、その先の離別を予感させられて辛い。だがルゥの方からはそれを口にするわけにはいかない。
「……あなたが好きだからです、ティーグ様」
 突然の告白に、ティーグは目を丸くした。今、名目だけでも恋人という関係にある相手だが、それらしい行動の一つもとっているわけではない彼にとっても実感が少ないのだろう。騎士と巫覡の恋は、あくまでも職務上の忠誠と信頼の延長線上にあるような思いだと両者共に普段は感じていたのだ。
 そして多分、お互いにそれでいいのだと。

 ◆◆◆◆◆

 あの日の水面には、いつもと同じように無数の花が浮かんでいた。
 神殿の外に花畑があって、そこから摘んでくるのだ。花壇ではなく自然の花畑を利用しているが、なくなっては困るものなので庭師が時折手を入れている。
 あれはまだルゥが、正式に巫覡の地位を継いでいない修業時代の話だ。
 神の声を上手く聞くことができず、ルゥは祈祷の間にこもって一人修業に打ち込んでいた。ただ、そう言えるのは最初の頃だけで、あとからはまったく成果をあげられないふがいない自分に対しての涙に暮れる時間となった。
 そこに、聖騎士となったばかりで道を間違えて水張りの部屋に入り込んでしまったというティーグが現れたのだ。
 彼は目の前の相手が次の豊穣の巫覡だと言うことも知らず、ただ泣いている子どもがいたからという理由でルゥを慰めた。
 下町育ちの少年と、神聖な神殿の暮らしは当初まったく噛みあわなかった。神殿に仕える人間は実力で騎士になった平民聖騎士と使用人を除けばほとんどが良いところの出である貴族出身の神官と巫女たちだったので、なおさらルゥの不安を察してくれる者はいない。
 そんな時に偶然とはいえルゥのもとを訪れて慰めてくれたティーグは、ルゥにとって希望であり光であった。親友のラーラともまた違う、貴族でありながら公平で公正で、気取らない穏やかな人物。後にルゥが次代の神子と知って驚いていたようだが、それでも最初から丁寧な態度で接していた彼は手のひらを返して急に乱暴になったり仰々しくなったりはしなかった。
 彼はいつも、可愛らしい野の花を眺めるかのような穏やかな眼差しでルゥを見ていた。
 それはあの日情けなくも泣いてた子どもが今では少しでも立派になってという感慨だったのかもしれないが、ルゥはその視線に気づき、彼への感謝と愛情を忘れなかった。
 だからティーグから告白された時、ルゥの中にはそれを拒絶するという選択肢は一切なかった。
 それが後に取り返しのつかない破綻を引き起こすかもしれないと思いながらも、差し伸べられたその手を離すことができなかったのだ。