推定有罪

5.ささやかな祈り

「はぁ……」
 先日ティーグと口論したことが気にかかり、いつもの礼拝に身が入らないルゥである。
 ティーグは特に規律に厳しい聖騎士団内でも歩く規律と呼ばれるほどに生真面目な男だ。彼があのように言うということは、ルゥはほぼ確実にシャニィディルと結婚すると思われているらしい。
 実際問題ありえないのだが、十四歳の王子と十三歳の巫覡は傍目から見ればお似合いである。もっとも、ルゥが男だということを知らなければ、だが。
 ルゥ自身に自覚はないが、そうして悩んでいる時のルゥは可憐な面差しを仄かな憂いが彩り、いっそう儚げな風情になる。水張りされた神殿の中、花に埋もれた巫覡の美しさはそれだけで人の目に訴えかけるものがある。
 祈祷の間に足音が近づいてきて、ルゥは供物である花を抱えたまま振り返った。
「巫覡殿」
「クラカディル王子殿下」
 目下シャニィディルと顔を合わせる度に皮肉の応酬となる第二王子が神殿を訪れていた。この神殿は一般向けに開放された教会などとは違うが、王族の出入りに対しては融通が利く。祈祷の間は本来巫覡と神官しか足を踏み入れない場所だが、王族とその護衛だけは別だった。
 しかし今日のクラカディルは護衛も連れず、一人でこの場所を訪れていた。そうなると公的な用事ではなく、ただ私的に大地神を参拝しにきただけと見なされる。
「お参りですか? 殿下」
「ええ……巫覡殿の祈祷のお時間を邪魔したのであれば申し訳ない」
「私のはただの習慣ですから。どうぞ、ごゆっくりお祈りください」
 ルゥはどうせ毎日この部屋に籠っているのだ。わざわざ王宮からやってきた王子を無碍にすることもないと、クラカディルを置いて部屋を出ようとする。
「待って」
 しかしすれ違う瞬間、王子に手首を掴まれた。同い年だが彼の方が背が高く、ルゥは至近距離で緑の瞳に見下ろされる形になる。
「なんですか?」
「いや、その……少し、話をしたくて」
 いつも兄王子に滑らかに毒舌を紡いでいる王子とは思えない歯切れの悪い口調で、クラカディル王子は切り出した。
「先日もお尋ねしましたが、あなたは我が兄のことをどう思っているのですか? 確か噂ではハルディード伯と付き合っているという話でしたが……」
 その言葉を聞いた瞬間、ルゥはその場に崩れ落ちたくなった。そうなっただけであり実際に膝を突いたりはしなかったが、気分的にはそんな感じだった。
「私がシャニィディル王子殿下と結婚するなどということはありえません」
「では、ハルディード伯と付き合っているというのは?」
「そ、それは」
 ティーグの名を出され、ルゥは頬をカッと赤く染める。他の者たちは神殿内の規律を慮って恋愛事など口に出さないし、ラーラはあの通りの性格だ。こんな風に面と向かって問われるのは初めてで、どう返していいかわからない。
 だがその反応だけでクラカディルには十分だったらしく、彼はようやくルゥの腕を離す。
「なるほど、そちらは事実だと」
「あああ、あの」
「心配せずとも、誰にもそんなこと言いませんよ。噂であるうちはともかく、実際にあなた方がそんな関係であるとされれば、この国に波紋を呼ぶことになる」
 クラカディルの言葉に、ルゥは瞳を伏せた。
「……わかっています」
 シャニィと結婚するという冗談はあくまでも冗談で済む。だがティーグと恋仲になるということは、冗談では済まない。
 一度でも豊穣の巫覡に選ばれた者は、王族以外と婚姻の権利を持たない。大地神の加護を受けているという王族以外と交わり聖性を失えば、即座に神子の資格が喪われるからだ。
 実際に神がそこまで杓子定規に王族以外と巫覡の婚姻を見張っているわけではない。そういった「規律」を考え出すのはいつも人間だ。けれどルゥはわざわざその規律に反して、タルティアンに無用な混乱を持ち込む気もない。
 それにどうせ、ティーグが好きなのは「少女」のルゥなのだ。もう数年もして男らしくなったら、そのまま別れることになるだろう。
 いくらティーグに巫覡の神性を損なう気がなくとも、ルゥが男だと知れば幻滅して冷めていくだろう。いくら肉欲を伴わない献身的で精神的な愛情を捧ぐと言っても、異性相手と同性相手では異なる。
「わかってはおられるでしょうが、あなたが兄の傍にいるのといないのでは、兄の立場は異なります」
「聖色のことですね。シャニィ殿下はあなたのように、大地の聖色を持っていない」
「そう、だからこそ巫覡殿、兄の立場を守るためにはあなたの力が必要だ。あなたはそこにいるだけで、この国の玉座を守る力がある」
「私はそんな大層な人間ではありません」
 ルゥは豊穣の巫覡である自分のことを、虚像なのだと考える。
 誰も彼もがその役目を、地位を指して過大評価してくれるが、実際はそんなたいした人間ではないことは、自分が一番よくわかっているのだ。
 もしも聖色を持って生まれてきていたならば、シャニィディルはルゥの存在などなくても一人でクラカディルと張り合えただろう。むしろルゥが傍にいることで、彼自身の正当な実力まで貶められているような気がして、ルゥは時折複雑になる。
「私には何の力もありません。私は神子としてではなく、ただルゥという一人の人間としてシャニィ様ともティーグ様とも親しくさせていただいているだけです。その私にまだ神の加護があるというならば、それはお二人が大地神に愛されるに相応しいからでしょう」
 ルゥ自身はただの神の器だ。神の力を宿す適性があるだけで、その他のことで特に何かが優れているわけではない。
 けれどクラカディルの意見は違うようだった。
「いいえ……あなたは特別だ」
「クラカディル殿下」
「あなたは他のどんな人間とも違う」
 唐突に腕を引かれ、ルゥは抱いていた花々を取り落した。水面に浮かぶ花々と供物として祭壇に捧げる花々は混じり合い、微かな水の流れに沿って揺蕩う。
 翡翠のごとき緑の瞳が、熱心にルゥを見つめる。そこに何があるのか、ルゥは知らない。
「殿下?」
「何故ここで怯えないのです? 他の者たちは私を狂犬のように扱いますよ。けれどあなたは兄の隣で、いつも誰よりも醜い面を見せる私に、まったく動じてはいない」
 クラカディルはシャニィディルを敵視している。だから自然とルゥが見るのは、彼の険しい表情ばかりだ。
「どんな顔をしていても、あなたはあなたでしょう。表情や態度、振る舞いの一つを変えれば他者への心証は変えられるでしょうが、その本質までは変えられません。そしてあなたが見せるどんな顔も、私には恐れるに足りません」
 人の持つ顔は一つではない。ただでさえ複雑な心を持つ人間と言う生き物は、その上更に相手や立場や状況によってその顔を使いわけるのだ。ルゥがティーグの前では神聖な巫覡としての役割を演じるように。
「やはり、あなたは特別だ」
 クラカディルはルゥの腕を再び離すと、どこか寂しげに微笑んだ。
「罪を罪と知って犯す時とは、いったいどのような気持ちなのでしょう?」
「それは……何かを諦められない時ではないでしょうか」
 ルゥがティーグの前で少女だという勘違いを否定しなかったように。
「そう、ですね。諦められないから、諦めきれないから、人は罪とわかっていても、それでも手を伸ばす――」
 参考になりましたよ、とクラカディルは間接的にこの場からの暇を告げる。
「お祈りは良いのですか?」
「ええ。私の祈りはもう済みましたから」
 ここにきてからルゥと話しかしていなかった王子は、そう言って踵を返した。
「クラカディル王子……」
 ルゥは基本的にシャニィの味方だが、クラカディルのことも決して嫌いではない。兄よりも自分が王位に相応しいと思いながらその場所にいけない彼の姿を見ていると、苦いものが胸にこみあげる。
 ルゥ自身、ティーグを誰かに奪われたらと思うと嫉妬で胸が焼きつきそうになるのだ。そこは私の場所だと、大声で叫びたいような気分になる。
 けれど友人として、シャニィディルを見捨てられない。
 花々を落としてしまった水面に膝を浸して祈りを捧げる。どうかこの国の人々に、心からの平穏を。
 巫覡として、人として、ただのルゥとしてそれだけを祈った。