花は毒姫 01

2.霊薬の民の複雑な事情

 ずっと、世界を憎んでいました。

 ◆◆◆◆◆

「……よし!」
 今までどんな凶暴な魔獣狩りの前にも入れたことのないような気合いを入れ、ゼノは再び城下町へと向かう。
 昨日も馬車を出してくれて一連の経緯を知っている御者が、優しくも生温い眼差しを向けながら扉を開けた。
 乗り込んで一つ溜息つき、今日はせめて話くらいは聞いてもらおうと決意して馬車の窓から見える王都の景色を眺めながら昨日のことを思い返す。
 “霊薬の民”の体液は妙薬にして猛毒。一度その恩恵を受けた者には、二度目はない。彼らの体液に別の薬品を混ぜればその毒性を強くすることもできるため、毒使いの一族としての顔も有名。ゼノはかの民について耳にタコができる程聞かされた内容を復習する。
 しかしその毒花の一族も、シャウラが最後の一人だという。
 毒に限らずあらゆる薬を扱う薬師としての才能を持つ“霊薬の民”は、かつて王宮で国王に庇護されていた際も薬師として働いていた。その頃の薬師とはシャウラではなくその両親のことだろうが、現在ではシャウラ自身も王都の薬師として店を持っているのだと昨日街の人間に聞いた。
 昨日はたまたま死に瀕する程の重病者がいたため野次馬を目印にして偶然出会えたが、今日も同じ場所にいるはずがない。兄が予想していた通り最後の毒姫ことシャウラは王都でも有名人で、街の人間に聞けばその居所をすぐに教えてくれた。
 ゼノのような若い男にあっさりと女の一人暮らし先を教えてもいいのかと尋ねたのだが、話を聞いた街の男は呵呵と笑って理由を口にする。
「それはあの子がこれまで自分の作った毒で何人殺したか知らない奴の台詞だねぇ」
「おい、今なんか日常生活とは程遠い物騒な単語が聞こえたんだが」
 軍人や警備兵ならともかく、世間一般の街娘と人殺しという単語は無縁だろう。いくら毒姫の異名を持つとはいえ、まさか本当に毒殺経験済だとは思わなかった。
「仕方ないさ。あの子も難儀な立場だからね。悪い奴らが毒姫様の力を狙って来るたびに、自作の毒で撃退しているんだよ。あの子には刃物よりも毒の方が身近な武器なのさ」
「街の連中は、シャウラ=フルムとやらのそんな性質を認めているのか」
「ああ。十二年もこの辺に住んでりゃあねぇ。普段はよく気の利くいい娘だし、あの子が殺すのは、あの子に害をなす他国の権力者や命知らずの余所者のごろつきだけさ。街の人間はどれだけの人間があの子に助けられたか知れない。」
 聞けば、シャウラは王宮から街にやってきたこの十二年間、随分周囲に気を遣って生活してきたらしい。彼女は自らの種族としての特性を活かしながらも地道に個人としての信頼を勝ち取り、街の人間に心温かく受け入れられている。
 それを聞いて、ゼノは少しだけ複雑な気持ちになった。
 毒花の民以外の特殊な民族。その中には街中で只人と混じって暮らすことのできない者たちも多い。外見的には何ら普通の人間と変わりないのに、特殊な異能を有するが故に人とは思われない者たちが。
 そんなことを考えながら馬車に揺られ、やがてゆっくりと石畳を走る車輪の震動が止まるのを感じた。御者に声をかけられる。
「着きましたよ、坊ちゃん」
「ああ、ありが――」
 貴婦人のように昇降用の踏み台を用意させるまでもなく馬車から降りたゼノが御者にかけようとする言葉は、驚きにあんぐりと開いた口に消えていった。
 馬車を降りた彼の目の前にある、淡い緑を基調に赤と金で優雅に飾られた花屋を思わせる店舗の看板には、こう書かれている。
 “毒薬屋”
「いくらなんでも受け入れられすぎだろ!?」
 何故店名にまで「毒」をつけた?! 普通に薬屋にしておけよ!! と門はないが門前で騒いでいると、中から人が出てきた。
 誰も何もここに住んでいるのは一人しかいない。昨日一瞬だけ顔を合わせた最後の毒姫こと、シャウラ=フルムである。
「ちょっと! 人の店の前で朝っぱらから騒いでいるのは誰よ!」
 呼び出すまでもなく出てきたシャウラに、ゼノはとりあえず要望を告げてみる。
「あんたに話があるんだ。一緒に王宮に来てくれ」
「いきなり来て何の話よ! 商売の邪魔なのよ! とりあえず馬車をどけなさい!」
 ――騒がしい一日が始まる。

 ◆◆◆◆◆

 シャウラ=フルムは「最後の毒姫」と呼ばれる、“霊薬の民”の唯一の生き残りだ。
 十二年前、十二歳の時までナヴィガトリアの王宮で暮らしていたが、両親の病死を契機に街へと降りてきた。一応ナヴィガトリア国王の庇護を受けているという建前上王宮からそう離れるわけにもいかず、とりあえずは何かあった際にすぐに王宮との連絡がとれる距離に居を構えている。
 異能を持つ特殊民族であると同時に一般的な薬師の才能をも持ち合わせるシャウラは、街では「普段」、「一介の」薬師として店を開いて生活している。
 稀に医者も匙を投げるような重体の患者が現れた時には、昨日のように“霊薬の民”としての異能を求められることもあるが。
 まぁそれはともかく。
「いくらなんでも“毒薬屋”はないだろ“毒薬屋”は!」
 目の前では、先程も店の前で騒いでいた青年が喚いている。昨日も見たような顔だ。
 どうせこの男もまた、毒花の異能を求めてきたのだろう。
 店の前で騒がれるのは近所迷惑なのでとりあえず住居部分までは入れたものの、シャウラは目の前の青年に対して一切心を許してはいなかった。
「何よ、観光客にはあからさま過ぎて大好評の店名よ。それに媚薬とか三日徹夜できる滋養・強壮剤とか、うちで扱う品の印象にも合ってるって言われるし」
「何扱ってるんだあんた?! というかここは普通の薬屋じゃなかったのか!?」
「普通の薬屋だってば。……それで、だからあんたは何者なのよ」
「人に名前を聞くときは」
「昨日からもう明らかに私のことを知ってここまで来ているんでしょう? まぁ、いいわ。一応答えてあげるわよ。シャウラ=フルム。毒花の民の最後の一人よ。これでいい?」
「……ゼノ・アルラーフ=ナヴィガトリア。一応この国の王子」
 何故かむっつりとした憮然という表情でそう名乗りを上げた青年に、シャウラは思わず「嘘」と呟いていた。
 褐色の肌に短い真っ直ぐな黒髪と、深い翡翠色の瞳。異国情緒の溢れる、意志の強そうな顔立ちをした目の前の青年の姿をまじまじと眺める。
 シャウラが彼を不審者と断じたのは、彼自身から受ける印象の厳しさというものがある。恐らく十代後半、二十歳近いだろう目の前の青年にはその年頃の男子が残すあどけなさなど欠片もない。――これは守られるべき子どもではなく、戦う者の目だ。
「あなたがこの国の王子? 嘘よ。私は十二年前まで王宮で暮らしていたけれど、あなたのことなんて知らないわ。それに国王陛下と似てないじゃない」
 ゼノと名乗った青年は、この国では珍しい褐色の肌をしている。衣装は簡素で実用的な形をしており、とても王侯貴族の装束とは思えない。
「一年前に、国王の養子になったんだよ。この国に来たのがその頃だ。一応父親は陛下の従兄弟だけど、俺は顔も性格も特性も全部母親似だ。この国に来るまでは、母親の故郷がある隣国のトゥバンに住んでいた」
 ナヴィガトリアに隣接する主な国は二つ。かつて覇王を戴いて近隣の国々を侵略し、大帝国と呼ばれる一大国家を作り上げたトゥバン帝国。それから近年経済的・技術的に大成長を遂げ、大陸内でも有数の大国への道を駆け上がっているアルフィルク王国だ。
 このナヴィガトリア王国自体は、トゥバンよりも歴史が浅く、アルフィルクよりは長い。国土面積も国力も中程度の、大陸内で安定した勢力を持つ国家である。
「一年前……そう言えば、世継ぎの王子様の具合が良くなくて他から後継者を迎えるって噂があったような……。あら? でもそれなら、あなたが来て一年も経つのに何のお披露目もないっておかしいわね」
 そこで何故かゼノの顔がぎくりと強張った気がしたが、もともと彼に信用を置いていなかったシャウラとしては深い事情など知りたくもない。
 話題を誤魔化すためか本当に喉が渇いたのかは知らないが、彼は家の中に招き入れた際に差し出したお茶に疑うことなく口をつけた。どうやらシャウラ自身のことをよく知らないのは本当のことのようだ。毒花の民についてよく知っていたら、供されたお茶にやすやすと手を付けられるはずがない。
 ちなみに、ゼノに茶を出しておいてシャウラ自身の前には何もない。
「そのお茶に毒が入っているって言ったらどうする?」
「ぶっ!」
 平然と告げてやれば、面白い程に激しく噴き出して咳き込んだ。あらかじめ予測して避難していたシャウラは、零れたお茶を拭くための布を差し出しながら、顔色を変えずに再び告げる。
「嘘よ」
「あ……当たり前だろ! いきなり訪ねて来た客人を毒殺すんな!」
「招かれたならともかく、押しかけてきた人間は客人とは言わないわよ。まぁ、あなたにやましいことがないというのは本当のようね」
 ゼノがきょとんと目を丸くした。そういった表情をすると、目の前の青年は思いがけず幼げな様子に見える。
 次第に言葉の意味が脳内に浸透してきたのか、彼は布巾を返すついでに嫌そうな顔で聞いてきた。
「いつもこんな風に相手を試してんのか?」
「まさか。今回は特別よ。だってあなた、昨日から不審なんだもの」
 いくらシャウラだって毎回毎回こんな真似をしているはずがない。薬師として客を相手にするときの態度はもっと愛想良いに決まっている。当たり前の話だが、自分が不審人物扱いされている自覚がないのか、ゼノは目に見えてがっくりと肩を落とした。
「はぁ……なんで兄貴はあんたみたいな女が好きなんだ……?」
「どういうこと? 兄貴って、何の話よ」
 そこでようやくシャウラはゼノの本題を聞くことができた。
 これまでは勝手に“霊薬の民”としての異能を求めてくる連中の同類だろうと判断していたのだが、ゼノ本人の口から明らかにされたその理由は、彼女の思いも寄らないものだった。
「は? 初恋? 私のことを?」
「そう言ってたぞ。だからあんたに王宮まで来てほしいんだって。こういう言い方はしたくないが、第一王子がもう長くないって話はさすがに聞いてるだろ?」
 兄の容態を案じて、ゼノが眉を曇らせる。さすがにその表情は演技や作り物ではない。
 しかし彼の話したその「事情」は、シャウラを余計に困惑させただけだった。
「でも私、王子様と会ったことないのよ?」
「へ?」
 ゼノが翡翠の瞳を瞬かせた。
「昔王宮にいたことは確かだけれど、世継ぎの王子殿下とお会いしたことはないのよ。国王陛下や別の王族とは面識があるのだけれど……。王子殿下の名前、アルファルド殿下だったわよね? ……ええ、やっぱり、会ったことないわよ?」
「そんな馬鹿な! だって兄貴は間違いなくあんただって言ってたぜ! 王都にもう一人“霊薬の民”でシャウラって名前の薬師がいんのかよ!」
「相手が“霊薬の民”の時点で私が最後の一人なんだけど。……間違っているというのなら、その理由の方じゃないの? アルファルド殿下は私に復活の“秘蹟”求めていて、それで体よく王宮に連れてくるために初恋だなんて作り話をしたのではない?」
 “霊薬の民”であるシャウラの異能に関して、大陸中の主だった王国が協定を結んでいる。それは異能を持つ特殊民族が、特定の王家に無用に肩入れしてはならないという制約だ。
 ナヴィガトリア王が“霊薬の民”である彼女を保護するのは許されても、その恩返しという理由で、彼女が王族を復活の異能――“秘蹟”と呼ばれるそれで救うことは許されない。
 誰だって自分が死にかけた時、目の前で大切な者の命が危機に瀕している時、一度限りの奇跡とはいえ復活の“秘蹟”を望むものだ。
 だからこそ、王族がその恩恵を望むことは協定で禁止されている。それはシャウラを保護しているナヴィガトリアですら例外ではない。むしろ、ナヴィガトリアこそがこの協定を遵守すべきと目されている。
 この協定が崩されれば、最悪トゥバンやアルフィルクなどといった近隣数ヵ国を巻き込んでの戦争が起きる可能性すらある。
 しかしその制約の内容は、シャウラが個人的な意志で同じように個人である相手に対し力を貸すことまでは制限していなかった。だから第一王子はそれを知って、シャウラを呼び寄せる理由づくりに初恋という言葉を使ったのではないかと彼女は推測する。
 逆に言えばそうとでも考えない限り、彼女には面識もないこの国の第一王子に慕われる理由など思い当たらなかった。
「そんな……そんなはずは……」
 ゼノが下を向いて何事か考える様子になる。兄と話をした時の光景を思い返しているのだろう。
 しばらくして顔を上げた彼は、きっぱりとした顔で断言した。
「――いいや、それはない。兄貴は嘘なんかつかない。あの人は終始おちゃらけて人をからかっているような節が時々あるけど、少なくともこんなことでそんな嘘をついたりするような奴じゃねぇよ」
 自分の命がかかった場面でさえ、初恋という聞こえの良い言葉で毒姫と義理の弟を動かそうとするような人物ではないと。
「そう……なら、私が忘れているだけなのかしら。正式に顔を合わせたことはなくても、姿を見て一言二言言葉を交わしたことくらいはあったのかもしれないわね」
「信じてくれるのか?!」
 顔を輝かせるゼノに、シャウラはしっかりと釘を刺した。
「だからと言って、王宮に行くのに納得したわけじゃないわよ」
「なんだよ。なんで駄目なんだよ」
「さっき説明したじゃない。私は特定の王族に肩入れできないよう決められているのよ」
「別に兄貴はあんたに異能を使えなんて言ってなかったぞ」
「本人はね。でも、だからって周囲がそれを許すと思うの?」
 ゼノが押し黙った。この青年は些か直情径行ではあるが、どうやら頭は悪くないようだ。
 そう、シャウラが現在死に瀕しているという第一王子と顔を合わせれば、例え本人が口に出さずともその周囲の人間は延命を願って“秘蹟”を行うよう頼み込むだろう。 
 それがわかっていて王宮になど行けるはずがない。
 第一王子の寿命を悪戯に延ばすことは、この国の混乱を大きくする。一つは目の前にいるゼノの存在、わざわざ国を継承するために王の養子となった第二王子。
 そして王子ではなくても、唯一の直系男子が病弱であったがために、次期国王の座に近いと言われる人物は他にもいるのだ。
 シャウラ個人としては、救える人間は全て救いたい。例え顔も思い出せない相手であろうと、かつての知り合いが死に瀕していると言われて積極的に見殺しにしたい理由などあるものか。
 けれど誰彼かまわずそれをすれば、各国が“霊薬の民”だけではない特殊民族に関しても定めた規定や制約が軽くなる。それは彼女だけではなく多くの人間を不幸にする。
 シャウラは自分自身のためにも、彼女の幸せを願い続けた亡き両親や同じような特殊民族のためにも、軽はずみな行動は慎まなければならない。
「それに私の力は万能ではないわ。霊薬の効能は、その人の肉体を通常時の状態に戻すだけ。怪我人や病人を治すことはできても、もとから病弱に生まれついた人間を普通の人と同じくらいまで健康にできるわけじゃないの。――だから、第一王子殿下にこの力を使っても、彼本来の寿命が残っていなければ……」
「――そうか」
 ゼノはその答に大きく落胆するわけでもなく、ただ静かに受け入れた。
 その様子にシャウラは、彼が義兄の死という避けがたい事態について、何度も何度も心から真剣に考えてきたことが窺えた。
 “霊薬の民”の能力は復活の奇跡などと呼ばれるが、そう都合のよいものではない。
 あくまで彼らの体液が毒や薬になるということは、かつてこの世に存在した魔法という力で何もかもが思い通りになることとは違う。
 昔、特殊民族に対する理解が浅かった頃の誤解と偏見のように、彼女たちが他者を不老不死にできるわけでもない。
 先日、口付けで“秘蹟”を与えた仕立て屋の夫人のことを思い返す。
 夫人は人よりも若干病弱な体質だったが、無理をせず大病にもかからなければ十分人並の生活を送れる様子だった。だからシャウラは躊躇いなく“秘蹟”を授けることができた。そのような場合であれば、この先何事もなければ人として十分な寿命なまっとうできるだろう。
 けれど。
 その昔、人生で初めて力を使った日のことを思い返す。
 その時の相手は、病弱な子どもだった。父親が王宮で開いていた施療院に通う子どもの一人。病弱な少年。
 一時的に危なかった容態を“秘蹟”を授けることで持ち直させることはできたが、シャウラが彼にできたのはそこまでだった。
 “霊薬の民”は神ではない。運命は変えられない。
 少年は一度峠を越えても決して完治することはない体質を抱えながら、その後も生きて行かなければならなかった。
 彼が今どうしているのか、あの後王城を離れてしまったシャウラは知らないが……。
 その時、外が不意に騒がしくなった。
 店の奥の住居部分にいると言うのに、ざわめく人々の声と悲鳴や怒号が聞こえてくる。その中に自分の名を呼ぶ声を聞きとった気がして、シャウラは椅子から立ち上がった。
「何かしら」
「シャウラちゃん!」
ゼノを中で待たせたまま表に出たシャウラを、隣人が呼ぶ。顔見知りの警備兵の一人も近くにいた。
「大変だ! 魔獣が出たよ!」

 ◆◆◆◆◆

 魔獣とは、永い間、ある日突然空から降ってきた無数の黒い星の欠片が魔力を持つ獣の姿となって人を襲うものと認識されていた。
 もう少し時代が進むと、一部の勇気ある人々の調査と研究により、それはかつて千々に引き裂かれた邪神の欠片を宿した獣が変異し人を襲うようになったのだと判明した。
 邪神を引き裂いたのは“創造の魔術師”と呼ばれる存在。神話上の神々に反逆し、世界を創造した女神からその名を奪ったとされる人類最強の魔術師だ。
 如何なる理由かは伝わっていないが彼はやがて邪神とも敵対し、戦った。“創造の魔術師”は地に無数に放たれた魔獣を駆逐するため、その創造の力によって人よりも優れた身体や特別な能力を持つ民族をいくつか創り出したという。
 それが、今で言う特殊民族。
 シャウラの“霊薬の民”のような一族のことである。
 魔獣が出たと聞いたシャウラは、馬を駆りすぐに現場に駆け付けた。
 ナヴィガトリアの王都アルルカは、その三方を城壁に囲まれている。後の一面――北方は王城とその関連施設、兵士たちの練兵場や宿舎が置かれているので、王都の警備において重要なのは東西南の実質三方だった。
 城を起点に街を歪な楕円形に囲むように建てられた城壁だが、その三方にそれぞれ出入り用の門がある。今回魔獣が襲撃を仕掛けてきたのは、南門だという。
 南門のすぐ手前がエニフの丘と呼ばれる小高い丘であり、その裾野にはアルバリの森が広がっている。門の見張りをしていた王都警備の兵士たちの話によると、魔獣はアルバリの森から突如として現れたらしい。
 シャウラが駆け付けた時、エニフの丘の裾野部分から街中に入ろうとする魔獣たちと、警備隊が睨み合っていた。警備の兵士たちは魔獣の嫌う香りを放つ薬品を身に着けて前に出ることで魔獣たちを威嚇しているため、まだ街中に入り込まれた様子や怪我人が出た様子もない。
 ――それは狼に似た魔獣だった。
 しかし闇を凝らせたような黒い毛皮は、自然界のものではない。
 爛々と輝く紅い瞳で人々を睨み付け、獲物を物色するように狼はぐるぐると唸りを上げながら跳びまわる。
 警備兵の背後の街の人々は恐怖に固まり、逃げ出すことさえも忘れている。
 兵の数よりも逃げ遅れた人々の数が多く、現場は膠着状態に陥っていた。倒れた人々を助け起こそうと兵士たちの誰かが動けば、たまたまできあがった均衡が崩れて他の人間が襲われるかもしれない。
 一匹の魔獣が忌々しい匂いを放つ警備兵の隙間を縫って倒れた街人に飛び掛かろうとしたところで、急に何かに驚いたように跳び上がった。
「は!」
 魔獣のその行動に、兵士たちはある人物の到着を知って顔に歓喜を浮かべた。
「今すぐこの場所から離れて!」
 凛とした声で言い放った“毒薬屋”の女店主の姿を見て、青ざめた街の人々にも生気が戻る。
 シャウラが指の間に挟んだ瓶は、無色透明で人間にはわからないが獣型の魔獣が嫌う独特の臭いを空気に流す。兵士たちが纏っている香りの原液だ。この薬を作って彼らに与えたのがシャウラ自身である。
 香りを嫌って後退した魔獣を仕留めるために、シャウラは街の人々を下がらせた。
「フルム殿!」
 王都では今年に入って何度もこのような事態が起きている。原因はわからないが、放っておくわけにもいかない。
 シャウラは以前から、少しでも被害者を減らすために、自ら王都警備隊の詰所に赴いて協力を申し出ていた。
 香りで魔獣を一時的に遠ざけることができても、その効果が永続するわけではない。被害をなくす方法はただ一つだけ。――魔獣を倒すしかない。
 もともと特殊民族は魔獣に対抗するために造られた。シャウラも自らが精製した毒を使い、何度も魔獣の駆除を行ってきた。
 否、わざわざ即死級の毒にまで精製しなくても、シャウラ一人ならどんな強靭な魔獣相手でもなんとかなる。彼女の体液が二度触れたものは確実な死を迎えるのだから。
 その力を上手く使い、これまでシャウラは警備隊の協力を得ながらもほとんど一人で魔獣たちと戦ってきた。
 いざ――と身構えた瞬間、馬車の音が止まったかと思えば呑気な声が聞こえる。
「なんだなんだ? 門の警備、突破されちまったのか?」
「ゼノ殿下!」
 警備兵が叫ぶのとほぼ同時に、シャウラの後を追って来たらしいゼノが、馬車からひょっこりと顔を出す。単騎で駆けてきたシャウラと違い、城下に降りた時と同じ馬車に乗ってきたゼノは彼女より少し遅れて到着した。
 そんな彼にシャウラは怒鳴る。
「ちょっと! 何で来たのよ! 危ないじゃない!」
「あんたが言える台詞じゃないと思うんだが……。何やってるんだよ。他の奴らと同じように避難しないのか?」
「私は毒花の一族よ、魔獣が人を襲うのを見過ごすわけにはいかないわ」
「それって警備隊の仕事、もしくは俺の仕事じゃないか?」
 そう言うとゼノは、シャウラの張った毒香の結界の危うい均衡をものともせずに魔獣たちの集う中心地へと飛び込んだ。
「ゼノ殿下!」
 誰かがその名を呼ぶのを聞きながら、シャウラは目を瞠った。
(え?)
 ゼノが見せた跳躍力。彼女の隣に立っていたはずなのに、その肩を軽々と飛び越すしなやかな身のこなし。
 それはただの人間のものではない。
 ゼノは丸腰だった。身体のどこかに武器を隠し持っているわけではないらしく、素手で魔獣に飛び掛かる。
「ちょっ……!」
 人間相手の喧嘩とは訳が違うのだ。特に大柄で筋肉自慢の男でもない、背こそ高いがどこか少年らしさを残すゼノが無謀にも素手で魔獣の群れに突っ込んだことにシャウラは我が目を疑った。
 しかしもっと彼女を驚かせたのは、その次の瞬間だ。
 魔獣と呼ばれるだけあって通常の獣とは比べ物にならない遥かに強靭な肉体を持つ魔獣の体を、ゼノの腕が布に槍でも刺すかのようにやすやすと貫いていく。背後から飛び掛かってきたもう一頭の首を蹴りの一撃で折り、下からやってきたものはそのまま頭部を地面に石畳が割れる程叩き付ける。
「な……!」
 魔獣の強靭な肉体は、ただの人間が闇雲に刃物を振り回しただけでは傷をつけることはできない。
 まったく対抗できないわけではなく、真に武の達人である人間がしっかりと急所を捕らえて攻撃すれば刃は通るらしい。王都警備の責任者であるサダルメリク公爵の戦い方がそうだ。
 だが常日頃から鍛錬を欠かさない兵士たちが王宮支給の剣で必死に切り裂こうとしても、それだけではなかなか傷を負わせることができないのが魔獣に関する実情だ。
 その、天然の革鎧でも着込んでいるかのような魔獣の体を、ゼノの手刀は当然のように貫いたのだ。
 非常識だ。あまりに非常識すぎる。
 だがその非常識さ加減に、残念ながらシャウラは我が身をもって馴染みがあった。
 ――その牙に貫けぬものなし。いかような悪意もその鋼の身を損なうことあたわず。かの咆哮は支配者の声、その羽ばたきは死の嵐――
 そうした存在が在ることを、シャウラは知っていた。
 ゼノが最後の魔獣の心臓を、素手で貫き捻り潰す。素早く飛び掛かってくる獣の動きを捕らえるだけでも尋常ではないのに、素手で正確に心臓を狙うなど人間には不可能だ。
 だが、ゼノは息をするようにやすやすとそれを行う。
「まさか……“鋼竜の民”?!」
 それは特殊民族の中でも最強の身体能力を誇る、戦闘系の部族の名。
 魔獣の青い血に濡れてその屍の中心に立つゼノには、全ての特殊民族の長たる一族の風格があった。

 ◆◆◆◆◆

 王城の一角に存在する執務室の一つで、二人の男が山のような書類を前に話し合っていた。
 一人は机の上に書類を広げて書き物をこなし、もう一人はその傍らで秘書のように補佐をする。
「城下に魔獣が出現したそうですよ」
「またか。今年に入って何度目だ? サダルメリク公爵が警備体制を変えたわけでもないだろうに、一体何があると言うんだ?」
 ナヴィガトリア貴族らしい金髪碧眼に白い肌。端正な面差しの貴公子が、側近の報告に苛立たしげな舌打ちを返す。
「それから、一つ閣下のお耳に入れておきたいことがありまして」
「なんだ?」
「はい、ゼノ殿下のことなんですが」
 そうして最近第二王子がいかなる理由か、城下で一人の女性のもとを訪れていると聞き、青年貴族は唇を噛みしめた。
「ゼノがシャウラに……? 何故だ……?」
 彼の名はレグルス=ユミル=ナヴィガトリア。
 体の弱い第一王子アルファルドに代わりこの国を継ぐとこの十二年間誰からもそう思われてきた、王弟の子息である。
「理由はわかりませんが、どうやらアルファルド殿下が関係あるようです」
「アルファルドが? あいつとシャウラに面識などあっただろうか……?」
 口元に指を当てて考え込みながら、レグルスは返事を待つ部下に指示を与える。
「ゼノの動向と城下への訪問理由については、引き続き調査を続けろ。ただし『最後の毒姫』、シャウラの身に危険が及ぶような事態を見過ごすことは許さない。わかっているな、タラゼド」
「はい、レグルス様」