花は毒姫 01

3.望まれぬ王は鋼の竜

 なぜ自分をこのような生き物に造ったのかと、神を呪いました。

 ◆◆◆◆◆

 もともとの見張りの兵士に加え応援も駆けつけた王都警備隊に後を任せ、シャウラはゼノと共に店の方へ戻ってきた。
 素手で魔獣の体を突き刺すなどするから、ゼノは返り血でべったりだった。シャウラのために特別に気を遣った水場のある“毒薬屋”の設備を使って、その血を洗い流させる。
 彼が着る物に拘りがないのは幸いだ。警備隊の一人にちゃっかりと着替えを借りたゼノは、平然と話の続きを要求したからだ。警備兵たちは第二王子には自分たちの上官であるサダルメリク公爵のもとへ行ってもらいたかったようだが、自分の立場に無頓着なゼノはあっさりとそれを断った。
 ゼノの立場とは、彼の種族としての強靭さを見込まれて王子として就かされた役職、魔獣討伐隊の隊長だ。
 たとえば王都警備隊は王都に侵入してきた魔獣とも戦うが、彼らの本来の役目はその名の示す通り、王都の警備である。魔獣の相手ばかりするのではなく、王都の治安を乱す者を取り締まるのが正式な業務だ。
 討伐隊は違う。彼らは国内で大規模な魔獣の出現があると即座に現地に赴いて魔獣を討伐する戦闘の専門家で構成されている。
 一年前からその隊長を任されているのが、国王の養子であり第二王子となったゼノ・アルアラーフ=ナヴィガトリアだった。隊長として執り行うべき数々の細やかな役割や書類仕事に関しては部下に任せきりの名ばかりの隊長らしいが、ひとたび実戦となると、誰も彼を無能とは思わない。
 戦闘能力というただ一点において追随を許さない強さを持つゼノが来てから、討伐隊の挙げる成果と隊員の生還率が激増したという。
 そしてその強さは、人間のような鍛錬の成果というよりはゼノ自身の持つ血に起因する。
“鋼竜の民(ラス・アルグル)”。それは“霊薬の民(イクシール)”と同じく人であって人ではない特殊民族。頑強な肉体と高い身体能力を持ち、戦闘に特化した種族。
 そして、彼らは――。
「そうだ。俺は鋼竜。“鋼竜の民(ラス・アルグル)”の母と、この国の王の従兄弟である父の間に生まれた」
 異種族、特殊民族でありながら王の血縁。それが何を指すのか。
 硬い表情で頷くゼノを見て、シャウラはこの一年忘れていた、「王の養子」にまつわる噂を思い出していた。
 王宮にまつわる話は彼女自身の記憶と重なって様々なことを思い出させる。だから積極的に思い出さないよう、自分自身で鍵をかける――とまでは行かないが、そう簡単に浮かび上がらないよう重石をつけて沈めたような気分になっていた情報だ。沈めすぎてゼノの情報を一切合財忘れていたのは不覚だったが。
「あなたの母親が“鋼竜の民”。では、あなたは――」
「そうだ。俺にはずっと母親がいない。俺が生まれる時に殺してしまったから」
 ゼノが感情の抜け落ちた声でぽつりと言った。
彼らは戦闘に特化した存在だ。“霊薬の民”がその体液に毒性を持ちながら、一度だけなら“秘蹟”と呼ばれる復活の奇跡を行えるように、“鋼竜の民”にも他の一族にはない特性があった。
 “鋼竜の民”はその親の力を継いで生まれて来る。彼らは母体にいる間に、母親の生気を自らに吸収するという。鋼竜はもともと人間より遥かに高い能力を持つ上に母親と自分、二人分の力を継いで生まれて来る。だから――彼らは恐ろしく、強い。
 しかしそれ故に、“鋼竜の民”の血を持つ子どもの母体はその出産に耐えきれない。鋼竜の血が胎児として育つ間に母体の力を食い尽くすので、母親が“鋼竜の民”であろうが他民族であろうが、その母体となった人物は子どもを産み落とす際に確実に死ぬ。
 生まれて来る子どもが鋼竜の血を引くのであれば、それが父母どちらの血であるかには関わらず、力を奪い尽くされる母体が死ぬのだ。
 鋼竜の民の特性から言えば、彼らは同族同士で子を成すよりも、他種族――多くは普通の人間との間に子を作る方が効率が良い。“鋼竜の民”の女が子を身籠る場合、その子はもともと優れた能力を持つ鋼竜の母の力を喰らうために強大な力を持って生まれて来るが、逆に言えばそのために鋼竜の血を持つ母親自身は死ぬ。
 だが父親が“鋼竜の民”で母親が他民族である場合は、母親は死ぬが父親は生き残る。自らの胎で子を育むことのない男だからこそ、“鋼竜の民”が父親であれば何人もの女に自らの子を産ませることによって鋼竜という民族を増やすこととなるのだ。
 しかし実際の社会での現状を言えば“鋼竜の民”の数はいまだに少ない。
 不老不死の馬鹿げた噂を信じた人間に狩られてその数を減らした“霊薬の民”とは違い、“鋼竜の民”は自ら奥地に引きこもり人類との積極的な交流を断った。
 彼らの子を身籠る他民族の女性は必ず死ぬのだ。それがわかっていて、どうして人の社会に交じれよう。彼らはいずれ一族が滅ぶ可能性を知りながら、彼らの一族だけで細々と生活することを選んだ。
 だが稀に、世間と関わることを選ぶ“鋼竜の民”もいるという。ゼノの母親はその類なのだろう。
 母親。母親だ。父親ではなく。
 鋼竜は男よりも女の方が集落の外に出てくる可能性が高い。
 好奇心の強さは一緒でも、その先の覚悟が違うからだ。もしも外界で誰かを好きになった場合、男だったら自らの血のために愛した女を殺してしまう可能性が高い。だが、女が懸けるものは自分の命。だからこそ女の方が外界で恋をし、その相手との間に子を成すことに躊躇いがないのだという。
 ゼノの母親はそうして、ナヴィガトリア王の従兄弟であるクルシス公爵との間にゼノを産んだ。
 特殊民族は本来外界の権力に関わることはない。ゼノの両親はまったくの偶然として出会い、恋に落ちた。
 クルシス公爵は一度王権から遠ざけられていたはずだが、王の実子であるアルファルド王子が病弱であったことで事情が変わったのだろう。
 ただの人間よりも高い身体能力を持つ“鋼竜の民”の血を引くゼノ。病弱なんて言葉は彼とは無縁だ。だから第一王子の代わりとなるべく王宮に連れて来られ王の養子となった。
 それらの事情を、シャウラは一気に沈めた記憶の中から引きだした。
 今度王の養子となったのは特殊民族の血を引く少年。思い出した今となっては、どうしてこんな大事なことを忘れていたのかと思うような重要な情報だ。
 が――。
「と、いうわけで俺と王宮に来て兄に会ってくれ」
「何が『というわけで』なのよ!」
 戦いで喉が渇いたのだろう、一気に飲み干した花茶のカップを置くと、ゼノは何も気にした様子を見せずにそう言った。
「同族の誼!」
「同族というか確かに特殊民族というくくりだけど……話の脈絡ってものはないの?」
「あれ? おかしいな。確かこの国に特殊民族は“鋼竜の民”の俺と“霊薬の民”のあんたしか残ってないっていうから、それで気を引けるかもって話だったのに」
「……それ、第一王子の言葉?」
「ああ。兄貴が言ってた」
「クソガキの発想じゃない。――ああ、でも、確かに王宮時代の知り合いで王子と同じ年頃で気づかないうちに知り合った可能性があると言えば、私の周りにはクソガキしかいなかったわけだけど」
「ん?」
「父親が名目上薬師兼医師として働いていたの。王宮内で施療院を開いて、難病を持つ子どもたちの治療をしていたわ。第一王子殿下の年頃の人間と私が知り合う可能性と言えば、その施療院関係しかありえない。下働きの知り合いだと、もう少し年齢が上になるもの」
 ナヴィガトリア第一王子アルファルドは、今年で二十歳になるはずだ。シャウラの四つ年下である。
 シャウラが王宮にいたのは十二年前。その頃の第一王子は八歳。さすがにそこまで幼い子どもを王宮が下働きとして働かせたりはしない。シャウラ自身は父親の施療院を手伝っていたが、それは彼女だからこその特例だ。
 ゼノの方の事情を思い出してすっきりしたのとは裏腹に、シャウラはやはり第一王子と王宮で出会ったという記憶がない。
 だがゼノの話しぶりによれば王太子殿下は彼女のことを知っているということなのだから、やはりどこかでは出会っているのだろう。恐らく公式の場ではなく、向こうが自身の名も身分も隠していたに違いない。
「金髪に青い瞳……ってここの貴族に多いじゃない。施療院の子ども関係だとしたら、本当に数が絞りきれないわ。私自身も子どもの頃の記憶だから曖昧だし」
「なんでだよ。みんな入院してたんだろ? じゃあそこの患者じゃない兄貴はいつも自分の部屋に帰ってたわけで」
「公共施設と同じに考えない方がいいわよ。生憎と王宮内の貴族のための施設だから、入院じゃなくて通院がほとんどだったの」
「だからって普通名前を聞けばわかるんじゃ……」
「最初に言ったでしょ。私、王子様に会った記憶なんてないわよって」
 ゼノが頭を抱える。
「……兄貴、何やってたんだ。そしてあの人は本当にあんたを王宮に連れてくる気があるのか」
「私じゃなくて本人に聞きなさいよ。あなたはいつだって好きに会えるんだから」
「いつだってたって、もう時間が――」
 自らで口にした言葉に、ゼノはハッとしたように口を塞いだ。
 翡翠の瞳が暗く沈む。第一王子の容態は、余程悪いらしい。
「……私は、行けないわよ」
 縋る眼差しを振り切るように、シャウラは繰り返す。
「王宮に行けば必ず面倒なことになるもの。王子を救うことを求められれば国家自体がトゥバンやアルフィルクらの近隣諸国と一悶着。王子を救わなければ、私自身が色々と言われるでしょうね。悪ければ毒殺犯扱い」
「そんなことには俺がさせねーよ!」
「その言葉はありがたいけど、実際、あなたにそれだけの権力があるの? ここ一年結局あなたの噂が城下に流れて来なかったのって、あまりにあなたが王子らしくないから王宮側が隠していたのでしょう?」
「……」
 ゼノが押し黙る。図星らしい。
「残念ながら、今のあなたが提示できる情報だけでは、私には王宮に行くだけの決意も覚悟も固められないわ」
 本当に知り合いかどうかもわからない第一王子殿下の初恋の人という条件だけでは、シャウラは王宮には行けない。
 他の誰かではなく、彼女自身が自分を動かすに足るだけの納得を得られない。
 そう言って断る彼女に、ゼノが言った。
「思い出せたら、いいんだな?」
「え?」
「兄貴があんたのことを好きだったって、それをあんたが信じるには、兄貴が施療院の誰だったかを、あんたが思い出せればいいんだろう」
「……ええ」
「だったら俺が、それを探す。兄貴のことをあんたに思い出させる! それなら王宮に来てくれるだろ?! 嫌とは言わせない」
「――ええ。そうね。あなたにそれができるのであれば、行ってもいいわ。せめて顔見知りであることくらいでも証明できれば、まったく知らない人間よりも初恋話に説得力が生まれるからね」
「じゃあ俺が証明してやるよ! 例え兄貴が偽名を使ってようが、他の奴らは違うだろ! 過去の施療院の名簿を片っ端からあたって、何がなんでも兄貴のことをあんたに思い出させてみせる!」
 ゼノはシャウラにびしりと指を突きつけた。確かにその方法ならば、消去法ではあるが偽名で施療院に通っていた第一王子を見つけ出すことができるかもしれない。
 だが、シャウラは不思議な想いでゼノを見つめる。
「何故、第一王子のためにあなたはそんなに必死になるの? あなたは国王の養子、第一王子は義理の兄であって、実の兄弟ではないでしょう? それに名目上とはいえ、あなたとは王位を巡る敵でもある。確かにあなたが玉座を望んでいるとは思えないけれど、でも――」
「……あんたが言ったんだろ? 特殊民族は普通の人間とは違うって」
 褐色の肌。緑なす黒髪。鮮やかなほどに明らかな異国の容姿を持つ青年は告げる。
「でも兄貴だけは、俺を普通の人間扱いしてくれた。権力を巡って敵味方だらけの王宮でどちらの陣営も俺の扱いを決めかねて腫物扱いの中、兄貴だけが俺をただの弟として見てくれたんだ」
 “鋼竜の民”はその高すぎる身体能力故に只人の生活に当たり前のように溶け込むことは難しい。おまけにゼノは野生児を絵に描いたような人間で、彼の父親は“鋼竜の民”ではないので特殊民族の育て方など知らなかった。
 そんな中、ただ一人アルファルドだけが、ゼノを本当の弟のように受け入れたという。仮にも自分の代わりに王の後を継ぐ王子様を一人城下に寄越した第一王子はゼノの強さも知っていて、その“鋼竜の民”としての特性の全てを否定せずに受け入れて信頼したに違いない。
「だから俺は、あの人の願いをできる限り叶えてやりたい」
「その割には、私を無理矢理王宮に連れていこうとはしないのね」
「そんなことしたら自分が嫌われるから駄目って兄貴に言われた。兄貴はあくまでもあんたが好きだから、穏便に納得して来てもらえと」
「……それでも手段として聞くことは聞いたのね。そこはやっぱり“鋼竜の民”らしいわね……」
 第一王子が言っているのは極当たり前のことなのだが、そこを理解できないというのが只人の感覚とは違う“鋼竜の民”らしい。
「だから俺は、拉致や強奪じゃない穏便な方法で、絶対あんたを王宮に連れて行ってみせる! いいか! 覚悟しとけよ!」
 誠実なのか悪役なのかよくわからない捨て台詞を吐いて、ゼノは本日のところは王宮に戻った。
 まるで嵐が過ぎ去った後のような静かな家に一人残され、シャウラはそっと呟いた。
「……でも、父さんが王宮で見ていた患者の名簿なんてあるわけないんだけどね」
 “霊薬の民”に関わることは基本、口外無用。その是非を問うべき毒花の薬師本人が亡くなった後、国王陛下はその資料の全てを焼いてしまったというのだから。
 あまり期待しないでいよう、と思いながら彼女は空になったカップを片づけるために席を立った。

 ◆◆◆◆◆

「って本当にねぇのかよ!」
 啖呵を切ってシャウラの家を後にしたはいいものの、名簿を見つけられないどころかそんなものはないと教えられたゼノは悪態をついた。
「というか兄貴、そもそもあんたが自分の名乗っていた偽名をあの女に教えれば一発じゃないのか?」
「うん。そうだね。断る」
「前二つと最後の返答の差はなんだ。前後が結びついてないんだけど?!」
 本日の報告として再び兄の部屋を訪れたゼノは、笑顔の兄に爽やかに理不尽な要求を突き付けられる。
「ゼノ、君にはまだわからないかもしれない。だがこれは、私の男としての矜持の問題なんだ」
「きょうじ?」
「ああ。――初恋の相手に忘れられていた。君はさらりとそう言ってくれたが、人生においてこれほど悔しいことが他にあると思うのかい? いや、ない。そこで忘れていたなら教えますじゃ、男としての意地が廃るだろう。――いや、私のことを忘れるなんてありえない。私たちは顔見知り程度なんて仲じゃなかった。あなたも本当は私のことが好きだったはずだ。その事実からあなたは目を逸らしているだけだ、それを思い出せ――と、いうことを私は言いたいので、私の代わりにシャウラ姉さんにお伝えください」
「あんたが健康体だったら言いたいことを、今回ばかりは思いの限り言わせてもらっていいか? 自分で行けよ! 自分で言えよ! そういうことは! 俺を伝令にしてどうすんだよ?!」
「だから自分で言うためには、まず姉さんにここまで来てもらう必要があるじゃないか」
「ぐわぁあああああ!!」
 見事に一周した話題にゼノは言葉にならない想いを雄叫びに託す。あまりの騒ぎように、扉の外で待機していた護衛が驚いて飛び込んでくる始末だ。
 なんでもないと笑ってそれを追い返したアルファルドは事もなげに告げる。
「大丈夫だよ、ゼノ。君はやればできる子だから」
「くっ! 今までこの王宮のどこの誰から言われたおべっかより薄っぺらい!」
「まぁ冗談はともかくとして、そうするとまずは施療院関係の貴族探しだよね。私もほとんど覚えてないからなぁ。姉さん以外だいたいどうでもよかったし」
「なんか最近のあんたを見てるとシャウラが昔の知り合いにクソガキしかいないって言ってたことを実感できる気がする。貴族探しの消去法も確かに手段の一つではあるが、それより確実なのはあんたと他の連中の差異をシャウラに認識させることだろう。別にあいつはあんたの存在そのものを忘れたんじゃなくてあんたが顔見知りの中の誰だったかを思い出せないってだけなんだから。なんかこう、兄貴の特別な話とかないのか?」
「ごめん、まったくない。あの頃の私は一言で言うなら単なるクソガキだ」
「ド畜生!」

 ◆◆◆◆◆

 第一王子殿下の無駄な意地と矜持によって始まる前から難航している初恋の人探しならぬ初恋の人説得。仕方がないので、ゼノは城で地道な聞き込みを始めることにした。
 まず身近な侍女や従僕に十二年前のアルファルドの身辺のことを聞く→施療院関係のことを聞く→シャウラのフルム一家に関して聞く→その頃施療院に通っていた貴族患者のことを聞く→すいませんよくわかりません、あ、でも施療院に関わっていた人たちなら知っているんじゃないですか→王室付き医師に話を聞く。
 ここまで来て、王室付き医師とは他の王族(現国王やゼノ自身)が健康な現在、つまりアルファルド個人の主治医みたいなものなのだから最初からこっちに話を聞けば良かったのでは? という考えがゼノの頭を過った。
 が、どうしようもなかったのでそこまでの労力は考えなかったことにしてゼノはとりあえず王宮付き医師に話を聞く。
「フルムのことですか? ええ。まぁ同業者みたいなものですからそれなりに」
「施療院の患者のことに関しても知ってるか?」
「昔から病弱で有名だったり大病をしたという話が広がっていた方に関しては何人か。ですが名簿自体は処分されてしまっていますし、やはり全員とは行きませんね。あとはやはり施療院関係の記憶が深いのは、通院していたり入院していた患者本人たちでしょう。何人か知っている方をお教えしますから、そこからまた他の患者について聞いてみては?」
「結局それしか方法がないか……」
 シャウラに啖呵を切った手前早々に音を上げるわけにはいかないが、あまりにも地道な作業にだんだん疲れはじめてきたゼノが溜息をつく。
 その様子を見て、王宮付き医師はふいに頬を緩めた。
「ゼノ殿下、なんだか最近面白いことになっているようじゃありませんか?」
「面白い? 俺が?」
「城中の人間に貴賤を問わず、面識もないのにやたらめったら聞き込みをしているって噂ですよ。なんのことかと思ったら、そうですか。シャウラ嬢に関して調べていたんですね」
 ゼノはもともと“鋼竜の民”の血を引く王子として遠巻きにされていた。城内でもいろいろと問題を起こして専属の傍仕えの侍女や護衛もいなくなった現在、ほとんど城の者たちとの交流などないに等しい。
 それがここ数日、なんだかやけに人々と話をしているようだと噂になっているらしい。
 目の前のこの医師だって、こんな機会でもなければゼノが話をしたこともなかった人間の一人だ。鋼というだけあって頑健な肉体を持つので、ほとんど怪我をしなければ、病とも無縁である。
「だって兄貴が……」
「アルファルド殿下が?」
 肉体的にはともかく精神的な疲労が溜まっていたゼノは、思わずこれまでの経緯についてぽろりともらしてしまう。医師はゼノの話を聞いて目を丸くした。
「なるほど、そういうことだったのですか。アルファルド殿下がシャウラ嬢をねぇ……。それはさすがに初耳です。他には誰も知らないことでしょう」
「兄貴は特に隠す様子もなかったんだけど」
「こう言ってはなんですが、所詮実らぬ恋ですからね。おっと、アルファルド殿下の体質とか、そういう話ではございませんよ?」
 アルファルドは現在死に瀕している。それを本人と同じくらいに理解しているのは、他でもない彼の主治医であるこの医師だ。だがそういうことではないと彼は言う。
「シャウラが毒姫だからってのか?」
「そういうことです。それも最後の。そうでなければあの方も……」
「あの方?」
 医師は何も知らないと見えるゼノの反応に己の目を瞬き、あー、と気まずそうに頭を掻いた。
「やぁ、そろそろアルファルド殿下の診察の時間だ。ゼノ殿下、すみませんが私はこれで」
「ちょっと待て! 今明らかに何かを誤魔化しただろ! あの方って誰だよ!」
「さて、では先を急ぎますので失礼」
「こらー!」
 すたこらと逃げていく医師を追いかけるわけにも行かず、ゼノは追い出された診察室の扉の前で地団駄を踏んだ。
 どうしてどいつもこいつも、そこさえ話せば問題に片が付くだろうという核心を黙っているのだ。それに振り回されるこちらの身にもなれ。
「騒がしいぞ。診察室の前で何を――ゼノ?」
 聞き覚えのある声に名を呼ばれ、ゼノは嫌々ながら振り返った。
「げっ」
「それはこちらの台詞だ。怪我も病気も無縁の殺しても死ななそうなお前が、王宮医師の診察室に何の用だ」
 今はナヴィガトリアの王子となったゼノを敬称もなしに呼び捨て、対等に話をできる数少ない人物のうちの一人。それはかつてはアルファルドと、今はゼノと王位を争う最大の強敵である王族の青年だ。
「レグルス! あんたこそどうしてこんなところにいるんだよ」
 レグルス=ユミル=ナヴィガトリア。
 国王の弟にあたる公爵の息子で、彼自身の力で伯爵の地位を得るほど有能な王族だ。
 ナヴィガトリアではなく隣国のトゥバン帝国で暮らしていたゼノの存在をまだ誰も知らなかったような頃、国王がゼノを養子にするなどという話を持ち出していなかった頃、病弱なアルファルドに代わりこの国の次の王となるのは、このレグルスだとナヴィガトリアの者は誰もが考えていたに違いない。
 アルファルドと同じく金髪碧眼で、彼とは違って健康である。年齢は今年で二十五歳。王族として申し分のない能力を持ち、貴族としての義務をほぼ完璧に果たしている宮廷でも評判の貴公子だ。
 言うまでもないが、ゼノはこの貴公子が大嫌いである。
 血統的にケチのつけようもないお貴族様。宮廷の華やかさの象徴のような美貌。誰にも文句をつけさせない王族としての種々の才能。
 国中の年頃の乙女たちの熱い眼差しを一身に集め、それよりは薄くとも国民の尊敬の眼差しをも独占する若き貴公子。
 一年前に急遽ナヴィガトリアに連れて来られ第二王子として扱われることとなった得体の知れない“鋼竜の民”の血を引くゼノとは比べ物にならない、完璧な王族。
 そしてレグルスからしても、アルファルドの死期が近い以上他に近しい血縁の王族がいないナヴィガトリア国王の後を継ぐはずだった彼の地位を奪ったゼノは憎いらしい。
 二人は出会った当初から険悪であり、顔を合わせる度にそのやりとりは酷くなっていく。
 彼がいるからゼノが宮廷で受け入れられない、とまで負け惜しみじみたことは言わないが、国民感情にその辺りの事情が大いに関係していることは事実だ。ナヴィガトリア王族として完璧な甥のレグルスがいるのに、何故王はクルシス公爵子息とはいえ、わざわざゼノを国外から連れて来たのか?
 なまじレグルスが完璧な貴公子であるだけに、ゼノをもそう教育しなければいけない家庭教師たちは荷が重かったに違いない。型破りなゼノの振る舞いについていけず、誰もがゼノの傍から去って行った。
「そっちこそいたって健康体に見えるんだが。レグルス、あんた果物の皮でも踏んで滑って転んだか?」
「お前じゃあるまいし、そんな馬鹿なことをするわけがないだろう。私は父上の持病の薬を受け取りに来ただけだ。今は王宮付き医師兼薬師が彼しかいないからな」
 今は、と言う言い方にゼノは含みを感じた。レグルスは二十五歳。ゼノよりも、アルファルドよりもよほどシャウラに近い年齢だ。王宮付き医師と縁が深いならば、彼女のことを知っている可能性もある。
 案の定次の彼の口から出たのはその名だった。
「シャウラのことについて嗅ぎまわっているそうだな」
「そんなこと、あんたに関係ないだろ」
「ある」
 簡潔すぎる程に簡潔な返答の次の言葉は、ゼノには完全に予想外だった。
「お前が例え第二王子だろうと、次にこの国を継ぐ人物だろうと関係ない。もしも彼女を傷つけるようなことがあるなら、私はお前を殺す」
 許さない、ではなく、殺す、と。
 いくらゼノもレグルスも護衛をつけずに二人きり、周囲に誰もいない狭い廊下とはいえ、誰よりも発言に気をつけねばならないはずの王族がそう口にした。
 ゼノは唖然とする。
 こんな物言い、あまりにもいつものレグルスらしくない。
 そうして不意に、先程医師が何か言いかけたことを思い返す。
 ――それはさすがに初耳です。
 ――こう言ってはなんですが、所詮実らぬ恋ですからね。
 ――そういうことです。それも最後の。そうでなければあの方も……。
 他にも城中で十二年前のことについて聞き込みをしていた時の違和感、誰もが明確な言葉にはしなかったが、暗黙の了解として何かを受け入れ秘めていたようなあの感じ。
 断片的な言葉や情報が目の前のレグルスの態度と合わさり、一つの形となってゼノの前に現れる。
「あんた、シャウラのことが好きなのか?」
「ああ。昔からずっと愛している。私は彼女を妻にする。彼女以外の女など必要ない」
 貴族としての義務を「ほぼ」完璧に果たしている宮廷でも評判の貴公子――。
 あくまでも「ほぼ完璧」であって、「完璧」とは言われないのは、彼が二十五歳にもなって妻を迎えていないことにある。普通王族は十代で結婚することが多い。生まれる前から婚約者が決まっているなんて話もざらだ。
 けれどそれすらも、レグルスのことをよく知らない人間はいずれ国王になる時のことを考えてだろうと思っていた。レグルスが王となればその妻は王妃。ならば軽々しく決められることではないのだろうと。
 実際は違ったのだ。レグルスの中には、宮廷ではなく王城内の事情を知る者にしかわからない恋があった。
 実らぬ恋、アルファルドのシャウラへの想いを医師はそう評した。それが余命僅かなアルファルド自身が理由ではなくシャウラ側の事情であれば、その条件はレグルスにも当てはまる。
「だって……毒姫だぞ?」
「だからどうしたというんだ。それが私の想いに関係あるとでも?」
 “霊薬の民”、最後の毒姫ことシャウラ=フルム。
 特殊民族であるというシャウラの扱いに厳重注意が必要なのは周知の事実。そしてもう一つ理由がある。それは――。
「彼女を妻に迎えるのであれば、彼女との間に子どもは望めない。そんなことはわかっている」
 “霊薬の民”の体液は通常猛毒。それも接種が二度目ならば確実な死をもたらす。
 毒花の一族は、同じ毒花である“霊薬の民”同士でなければ子を成せない。
「あんた、国王になりたいんじゃないのか?」
 ナヴィガトリアの王位は世襲制だ。だからゼノは実父が生きていても、現国王を父と呼ぶためにその養子となった。王位を継ぐために。ゼノが遠縁とはいえ王の血縁だったからこそ可能なやり方でもある。
 子を望まないということは、王位を拒否するのと同じことだ。
「なれるものならなりたいさ。そしてお前が来るまでは、私以外にこの国を継げる者はいないとも思っていたし、そう周囲にも思われてきた。だが、そんな理由で彼女への想いが捨てられるのであれば、初めから好きになったりしない」
 あらゆる障害が阻む、苦しいだけの恋を誰が望もうか。
「逆に聞いてやろう。ゼノ、お前は王位が欲しいのか? お前の妻となり子を産む女は確実に死ぬというのに」
「!」
 整った容姿故、いっそう冷酷に見える嗤いを浮かべてレグルスが言う。
 “鋼竜の民”のを引く子を産む女性は、種族に関わらずその力を胎児に吸い尽くされて出産時に確実に死亡する。
 誰もが気にしていながらも口には出せない。ゼノの妻となり王妃となる女性はいったいどんな人間が望ましいのだろう。父親がゼノである以上、鋼竜の力を継ぐことは確実だ。そして出産時にその母親が死ぬことも。
 ゼノを玉座に戴くということは、これから先ナヴィガトリア王族にその血が引き継がれるということでもある。母体が死亡する“鋼竜の民”の力の継承という問題を、ずっと引きずって行かなければならない。
 だから現在でも、王宮内では第二王子となったゼノよりも、王弟の息子であるユミル伯爵レグルスを王として推す声が大きい。
 しかしレグルス自身は、ゼノの王妃問題と同じくらい王位継承に厄介な問題を持ち込むだろうシャウラを妻にと望んでいる。
 ゼノは何も言い返せなかった。
 レグルスも医師が部屋にいないことを察したのだろう。皮肉な口元を引き結んで踵を返す。
 レグルスがシャウラを愛していること。それを多くの人間が知っていること。
 取り残されたゼノは、自分が本当に何もこの国のことを知らなかったことに今更気づかされた。