花は毒姫 03

8.貴公子は今も夢の中

 どんなに強く立っているつもりでも、本当は誰かの愛を欲しがっていた。

 ◆◆◆◆◆

 十二年前。
 王弟の息子であり、将来的にこの国を継ぐと言われているレグルスに命令をする人間など、王城には誰もいなかった。
 彼自身も自分が次の玉座に座ることを望まれている人間だということを自覚しており、王城のことを把握しようと努めていた。
 中庭で花を愛でようとした際、とても綺麗な薔薇に目が吸い寄せられた。彼の屋敷の庭にはない、他のどこでも見たことのないような珍しい色合いの薔薇だ。
 その薔薇に手を触れようとした時、横から声をかけられた。
「その薔薇には触れないで。毒があるのよ」
 すぐ傍に貴族とも使用人とも判断のつかない、変わった格好の少女がいた。背後に庭師の老人がいたので、恐らく二人で薔薇の世話に来たところだったのだろう。
 そう言えば近頃、王城内に施療院ができたと父親が言っていた。その医師夫妻の間には娘が一人いて、薔薇の魔女と呼ばれていると。
 目の前の少女の薔薇色の髪と、一目見て貴人だとわかる自分を相手に一歩も退くことのない態度から、レグルスもその少女に対して「魔女」という言葉を連想した。お伽噺において、時に王様よりも偉そうな助言者であり誘惑者の呼称だ。
「私に命令するとは何事だ?」
「あなたが次期国王だろうと誰だろうと、そんなことは関係ないの。目の前で毒に近づこうとする者がいれば、相手が例え王様であっても私は止めるわ」
 強い瞳。次期国王と目されていたレグルスに、臆することなくものを言うその胆力。
 その瞬間、彼はその魔女に恋をしたのだ。

 ◆◆◆◆◆

 王都は今日も平和だった。時折魔獣の襲撃が起こり、最近は風邪も流行っているようだが幸いどちらも今のところ深刻な被害は出ていない。
 シャウラの店《毒薬屋》に置いてあるのはまともな薬よりも、観光客向けの土産物と媚薬や滋養・強壮剤など正確には薬と呼べないようなものばかりだ。温室で育てた薔薇や他の花も毒を抜いてからこちらで販売しているので、外から店内を見ると一見花屋のようにも見えるらしい。
 しかし店主のシャウラ自身は本来薬師で、ナヴィガトリアだけでなく数ヵ国に渡って身分証明となる資格を持っている。需要があれば風邪薬などの普通の薬も作ることはできた。今年は咳止めや胃腸薬も準備していたので、他の薬屋が遠くこの店のことをよく知っている住民が時折買い求めに来ることもあった。
 とはいえ、この店の客数はまともな薬屋と比べれば悲しい程に少ない。いつものように鈴の音と共に扉が開け放たれるが、そろそろ薬目当ての客足は途絶える時間だ。
だから今日もまたゼノが顔を出したのだとシャウラは思った。
 しかし彼女が呼び鈴の音に顔を上げて見た相手は、完全に予想外の人物だったのだ。
「久しぶりだね、シャウラ」
 陽光を紡ぐ金糸の髪に、青玉の瞳。すらりと背が高く、すれ違う誰もが振り返るような整った顔立ちの青年。
 一見してわかるほどに身なりが良く、貴公子然としたその物腰にはどんな女性もうっとりするだろう。
 しかし彼女は、そんな彼の幼い頃の姿をしっていた。
「レグルス……! まさか、本当にあなたなの?」
 彼女と別れてからユミル伯爵を名乗るようになった王弟の息子だ。当然十二年前までしか彼を知らないシャウラは伯爵を名前で直接呼ぶ。
もっとも二人の間柄であれば、例えレグルスがどのような爵位を持っていてもやはり名前で呼んだだろう。
 彼がこんなところにいるはずはない。これは夢かとシャウラは思った。
 だが目の前のレグルスは本物だ。
 シャウラの様子の変化に気づいたエルナトが店の奥から顔を出して駆け寄ってくるが、シャウラは彼の行動を手で制した。
「ずっと、会いたかった。こんなところにいたんだね」
「レグルス、私……」
 シャウラは自らの手で手を抑えつけるように胸の前で両手を握りしめた。
 そうやって衝動を制御しないと、彼に触れたくなる。手で触るくらいなら体液の接触はないが、レグルス相手にどんな危険も冒したくはなかった。
 突然の訪問ではあるが、いざ本人を目の前にしてしまえば、もう十二年間会わなかったことも何も関係なかった。焦がれる感情だけが、ただ胸の奥で燻っている。
「国王陛下に聞けば、すぐに君の居所がわかるとは思っていた。でも実際にこうやって会いに来る勇気がこれまで持てなかった。たとえあの時追いかけたところで、私はいつか君と別れて王にならなければいけないと思っていたから」
 アルファルドの病弱さに振り回されて運命が変わったのはゼノだけではない。ずっと次の王になると言われていたレグルスも、ゼノの出現によって今度は逆に王位から遠ざけられ戸惑っているのだろう。
 もしも彼が最初から王位を継がなくて済む立場であったなら、二人の関係は変わっていただろうか。貴族にとっても後継者問題は重要だが、国王程重い責務とはならない。
 シャウラは十二年前、両親が死んだことを契機にとある理由から王城を出た。それ以来レグルスにはずっと会っていなかった。
 彼女も彼が王になると思っていたから、その子どもを産むことができない自分の存在は王妃どころか側室になることですらできない邪魔者でしかないと感じていた。
「今日来たのは……最近になってゼノがここに来るようになったから?」
 長らく片想いをしていた相手が十二年ぶりに自分に会いに来た。その事実にどれだけ喜んでも、彼女はそれをただレグルスの愛情からの行為だと思えるほど単純ではなかった。
「きっかけの一つだ。理由はアルファルドから聞いた。彼と君が知り合いだとは知らなかった」
 そしてレグルスの方でもやはり、それだけではないのだと苦笑する。
「私自身もわからないのよ。どうやら第一王子殿下は、自分の素性を隠して施療院に通っていたらしいの」
「……なるほど。それでゼノの奴が確認をとるために君の周りをうろちょろしてるわけか」
 その一言で納得されるとは、アルファルド第一王子はレグルスにもそういう性格だと思われているということだろうか。
「ゼノ殿下と仲が悪いのね」
「当然だろう」
「王位を争う敵同士だから?」
「ああ。だけど今だけは奴の存在に感謝したいかもしれない」
 レグルスはそう言うと、ひたむきな眼差しでシャウラを見つめた。
 ちょうどその時店の前に馬車が停まり、ゼノが降りてくるのが見えた。彼は先客の豪奢な馬車に驚き、更に店の中を見てレグルスの存在に気づいたようだった。
「レグルス?! なんでお前がここに……」
 呼び鈴を跳ね上げる勢いで扉を開け放つ。しかしレグルスはそれを無視した。彼はまっすぐにシャウラだけを見つめている。
 レグルスに掴みかかりそうなゼノを、エルナトが止めた。エルナトはそのような状況判断に長けている。シャウラの望みを言わずとも察するようなところがある。
 そしてレグルスは言った。
「近々、君を迎えに来るよ、シャウラ」
 第一王子アルファルドはもうすぐ死ぬ。そうしたらレグルスは、この国を出るという。
 ゼノを王に戴いて貴族としての義務を果たす気はないのだと。
 ただの告白ではない。それはこの国の命運自体をも左右するかもしれない重大な決意の表明だ。
「レグルス、私は……」
 その時、男の腕が強く彼女を抱きしめた。
「君がなんと言おうと、私は君を攫って行く。十二年前はこの手を離してしまったけれど、今度こそもう離さない。玉座よりも君と一緒に生きていく道を選ぶ」
「レグルス」
 シャウラは瞳を潤ませる。
 けれど涙は零さない。零すことを許されない。彼の胸を押し返すようにしてゆっくりと身を離す。
 レグルスは一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに元の柔らかな笑顔に戻る。それから一転し、ゼノの姿を振り返ると睨み付けた。
 この二人が敵対関係にあるというのは、シャウラにもよくわかった。思わず店の外まで飛びだして後ろ姿を追ったシャウラに、レグルスが一度振り返って微笑んだ。
 馬車の音が遠ざかる。
「何しに来たんだよ、あいつ」
 入れ替わりにシャウラの傍に寄ってきたゼノが忌々しげに問う。シャウラは首を横に振った。
 レグルスは迎えに来るとは言ったものの、それが本当に実現するかどうかなど、シャウラにはわからない。
「レグルス……」
 この十二年間、何度も再会を夢に見た。
 相手は次期国王とも呼ばれていた貴族だ。街中で偶然に再会できるなどという立場ではない。会いに行かなければ会えない。そんなことはわかりきっている。だが、シャウラの方からは、一度も彼には会いに行かなかった。
 二度と会うつもりはなかった。自分が彼の傍にいることは、彼のためにはならないとわかっている。
 それでもこうして顔を合わせ、面と向かって求められれば心は揺れる。
 ……心どころか、現在は頭も視界も多少ぐらぐらと揺れているのだが。
 ゼノの目の前で、緊張から解放されたシャウラはいきなり倒れた。
「わー! いきなりどうしたんだよ?!」
 驚き慌てふためくゼノの声が頭上から降ってくる。彼女は息も絶え絶えに事情を説明するので精一杯だ。
「……ごめんなさい。ちょっと今日は朝から具合が悪くて」
 そう言えばここ数日城下では風邪が流行っていたのだった。今更ながら自分の油断を呪う。
「早く言え!」
 そしてシャウラの意識は、喚くゼノの声を背景にそこで途切れた。

 ◆◆◆◆◆

 暗闇の中に声が響く。
「まったくどいつもこいつも世話焼かせやがる」
 シャウラは目を開けた。自分が卒倒したところまでは覚えている。
 どうやらゼノが彼女を抱きかかえて寝台まで運んでくれたらしい。意識を失っていたのは短い間だったらしく、浮遊感の後でシャウラはすぐに目を覚ました。
 ここは店の奥にある自宅部分だ。いつも話をしている応接間より更に奥である。ぶつくさ文句を言いながらも、ゼノは手際よく寝台を整えた。珍しく素直にシャウラは彼に謝ることにした。
「ごめんなさい」
「レグルスの奴も、好きな女の体調が悪いことくらい気づけっての」
「短い間だったし仕方がないわ。十二年ぶりだったしね」
 そう、十二年。十二年だ。子どもだった自分も彼も大人になった。顔立ちはほとんど変わらずとも、レグルスは声変わりして大人の男性の声になっていた。
 それでも名を呼ばれた瞬間、一瞬で彼だとわかった。彼の声だと思った。
 懐かしい過去に置いてきたはずの感情が、雨の日の古傷のように疼く。
「私も駄目ね……あの人の前だとつい格好つけちゃって。情けない女だと思われたくなくて、気を張っちゃう」
「……あんたは、本当にあいつが好きなんだな」
 寝台の傍らで彼女を見下ろすゼノが何故かしみじみと言った。
「あいつがあんたを好きなのも……本当だったんだな」
「馬鹿みたいだと思う? この十二年ずっと会っていなかったのにね? 貴族のお姫様の中には、私よりよっぽど綺麗でちゃんと性格も良いお嬢様もいたでしょうに」
「だけどあいつは毒姫じゃないと嫌なんだろう。そんなの……この国で、この大陸であんただけだ」
「趣味が悪いわ」
 汗ばんできた額に手を遣り、シャウラは自嘲する。
 レグルスを愛している。けれどだからこそ、シャウラは彼を前にすると気が抜けない。一切の弱味を見せられない。みっともなく縋りついて、行かないでと泣き叫ぶことができない。
「それにしてもあなたが来た途端帰るなんて、よっぽどあなたたち仲が悪いのね」
「あいつに何か変なことされてないだろうな」
「変なことって何よ……」
 そこまで喋って、シャウラは息が切れた。
 ゼノが水差しから注いだグラスを差し出してくる。一瞬戸惑ったが、彼が自分にする分には問題ないだろうと、ありがたく親切を受けた。
「ありがとう」
 エルナトはゼノの指示で買い出しに行ったと言う。元暗殺者の少年は、こういった事態にはまったく役に立たなかった。倒れたシャウラに蒼白になって右往左往していたところを、ゼノが追い出したのだという。
「他に何かすることは」
「ないわ。あとはもう自分でできるから帰っていいわよ」
「病人が何を強がり言ってんだよ。俺だって看病くらいできるぞ」
 ゼノ自身は常々周囲から殺しても死ななそうに丈夫と言われるが、その実父であるファクトはどちらかと言えば体が弱い方らしい。アルファルドが病弱なくらいなのだからもともとナヴィガトリア王室にそういう性質があるのだろう。だからゼノも看病には慣れているという。
 だが、シャウラ相手では勝手が違う。彼女の方でも、これ以上『危険』にゼノを巻き込みたくなかった。
「……お願いだから帰って。いつもと違って周りに気を遣っていられないから、他人が傍にいると落ち着かないの」
 シャウラの言葉に、ゼノが憮然とした顔をする。厚意で言ったのだろうことをはねつけたのだから当然だ。
 しかし彼はそれでも、具合の悪いシャウラを置いて帰ろうとはしなかった。
「具体的に何が問題なんだよ」
 あまりにも引こうとしない困った王子様に、言い募るのも疲れてシャウラは口を開く。間違って咳やくしゃみをしないよう、寝台の上で毛布をすっぽりと被る。
「……私の体液は猛毒よ。一度触れただけならばまだしも、二度目は確実に死ぬわ。だから絶対に触らないように注意して」
「ああ、わかった」
 シャウラの血の一滴でも、二度触れてしまったら死。この事態の危険性をゼノは本当に理解しているのだろうか。ただの王子様ではない、彼はアルファルドに代わって玉座に着くよう現国王がわざわざ隣国から呼び寄せた人間なのだ。本来、この国の誰よりも重要な立場だ。
「このグラスもそう。飲み口には絶対に触らないで。液体に唾液や汗が交じるとまずいから、そういうものに触れる時は間違っても触らないよう注意して。できればこの家にいる間水物自体に触らないで」
「わかった」
「熱を覚まそうにも布を濡らすと汗が媒介して毒が広がる恐れがあるから、それはいらないわ」
「そういうわけにはいかないだろ」
 ゼノは桶に外の井戸で汲んできた水を注ぎ、布巾を濡らして手で絞る。
「だから、危ないって」
「だからこれなら平気だろ!」
 危険だから止めようとするシャウラの目の前に、ゼノは己の両手を見せる。
 その手にはいつの間にか、園芸用の手袋が嵌められていた。それどころか服装まで隣家から借りたらしい割烹着だ。
「これであんたに触っても大丈夫!」
 自信満々なゼノの様子に、シャウラは蓑虫のように毛布にくるまったまま寝台の上にばったりと倒れた。今の自分と即席掃除夫のような格好の王子様と、一体どちらが間抜けなのかわからない。
「あ……阿呆か……」
「なんだよ、これなら文句ないだろ?」
「あのねぇ……」
 直接触るなと言ったから手袋をはめたのだろうが、布製の手袋なら液体が染み込めば間違って毒が浸食する恐れもある。完全な予防には至らない。
「いくらなんでも汗や唾程度でそんなびしょびしょになるかよ。それに俺はたぶん鋼竜だから多少の毒なら平気だと思うぞ。城でも何度か毒殺されかかったけど全然平気だったし」
「しっかり毒を飲んだ人の台詞よね、それ。あなたの護衛はとても大変そうね……。でも《霊薬の民》の毒は、その鋼竜ですら二度目には必ず殺すのよ。一種の呪いだわ。どんなに強い相手でもこれは防げない」
 シャウラの体液から造った毒というだけなら、確かにゼノはある程度まで耐性を持っているだろう。
 だが二度目の接触は死という法則はいかな鋼竜でも逃れられるものではない。そのための毒花だ。
「胃からくる風邪なら、吐いたりする危険もあるでしょ。悪いことは言わないから帰りなさい」
「いやだね。そういう時こそ看病の必要があるだろ」
 いつもは話の埒が明かなくなるたびに出直すゼノだが、ことこれに関しては強情だった。シャウラが幾度断ろうとも、意外にまめまめしく看病を続ける。
 幸いなことにただの熱風邪のようで吐きはしなかったので、毒の危険性は低い。汗に直接触れないよう気を付けていれば、大事には至らないだろう。
 それでもシャウラにとっては、ゼノが自分の傍にずっとついていることが意外だった。
 ありがたいとは思うのだけれど、素直になれずに思わず憎まれ口を叩いてしまう。
「別にこんなことで恩を売ったからって、あなたの頼みは聞いてあげないわよ」
「別にこんなことくらいで恩を売ろうとは考えてねーよ。それより……あんた、いつもこうなのか?」
「こうって?」
「だから、いちいち体液がどうの、触ったら危険がどうのと考えてんのかよ」
「当然よ、だって私は――」
「毒姫だからか」
「……そうよ」
 《霊薬の民》、毒花の一族、イクシール族。
 その最後の一人であるシャウラの体液は猛毒だ。
 猛毒ではあるが、その毒は一度ならば奇跡を起こす霊薬ともなる。死に瀕した重病人や怪我人が初めて彼女の体液に触れると、それはたちまち病を駆逐し傷を癒す。
 だが、一度奇跡を起こす分、二度目に触れる者には容赦なくその毒は牙を剥く。《霊薬の民》の体液を摂取するのが二度目となった人間は、確実に死に至る。
 それでなくとも、《霊薬の民》の体液は他の薬品と調合することによって他に類を見ない危険性の強い毒薬となるのだ。病で調子を崩している時は特にそれが顕著だった。
 ゼノはシャウラの体液に触れたことはないが、何かの拍子に続けざまに触ってしまうとも限らない。だからこそシャウラは彼を早くこの家から遠ざけたかった。だがゼノも譲らない。
「あんた、お茶を淹れる時も絶対に自分の椀と他人の椀が触れないよう気を付けてるよな。というかそもそも、自分と客の両方に茶を淹れることが少ないというか。それにこの家、いつ来ても台所用品はしっかりすぎるくらいしっかり片付いてるし」
「……気づいていたの?」
「当然」
 ゼノはふんと鼻を鳴らす。
 彼の言うとおり、シャウラは本来自分の体液が他者に接触しないよう、毎日とても気を遣って生活している。もちろんこの家だけ水源も排水溝も別だ。その理由をきちんと隣人たちにも説明しているため、羨ましがられることすらない。
 彼女に向けられる感情は毒を持つ虫への恐れと大差ない。蝶に見えていてもそれがただの綺麗な蛾だと知れば人々は離れていく。
 街中を歩いていても、シャウラは飲食店には絶対入らない。湖などに出かけはしない。公衆浴場など以ての外。薬以外の制作物、例えば手料理などを隣人に振る舞うこともない。
そして――滅多なことでは涙を流さない。
「だって……当たり前でしょ。私が意図していなくたって、ただ偶然触れてしまっただけだって、呪いは発動してしまう。一度目は奇跡を、二度目は死を。毒花の民の血は与える」
 血とは言うものの、実際にはシャウラの体液全般が当てはまる。
 だから彼女は恋人を作らない。あれほど深く愛しているレグルスの傍からも離れたのだ。
 毒姫はその口付け一つでさえ、即座に相手の命を奪うことができるのだから。
「もしも主だった水源の起点に私の死体を投げ込めば、この国を一日で滅ぼすことだってできるわよ」
「なんでそんなに例えが物騒なんだ」
「だって本当のことだもの」
 毒花の民の体液は全て猛毒だが、その中でも血液は多くの毒素を含む。
 怪我どころか、勝手に死ぬことすら許されない。特殊民族が王国に庇護されるとはそういうことだ。
「でも特殊民族だって、毒花のあんただって人間だ。弱った時には他人に傍にいてほしいって思うものなんだろ? 俺は風邪とか引いたことないからわからんけど」
「それもまたすごいわね。……ええ、そうね。体調が悪いと精神的に不安になるというのはよく言われる一般論よ」
「あんたもそうなんだろ?」
「私がただの人間と同じだと思うの?」
「ただのではなくても、人間だろ? 俺が多少人より頑丈でも人間でしかないように」
 毒の花と、鋼の竜と。
 そう呼ばれてはいても、自分たちは所詮人間だ。
 かつてエルナトを救った際、それを見ていたゼノが叫んだ台詞だ。その気持ちは痛い程にわかる。だがシャウラはやすやすと頷いてやるわけにはいかない。
「私をあなたと一緒にしないで」
 本当はゼノの言うとおりだ。病を得るとまるで幼い子どものようにむしょうに心細くなる。何も知らず何も考えず両親の愛を享受していた頃のように、誰かに縋りつきたくなる。
 だけどそれは許されない。許さない。
 だから言う。
「もう帰って。ここに来ないで。――私には、あなたの助けなんていらない」
 白々しい台詞だ。今までずっと看病させた人間の言う言葉ではない。けれど支えてくれる人のその手さえ自らの毒で殺してしまうくらいなら、ずっと独りで生きた方がマシだった。
 シャウラの結論はとっくに出ている。レグルスの愛に応えられないのと同じように、ゼノの厚意をこのまま享受するわけにはいかない。
 額を乾いた布が滑る感触。汗を拭われ、思わず目を開くと、続いて褐色の手のひらが熱を測るようにあてられていた。
「大分落ち着いてきたみたいだな。後のことはエルナトの奴に言っておく。あいつなら慎重な行動は得意だろ」
 放蕩王子と呼ばれてはいても口ほど暇ではないのだろう。ゼノは用事があると言って立ち上がった。
「……また来る。絶対に来るから」
「……」
 先日と同じ言葉をゼノは口にする。だがシャウラは返事をしなかった。
 口さがない噂で言われるほどに、ゼノはとんでもない人間ではない。王宮の空気にはいまだ馴染めないようだが、一度味方を作ることに成功すれば、持ち前の魅力で人脈を広げていくことができるだろう。
 彼に期待をかける第一王子の気持ちはわかる。だからこそゼノは、本来であればシャウラのような人間と関わらない方がいいのだ。
 彼女は最後まで返事をしなかった。
 呼び鈴の音が虚しくゼノの背を見送る。その響きを耳にして、シャウラは目を閉じた。

 ◆◆◆◆◆

「本当に王都を出て行くおつもりですか」
 シャウラを迎えに行くと言ったレグルスの言葉は、彼の周囲に波紋を広げた。
 レグルスに近しければ近しい程、彼がもう十年以上前から最後の毒姫に想いを捧げていることは知っている。だがアルファルドが死に、レグルスが国王になる以上、子を成せぬ《霊薬の民》の姫との恋が実らぬことは当然だと本人も周囲も完全に諦めていた。
 それが一年前から、少しずつ歯車が狂いだしていった。ナヴィガトリアという大きな一つの絡繰を動かしていた部品の中に、小さな異物が紛れ込んだのだ。
 異物の名はゼノ・アルアラーフ。国王の従兄弟の息子という、レグルスよりずっと玉座に遠い血筋ながら次の王の座に収まった少年。
 シャウラと同じように特殊民族としての性質が強く出ているのに、ゼノの持つ血の半分は薄くともナヴィガトリア王室に繋がっていた。それが厄介な縁となり、レグルスと彼の後見であるサダクビア公爵家は上手く第二王子を排除できないでいる。
 だがレグルスは、今度はどうやってゼノを追い落とすか企みを持ちかけてきた側近にむけて「もういい」と一言言い放った。
「もう、いいんだよ。タラゼド。今まで世話になったね」
「レグルス様?!」
 子どもの頃からレグルスに使えている側近中の側近である青年。タラゼド=シャム=サダクビアは声を荒げた。執務机に頬杖をついて真っ直ぐにこちらを見つめる主人を泣きそうな目で睨みつける。
「私はこの国も王家に連なる血も何もかも捨てる。ゼノが国を継ぐのを見届けたらナヴィガトリアを出てシャウラを迎えに行くつもりだ」
「国を出るって……一体どういうおつもりですか!」
「言葉の通りだ。これまで散々ゼノと玉座を争った私が、このまま国に残るわけには行かないだろう。奴の下風に立つのも癪だしな。そのぐらいならば、この国を出て行く。以前のクルシス公爵の立場に、今度は私が立つわけだな」
 だが、例えレグルスがかつてのファクトのようにひっそりと暮らしていても、後に国王が彼を探してやってくるような事態は起こらないだろう。ゼノは健康で王妃問題を除けば跡継ぎの心配もなさそうだし、レグルスが長年の片恋を叶えるならば、彼には子どもができない可能性の方が高い。
「冗談ですよね、レグルス様。これまでずっと、あなたは彼女を忘れていたのではないですか」
「忘れるものか。一日たりとも忘れたことはなかった。それでも何度も諦めようとしたが、あの死を目前としたアルファルドでさえゼノを使って彼女を探したと聞いて気づいたんだ。自分の本当の気持ちに」
 アルファルドの名に、タラゼドは顔を歪める。
 いつもそうだ。事態の中心に真にいるのはあの病弱で瀕死の第一王子。周囲は完全に彼がもうすぐ死ぬものとして次の王の話をしているのに動揺の一つさえ見せず、それどころか義理の弟であるゼノを可愛がり、そう見せかけて実はゼノでさえあのアルファルドのために動いている。いや、動かされているのだ。彼はただの駒。
 寝台の上から降りることさえできないくせに、遊戯版で駒を動かす支配者のごとくに局面を動かすのはあの病弱な第一王子だ。
 そしてこれまでその対局相手だったはずのレグルスは、勝負の途中で形勢の不利を悟りすぎたあまりに、自ら遊戯から降りようとしている。
「なぁ……タラゼド。私にも野心くらいあったさ。ずっとこの国の次の王となるのは、私だと思っていた。そのために研鑽を積み、今だって王族の一員としてユミル伯爵としての責務を十分に果たしているつもりだ。――なのにどうして、伯父上は私ではなくゼノをわざわざ次の国王にするべく、他国からさえ呼び寄せたのだろう」
「レグルス様……それは……」
「私の努力は国王陛下の理想に届かなかった。あるいは私よりもゼノの方が、次の王に相応しいと思わせる何かがあった。ならば、どちらにしろ私の存在はこの国には不要なのだろう」
 疲れ切ったレグルスの表情は全てを諦めていた。元より矜持は高いが、極端な権力志向の人間ではない。自らが王に相応しく、他に代われる人間がいないからこそ努力してきたのがレグルス=ユミル=ナヴィガトリアだ。その必要がなくなれば、彼にはもはや昔の恋しか残らない。
「私は本気だよ。君が家への忠義を果たすつもりなら、早くこんな主は見限り、新しい主人を見つけるべきだ。いや、君自身が私の後釜に座るのも良いだろう。私さえいなければ、君がサダクビア家の血を引く男子の中で最も高貴な人物なのだから」
 永く片腕として仕えてくれた彼への、それがせめてもの褒賞だと言わんばかりにレグルスは言う。彼の中ではそれが一番良い道のように見えているのだろう。レグルスが玉座を諦めれば、ゼノが問題なく王となる。そしてレグルス自身はシャウラを手に入れられる。
 レグルスは引継ぎばかりで量の少ない仕事を手早く終えると、呆然と佇むタラゼドを置いて部屋を出た。顔色こそ変えずとも側近の頭にかつてないほど血が上っているのを彼もわかっているのだろう。
 だがそんな主の気遣いも、今ばかりはありがたく思えなかった。どす黒いものが胸の中で渦を巻いて、吐き気がするのに上手く吐きだせない。
 ああ、だって、この黒いものは、最初から自分の一部なのだ。吐きだせるはずがない。自分の一部をこれだけ都合よく斬り捨てられるわけがない。
 脳裏を褐色肌の異国風の青年の姿が過ぎる。タラゼドは憎しみと共にその面影を千々に引き裂いて消し去った。