花は毒姫 03

9.始まる過去と終わる未来

 あなたが愛してくれて、ようやく気付くことができました。自分が誰かに愛されたいと、そして愛したいと願っていることを。

 ◆◆◆◆◆

 ゼノの懸命な看病の甲斐あり、元来丈夫なシャウラは翌日にはほとんど風邪から回復していた。
 彼女が動けない間の買い出しや毒薔薇の世話をエルナトが一手に引き受けていたため、これまで周囲に隠していた彼の存在も次第に認知されてきた。
 具合はもうよいと告げるシャウラをまだ休んでいてくださいと椅子に座らせ、エルナトがぎこちない手で家事を片づけようとする。シャウラは日の当たる窓辺の椅子にショールを羽織って寛いだ格好で腰かけ、その様子をぼんやりと眺めた。
「……ありがとう」
「シャウラ様」
 乾いた洗濯物を手に首だけを巡らせた少年に苦笑を向ける。
「ありがとうね、エル。今まで自分はいつでも一人でなんでもやってきたつもりだったけれど、今回はあなたたちがいてかなり救われたわ」
 助けられた、ではなく、救われた。
 別に何をしてくれというわけではなく――ただ、こちらが弱った時に傍にいて、当たり前のように自分の弱さを赦してくれる存在に救われたのだ。
「礼なら、僕よりもゼノ殿下に言うべきでしょう」
 根は生真面目らしいエルナトは、シャウラの言葉に若干頬を赤らめて照れながらもそう言った。
「正直に言って、僕はこういった時に自分が何をすればいいかまったくわかっていませんでした。指示をくれたのはゼノです。あなただけじゃなく、僕も彼がいて随分助けられました。――あの人を殺そうとした僕が言う言葉ではありませんが」
「エルナト、それはもう忘れなさい。ゼノは気にしていないわ。あなたが永く気に病んだところで誰も喜ばないわ」
「……はい」
 もともとゼノを殺すために差し向けられた暗殺者としてやってきたエルナトは、シャウラに助けられゼノと親しくなるにつれそれを後悔し始めたようだった。時折昏い表情で何か考え込んでいる様子をシャウラは何度も見ている。
 だが、過去は変えられない。己の行動を悔やむよりもどうすればそれを償えるかを考えるべきだろう。
 エルナトはすでに暗殺者を辞めている。ゼノは差し向けられた暗殺者を殺したと証言したらしい。二人の関係については、これから二人がお互いに作り上げていかねばならない。
「ねぇ、エル。そういえば一つ聞きたかったのだけれど」
「なんですか?」
「どうしてあの時、よりにもよってゼノと私が一緒にいる間に襲撃してきたの? 暗殺と言うのは人目を避けてこそ成立するものでしょう。大きな屋敷の奥でたくさんの護衛に囲まれている権力者を襲うならともかく、ゼノなんていつも一人で不用心にふらふらその辺を歩いていそうじゃない」
 目撃者は消す。暗殺に限らず、それが犯罪の鉄則だ。死人に口なしとはよく言ったもの。
 シャウラ自身も王子様に対する無礼を散々尽くした後で何だが、ゼノの日常生活はあの様子ではきっと隙だらけだろう。隙があってもそれを衝かれる前に反応して反撃できるだけの力があるのがゼノの強みだが、間違ってもあれは王子らしい生活ではない。
 そして最大の問題が一つ。
「あなたはあの時、私も殺せと依頼されていたの? そうでなければ例えゼノを殺そうとしても、私が傍にいればすぐに蘇生できてしまったわよ? 依頼人はそれを知っていたのかしら」
「あ……そうですね。本当だ。どうしてそういう条件だったのだろう?」
「条件?」
 不思議そうに首を傾げるエルナトの様子にぴんとくるものがあり、シャウラは自然と声が険しくなった。極秘の依頼事項を漏らしてしまい慌てだす様子に目を細める。
「あ、いえ、その」
「別にいいわよ。洗いざらい全部吐けなんて言わないから、とりあえずあなたは落とした物を拾いなさい。そう……依頼主はあえて、ゼノが私と一緒にいるところを襲えとあなたに命じたのね」
「う……」
 肯定よりも雄弁な困惑の表情に、シャウラは自らの推測に確信を得た。そしてやはり、先日の襲撃依頼者はゼノが考えたようにレグルスではないのだろうとも思う。
 ――彼はまだ、私を愛している。私が彼を愛しているように。
 自惚れですらなく、それが事実だ。レグルスがここにきたのはつい最近。
 迎えに来るなんて、本気だろうか。本気なのだろう。なにせあのレグルスだ。
 となるとエルナトの依頼人は、レグルス側の人間とは関係ない。エルナトがやってきた日は、ゼノがすでに何回かここを訪れた後だ。王都警備の繋がりとはいえサダルメリク公爵だってすでにあの頃には第二王子がシャウラの店をたびたび訪れていたことは知っているだろう。多忙とはいえ、レグルスが最大の政敵となるゼノの動向を把握していないはずがない。
 レグルス本人の依頼であれば、シャウラを巻き込むつもりであったというのが解せない。そしてレグルス以外の彼の陣営の人間であるならば――正直、レグルスの未来を閉ざすような存在であるシャウラは邪魔だろう。ものはついでにゼノと一緒に確実に仕留めてしまった方がいいと考えるはずだ。
 エルナトの様子からすると、彼はゼノを人目を盗んで殺せとか、目撃者は全て消すようにとは命じられていない。
 ただ、その条件としてシャウラと一緒にいるところを狙えと指示されたらしい。
 鋼竜の民としてのゼノの強さ、毒花の一族としてのシャウラの異能を考えれば、それでは殺せるものも殺せない、暗殺者側に格段に不利な状況だ。
 大陸最強の暗殺組織と呼ばれる《処刑人(ディミオス)》の暗殺者を雇っておきながら、暗殺に不利な状況を作り出す。それは矛盾した行為。
 犯人の目的はもしかしたら――。
「あ、そうだシャウラ様」
 繋がりかけた思考は、不意に話しかけられた言葉によって見事に途切れた。エルナトが話しかけてきたこと自体ではない。その内容が問題だ。
「殿下ですが、今回は少し遅れるそうです。なんでも長居をしないよう、サダルメリク公爵の屋敷によってから行くと連絡がきました」
「……そう」
 そろそろ来る頃だろうと思っていたのにその予兆すらないのでおかしいと思っていたのだが、そういう理由か。思わず安堵の息をついたシャウラに、エルナトがぼそりと何気なく言う。
「シャウラ様は殿下の訪問を楽しみにしているんですね」
「な! そ、そんなことはないわよ?!」
 裏返った声で反射的に否定の言葉を口にするシャウラに、エルナトがきょとんと不思議そうに首を傾げた。彼の目にはそうは見えないと言いたいのだろう。
「ですがそもそも殿下は、その兄上のためにシャウラ様を王宮に連れていきたいのですよね? シャウラ様はどうするおつもりなのですか?」
「どうって……」
「王宮に行くか、行かないか。――あなたがゼノ殿下の訪問を待つのは何のためか。シャウラ様が殿下の訪問を歓んでいると判断したので僕はこれまで何も言いませんでしたが、あなたが本当に殿下の要望に応えたくはないと思うなら、国外逃亡の手助けをします」
 珍しく饒舌になったと思ったらこれだ。エルナトの発言のツッコミどころの多さに、シャウラは頭痛を覚えてこめかみに指を当てる。
「色々と言いたいことが多すぎて困るけれど……まず第一に、エルナト、ここはそもそも私の家なの。この家も温室も近隣住民から得た私の評価や信頼も全てが私の財産で、簡単に捨てるわけにもいかなければ、持っていくこともできないもの。それはわかる?」
「はい。理解しました。僕には定住という概念が欠けていたようです」
「そのようね。それから、ゼノの要請を拒否したいからといって、即国外逃亡なんて選択をする必要はありません。私もゼノも別に犯罪に関わっているわけではないのよ」
「でも、権力者に目をつけられるというのはそれだけ厄介なのではありませんか?」
「毒花の民である私が簡単に行方を眩ます方が厄介よ。それに、ゼノの頼みは『権力者に無理強いされる』とかそういう類の話ではないわ」
「断っても一切問題はないと」
「そうね。私が完全に拒否の姿勢を見せてゼノがそれに納得する状況が起きる、あるいはゼノの行動理由である第一王子殿下が気を変える、もしくは第一王子殿下が亡くなるか――そういう事態になれば、ただ単にゼノがもうこの家に来なくなるだけでしょう」
「シャウラ様は、それでいいのですか?」
 それは単純にして裏も何もない質問だ。
 だが、あまりにも純粋で簡単なその問いかけが、シャウラの心を揺さぶる。
「……例え私がゼノの要請に応じて第一王子殿下にお会いしたところで、何も変わらないわ。《霊薬の民(イクシール)》としての力を使えと強要されるのであればともかく、ゼノの言うとおり第一王子は何の裏もなくただ私に会いたいだけとして、その目的さえ達せられればゼノはもうここには来なくなるでしょう」
 もともと兄の頼みという理由がなければ、ゼノにはここに来る理由も必要もない。
「そうなんですか?」
「そうでしょう」
「僕には、そうは思えません」
「……」
 言葉に詰まり、シャウラは静かに微笑む。
 エルナトをこの家に置くことに関して、彼女自身何度も考えた。すでに彼は一度《霊薬の民》の《秘蹟》を受けて、次にシャウラの体液を摂取すれば確実に死ぬ。それでも暗殺組織に戻ったりどこか誰の目にもつかないところに逃亡するよりは、人の中で生きた方が彼のためなのではないかと。
 けれど今ここにエルナトがいることに関して、救われているのはシャウラ自身だ。
「……本当はね、私を初恋相手だといい、今も会いたがっている第一王子殿下らしき昔の少年に心当たりがあるの」
 今まで隠していたことを告げると、エルナトが無言で目を瞠った。
 他者と共に過ごす時間は善し悪しだ。自分一人なら楽でいいが孤独で、他者と共に在ることは幸せだが時に自分が目を逸らしていた事実をも突きつけられることになる。
 エルナトの言葉に、シャウラは自分がこれまでのゼノの訪問に対してどう思っていたのかを自覚させられた。
 けれどこの時間は、ゼノの目的が達成された瞬間に終わりを約束されたものでもある。そしてゼノの目的とは、アルファルドの想いをシャウラに認めさせ彼女を王宮に連れて行くこと。それにはシャウラがアルファルドのことを思い出すのが一番早い。
 彼女を初恋の人だと言ってのけるかつて八歳前後の少年。心当たりは、ないでもない。
「あの子だったら……十二年も経った今更こんな風に言いだしてもおかしくはないって……でもきっと違うわ。私が城を出る少し前に、その子はもうすぐ『弟か妹が生まれる』って話をしていたの。健康なその子が生まれてしまえば病弱な自分はここにいる価値がなくなるって、そんな子生まれてこなければいいって泣いていたのを慰めたから覚えている。……でも第一王子殿下に実の弟妹はいないし、それはもう十二年も前の話だもの。きっと違うわね」
 施療院でも一番の問題児で悪ガキだったあの子。シャウラがまるで本当の弟のように可愛がり、向こうもとても懐いてくれた。その病状は施療院でも一、二を争うほど深刻だったので、今元気でいるかどうかも、この世にまだ存在しているかどうかも定かではない。
 彼には会いたい。でも会えない。
 健康な弟と言う言葉に一瞬ゼノを思い出したが、シャウラの回想は十二年前の話だ。名前すら偽名だったその子にとって実の兄弟か親戚の子の話かを言及する前に、年齢が合わない。
「シャウラ様、それは――」
 とりとめのないシャウラの言葉にだいたい無言で、時に短い相槌を打ちながら耳を傾けていたエルナトが、不意に何かを言いかけた。
 しかし、その時店の前で馬車の停まる気配を二人とも感じた。
「ゼノ?」
「いえ……違います」
 エルナトの表情が硬くなる。馬車の音がいつもと違うと彼は言う。シャウラは若干人より聴力が良いくらいだが、元暗殺者であるエルナトはその足音や気配で相手を見極めることにも長けている。
 訪問者は、思いがけない相手だった。

 ◆◆◆◆◆

 シャウラの具合が良くなるまでは無理に押しかけて長居するわけにも行かないだろう。時間を潰して少し遅れていくことにしたゼノはその間、セイリオスの屋敷を再び訪れていた。
「で、あんたが目星をつけている相手ってのは誰なんだよ」
「せっかちですね。殿下。まぁ、餌は上手く撒いたし相手も見事に引っかかってくれた。レグルス様という餌にね」
「レグルスが引っかかった、じゃなくて、レグルスが餌……なのか?」
「ええ。それ以上はまだ秘密です。ですが殿下、この国の政情に疎い殿下に、今は私が家庭教師代わりに簡単な講義をしてさしあげましょう。……ところで三十一人目の家庭教師は見つかりましたか?」
「うぐっ」
「まだのようですね。ならば今日だけは僭越ながらわたくしめが臨時教師をしてあげましょう。ではさっそく」
 セイリオスは手近な紙を取り出すと、ゼノにもわかりやすいように幾人かの名を書いてそれらを線で繋いだ。
「なんだこりゃ。王家の家系図か?」
「ええ、そうです。そして問題はここの部分です」
「レグルスの母親って、サダクビア公爵家の人間なのか。あれ? サダクビアって、どっかで聞いたような」
「聞くも何も、三大公爵家の一つサダクビア公爵家です。我が家のサダルメリク公爵家、サダルスウド公爵家、そしてこのサダクビア公爵家を合わせて三大公爵家と言うのです。ちなみにアルファルド殿下の母君はサダルスウド公爵家の姫君ですよ。王族の配偶者はここ何十年か、だいたいこの二公爵家から出していますからね」
「三大公爵家なのに、あんたんところは違うのか?」
「我々は元々移民なのです。緋色の大陸からやってきた外来貴族なのですよ。だからどれほど権力を持っても、王族と直接の縁続きになることは稀ですね。政略結婚にはだいたいサダルメリク家の人間が結婚した他貴族を使うことが多いです」
「へー、大変なんだな貴族って」
「数年後には国内で最も大変な結婚問題を引き起こす人が他人事のように言わないでください」
「でも、サダクビアってそれだけじゃないんだよな。なんかこう、知ってる人間にその名前の持ち主がいた気がするんだ。当主の公爵とかそういうんじゃなくて、もっと身近なところで」
 首を捻るゼノの横でセイリオスは、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それはユミル伯爵レグルス卿の側近であるタラゼド卿のことですかね。タラゼド=シャム=サダクビアは十年以上前の少年時代からレグルス卿の側近として常に傍に控えているはずです。現在サダクビア家と言えば、当主とタラゼドを除けば後は幼い弟と女性ばかりのはずですよ」
「あー、たぶんそれじゃないか? さすがにレグルスのことなんて知りたくもないから記憶が曖昧だけど」
「いけませんよ、殿下。王となるべき者なら、まずは敵をこそよく知らないと」
 そう言うとセイリオスは、レグルスの周囲にいくつもの名前と線を書き足してそのうちの一つにタラゼドの名を書きこむ。
「レグルスとそのタラゼドとやらも従兄弟同士なのか。兄貴と一緒だな」
「ええ。レグルス卿は国王陛下の王弟の息子であり、現サダクビア公爵家当主の姉姫の息子でもありますからね。そしてタラゼドは現公爵の息子。その血縁関係が理由で、サダクビア公爵家はレグルス卿を王にと推すのです。つまり、あなたの最大の敵はレグルス卿だけでなくその背後のサダクビア公爵家となるのですよ。わかっていますか? ゼノ殿下」
「もしかして、あんたが迂闊に告発できない大物って――」
 その名を漏らしかけたゼノの口をセイリオスが素早く塞ぐ。
「軽はずみな発言は感心しませんね。誰が聞いているかわかりませんよ」
「平気だろ。この部屋の周囲に人間の気配はない」
 セイリオスの手のひらを引きはがしながら、無理矢理口を塞がれたゼノが憮然として告げる。
「姿が見えないからと言って……そうか、殿下は鋼竜族だから人間の気配に関しても通常より敏感なのでしたっけ」
 今更ゼノの特質を思い出したセイリオスが気の抜けた表情になる。
「でも、やはり不用意なことは口にしない方が良いですよ。いつどんな形で誰が聞くかわからないというのは本当です。シャウラ様のところのエルナト君級の暗殺者なら屋敷内に潜んでいれば気づかれないとも限りません」
「そうだな……――って、なんであんたがエルナトのことをそこまで知って」
 先日のシャウラはエルナトをただの従業員だと紹介していた。いくら優れた武人であるとはいえ、セイリオスとて確証もなく人を暗殺者呼ばわりはしないだろう。
「シャウラ様に聞きました」
「いつの間に!」
「昨日会ってきたんです。あ、ちなみに風邪は治ったそうですよ。良かったですね」
「それを早く言えよ!」
 じゃあわざわざこんな男のもとで時間を潰す必要はないではないか。迷わず踵を返そうとしたゼノの襟首を、セイリオスが猫の仔を持ち上げるようにがっちりと掴む。
「ぐえっ」
「やだなぁ、殿下。大事な講義がまだ終わっていませんよ」
 一瞬喉首が締まって潰れた声をあげるゼノに、セイリオスが白い歯を見せながら爽やかに笑いかける。だがそれは悪魔の笑みだ。
 ゼノは鋼竜の民だが、外来貴族のセイリオスもこの大陸にはもともと存在しない古い民族であり、その一族は確かにただの人間ではあるが常人と比べて特異なまでに頑強で戦闘技術に長けているらしい。
 おまけにきちんと成人男性の体つきをしたセイリオスとまだ成長途中の細さを残すゼノでは、一瞬に出せる力は種族の違いを考慮してもせいぜい互角だ。ましてやゼノの方が油断していれば、こうして容易くセイリオスに引っ張られてしまう。
「やれやれ。しかし家庭教師がつかないとは困ったものですねぇ。私が教えて差し上げるべきかもしれませんが、王都警備の仕事はそれほど暇ではありませんし」
「俺だって毎日あんたを教師として仰ぐのは嫌だ!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人の傍で、一陣の風が吹き抜けたのはその時だった。
「やっぱりここにいた! 騒いでいるからすぐにわかったよ」
「エルナト?!」
 シャウラの下僕と化したはずの元暗殺者少年の登場と、彼の言葉が先程のセイリオスの発言を裏付けるものだったことに驚いてゼノは叫ぶように名を呼んだ。
「何故君がここに……」
「殿下を探していた。シャウラ様が大変だ」
 非常事態を宣言するエルナトの顔色は酷く青ざめている。
「レグルス卿の使いだと言う人が、シャウラ様を王都の外に連れ出すと言っていた。シャウラ様はそれについて行った」
 事情を聞いて、ゼノとセイリオスの表情も険しくなる。エルナトの語る「使いの男」の特徴は、つい先程まで話題に上がっていた男を思わせた。
「行くぞ!」
 ゼノは力尽くでセイリオスの腕を引きはがすと、はっきりと宣言した。

 ◆◆◆◆◆

「近々、君を迎えに来るよ、シャウラ」
 そんな言葉を本当に信じていたわけではない。けれど彼からの使者だと名乗る男が家を訪ねて来た時、シャウラは手早く身支度を整えると、あらかじめまとめておいた僅かな荷物を持って家を出た。
 シャウラが使者の言葉に従うと言った時点で、エルナトは顔色を変えて姿を消した。どこに行ったかは予想がつくが、使者にはその姿を見られてはいない。シャウラはあえて彼のことを口にはしなかった。
「お待たせしたわね。これでいつでも行けるわ。あとでご近所に引っ越しの連絡くらいは入れさせてくれるんでしょう?」
「ええ。閣下があなたの望みで叶えないことなどありません。さぁ、行きましょう」
 虚しい会話を交わし、馬車に乗る。
 シャウラを迎えに来た若い男は、昔からレグルスの傍で見ていた顔だ。かつては少年だった彼も、今ではその主と同じく立派な青年だ。
 質素な馬車を用意したのは、周囲の注目――ひいてはゼノの注意を引かないためだと彼は言った。先日もレグルスの傍にいた彼は、ゼノとも顔を合わせている。そうでなくともレグルスの側近であれば最近の第二王子の行動ぐらい把握しているだろう。
 石畳のもたらす振動は柔らかな布張りの椅子に殺されて、道中はとても快適だった。見た目は質素でも、その中は貴人を乗せるのに相応しい最高級の品質だ。
 それは、まるで手向けのようだとシャウラは思った。
 馬車は人目を避け、街を離れ、更に人目のない小高い丘へと向かう。このエニフの丘の裾野に広がるアルバリの森から、先日は大量の魔獣が現れて街を襲ったのだ。だが今日この森を通過する時には、魔獣もただの獣もその姿を見せなかった。
 常に風のある場所で、青年は風上に立つ。何かを警戒するように。
 そして彼の意図は聞かずともシャウラにもわかっていた。
「……あなたにとって、私はそんなに邪魔?」
 古くからの顔見知りではあるが、ろくに言葉を交わした覚えのない男、タラゼドにシャウラは問いかける。
「私ではなく、私の主君にとって、ですよ。毒花の姫君。あなたがこの世に存在する限り、あの方は玉座を望まれない」
 タラゼドの声には大分苦いものが交じっていた。苛立ちがまるで手に取るように伝わってくる。
 無理もない、とシャウラは思った。逆の立場であれば、彼女自身きっと主君の想い人を許せなかっただろう。
 恋のために捨てるには、国王の椅子は重すぎた。彼女自身でさえそう思うのだ。だからレグルスの言葉に頷くことはできなかった。
 だから。
 ここで彼女を殺そうとする目の前の男の意図も、理解はできるのだ。その意図に従ってやる気は欠片もないが。
「それでもこれまでは良かった。あの方が誰を想っていようと、アルファルド殿下の代わりに玉座に着くのは我が主しかいなかった」
「あなたを逸らせたのは、第二王子ゼノ殿下の存在?」
 ゼノ・アルアラーフ=ナヴィガトリア。僅か一年前にこの国の第二王子となった青年。そしてもうすぐ、この国で唯一の王太子となるべき存在。
 彼自身が意図せずとも、その存在はナヴィガトリアと言う国に嵐を巻き起こす。偉大なる竜の羽ばたきが全てを死の風で覆い尽くすように、力弱き者たちを翻弄する。ゼノ自身がそれを望むと望まざると。
 シャウラはゼノと言う存在が引き起こす嵐に巻き込まれはしても、その流れのままにやすやすと死の運命を受け入れるつもりはなかった。
 淑女にあるまじき裾さばきでスカートの中から太腿のホルダーに収めた短刀を取り出す。上着の内ポケットからは自作の毒を入れた小瓶を。
 タラゼドが顔を顰める。彼の制服はお飾りではない、本物の騎士のものだ。その実力も。
「抗うおつもりか」
「ええ、もちろん。私がどれだけ強情か、レグルスに聞かなかったとは言わせないわ」
「存じておりますよ。閣下にわざわざお尋ねせずとも、私だとて十二年前からあなたのことを知っている」
 彼は紛れもないレグルスの忠臣だ。シャウラもそれを知っていた。
 心の中で愛した男に謝る。
 あなたの大切な部下を殺す私を、どうか赦さないで。
 出会わなければ良かったとは思わない。けれどどんなに深く想っていても、決して相手を幸福にできない絆もあると彼女は知っていた。
 所詮自分は――。
「さぁ、跪きなさい。私は最後の毒姫。この世のどんな男も私の毒には勝てないことを教えてあげる」
 すべてに死をもたらす、未来をもたぬ女なのだから。