花は毒姫 04

12.王子様にキスを

「アル・ナティー。アルファルド殿下。アル、あなたがそうだったの?」
 ゼノがようやく彼女に追いついた時、シャウラは部屋の入口で自らの口元を手で押さえるようにして震えていた。
 レグルスを殺した時でさえ零れ落ちなかった涙が、その黄金の瞳にすでに浮かび上がっている。
 一体二人の間に何があったというのだろうか。
「嘘よ、アル。温厚で優しい第一王子殿下? 私、そんな人は知らないわよ。私が知っているアル・ナティーは、私にとっては可愛い弟のような存在でも、周囲にとってはとんでもない悪戯っ子だったわ。周りの子どもを噴水に突き落とすだけならまだしも、毒蛙をベッドの中に潜ませた時には本気でお尻を引っぱたいたもの」
「おい、兄貴。そりゃ冗談でなくものすごいクソガキじゃないか……」
 呆れるゼノの言葉に、アルファルドの力ない笑いが被さる。
「ふふ。あのお仕置きはさすがに痛かったですねぇ……噴水に落とした公爵閣下や蛙事件の伯爵令息にも一度はお会いして謝らなければいけないと思ったんですけれど……」
 長文を喋るのに疲れたのか、アルファルドはそこで一度息をついた。
 目の下に薄く黒い影ができている。死が近い。誰が説明せずともわかる。
「残念ながら、もうこれ以上猶予はないようです」
「毒姫様!」
 シャウラの足下に、一人の侍女が縋りつく。ゼノも顔馴染みの、アルファルドと仲の良い一人だ。
「お願いです! アルファルド様に奇跡の力を使ってください! 王位なんていりません! ただこの方が穏やかで幸せな日々を得られるよう、ほんの少しだけでも寿命を延ばして――お願いします! 命を奪い、命を与える聖女様!」
 ゼノだけでなくアルファルドと馴染み深い面々は必ずシャウラの話を聞いている。彼女の特殊能力もその容姿も知っていたのだろう。室内の面々の注目が――期待の眼差しがシャウラに集まる。
 生来病弱ながらも温厚で優しい第一王子を、この城の誰もが愛していた。王位などいらないと侍女が勝手ながらも口に出して懇願するのは、だからだ。王として望むのではない、ただ、生きて幸せになってくれさえすれば。
 だが、シャウラの表情は凍り付いたままだ。
 その瞳から、他者にとっては毒でしかない透明な涙が零れる。
「駄目なの……」
 シャウラがその場で膝から崩れ落ちる。
「姫様?」
「駄目なの! できないのよ! 《霊薬の民(イクシール)》の血は、二度目は必ず死を与える! 一度だけ、救えるのは一度だけなのよ!!」
 カチリと最後のピースが嵌まる音がした。
 シャウラの叫びに、ゼノはようやくアルファルドの顔と名の一致した彼女が青褪め涙を流す訳を理解する。
「二度目は死――。兄貴はもうすでに、シャウラの血を受け取ったことがあるんだな?!」
「そうだよ。ゼノ、僕は本当は、君が生まれる前にすでに死んでいるはずだったんだ」
 アルファルドの表情は、死をすぐそこに控えたものとしてはあまりにも穏やかだった。
 彼はすでに覚悟を決めていたのだ。あるはずのないこの十二年間を与えられたその日からずっと。
「今僕がここにいられることそのものが、全部姉さんのおかげだ。十二年前のあの日、姉さんが奇跡を与えてくれた。《霊薬の民(イクシール)》の力で僕を救ってくれた」
「アル。私はあなたが第一王子だとは知らなかった。ただあなたを生かしたい一心で初めて力を使い、そして――私の二度目の血が間違ってあなたの命を奪わないよう、この城を離れた」
 誰も知らなかった、シャウラが十二年前に王城を離れた理由。ゼノは息を呑む。
「はい……ごめんなさい、姉さん。僕はずっと知っていました。全部全部僕のせいで、そして僕のためだということを」
 ゼノはシャウラの涙に触らないよう気を付けながら、崩れ落ちたその肩を抱く。そして兄の言葉に耳を傾けた。
「十二年前、御両親を亡くされたあなたは岐路に立っていた。毒姫としての覚悟を背負って一人で生きていくか、その力を絶対に使わないことを条件に、普通の人間と同じように城に住みつづけるか。けれどあなたは僕のために力を使い、僕を殺さないために城を出た」
 過去を懐かしむ眼差しは深く、アルファルドの口元には、ほろ苦い笑みが浮かぶ。
「あの頃、僕は全てにおいて自暴自棄だった。あなたのことは大好きだったけれど、それでも最後のあの日までは、その愛情も全てを信じ切っていたわけではないんです。あなたが僕をクソガキだと思っていたのは、噴水突き落とし事件や毒蛙事件のことだけじゃない、この話を覚えているからでしょう?」
 そこでアルファルドは何故かシャウラではなく、彼女を支える形で跪いたゼノへと視線を向けた。
「ゼノ、僕はあの日まで、ずっと君が嫌いだった。君なんて生まれて来なければいいと思っていた」
「……ええええええええ?! い、今更?!」
 話の矛先を向けられたゼノは、動転して妙な声をあげる。これまでずっと優しくしてくれて王城内で唯一の味方だと思っていた兄の死ぬ間際の思いがけぬ告白に、衝撃が大きすぎて落ち込むことすらできない。
「安心して、あの日まで、の話だから。今は君のことをちゃんと大切に思っているよ。生まれる前から僕の弟になるはずだった君を」
「……国王陛下がクルシス公爵の子どもを養子として迎える話は、ゼノが生まれる前からあったのね? だからあなたは、今度弟か妹ができると言っていたの?」
 だいぶ落ち着いたシャウラの話ぶりによると、やはり彼女はアルファルドのことをしっかりと記憶していたらしい。
「はい、そうです。僕がこんな体でしたから、養子の話は十二年前からすでにありました。一年前にようやく実現したのは、国王陛下というよりクルシス公爵の意向です。あの方は立派な父親でした。せめてゼノが自分で物事を決められる年齢になるまでは、ちゃんと手元で心を育ててやりたいと仰った」
 父がそんなことを? ゼノは目を瞠る。
 この話を知っていたのは国王とアルファルド、そして養子の打診を受けたクルシス公爵ファクトと一部の重臣のみらしい。レグルスですら知らなかった極秘事項であることを考えれば、そんな裏事情の断片を語ってしまったシャウラ相手にアルファルドが正体を隠し続けたのはある意味正しかったと言える。
 だが、幼い頃のアルファルドがシャウラに自分の正体を告げなかったのは、そんな賢しい政治的配慮からではない。
「姉さん、僕はずっとあなたに憧れていました。だからあなたに僕だけの特別になってほしかった。でもあなたは僕の求婚をさらりと断って、僕を『弟』と呼んだ」
 初恋どころか求婚済?! ちょっと待てそれは初耳だぞといきり立つゼノに軽く肘打ちを喰らわせて黙らせると、シャウラがふらりと立ち上がる。
 もう話をするのも苦しそうなアルファルドの寝台に歩みよりその枕元まで行って痩せ細った手を握った。
「あの頃の僕は本当に誰もが認めるクソガキでしたね。誰もが僕の王子としての価値しか考えていない中、僕を王子として見ないあなたの愛情だけが、僕にとっての本物だった。でもあなたの愛情は僕だけに向けられるものではないことも知っていた」
「アルは私がレグルスと会っている時は、絶対に顔を出さなかったわね。何度紹介すると言ってもすぐに隠れてしまう」
「ええ。王子であることがばれてしまうし、それに単純に悔しかったから……」
 肘打ちの痛みから立ち直ったゼノも、シャウラと同じく寝台に歩み寄る。
「だけどあの時、それまでにない大きな発作を起こしてそのまま死ぬところだった僕を、あなたが自ら忌み嫌う力を使ってまで救ってくれた。それで僕は、あなたが本当に僕を愛してくれていたことを知ったんです。あのまま僕を見殺しにしていれば、あなたは無力な他の人々と同じように城にそのままいられたでしょうに……レグルス兄上の傍にいるには、その方が良かったでしょうに……」
 禁というほど固いものではないが、霊薬の民の奇跡は使おうと思わねば存在しないのと同じだ。毒性にさえ気を付けていれば、確かにシャウラが城に残ることもできただろう。
 だが、彼女はそうしなかった。
 シャウラはレグルスへの恋心より、『弟』のアル・ナティーへの愛情を優先したのだ。
「それから僕は心を入れ替えました。あなたが与えてくれた時間。僕が本来得ることができないはずだった時間。それを無駄にしないように、僕にできることをしてみようと。僕の命もここに生きていることも無駄じゃない。だって、あなたが愛してくれたのだから。あの時、あなたは言ってくれた。もう二度と会うつもりはない――」
「――けれど、どんなに離れていても、例え二度と会えなくても、私はあなたを愛している」
 目を閉じ、懐かしい過去を思い返すようにシャウラは囁いた。
「私の可愛いアル。だからどうか、幸せに……」
 シャウラの瞳にまた涙が溢れる。他者にとっての猛毒なのだとは信じられない程に澄んだ、透明な涙。
 アルファルドが熱に潤む瞳を輝かせる。それは彼の命の最期の煌めきだ。

「ずっと、世界を憎んでいました。
 なぜ自分をこのような生き物に造ったのかと、神を呪いました。
 自分が幸福になれないのだから、他の誰も彼もが不幸になればいいと思っていました。
 それが自分を脅かす存在なら、家族なんていらない。弟なんて……ゼノなんて生まれて来なければいいと思っていました。
 でも、そうやって世界を恨むのを、僕はやめることにしました。
 どんなに強く立っているつもりでも、僕は本当は誰かの愛を欲しがっていた。
 あなたが愛してくれて、ようやく気付くことができました。自分が誰かに愛されたいと、そして愛したいと願っていることを。
 あなたが愛してくれたから、愛するということも理解できた。
 だから僕はゼノに教えました。傷ついた人がいたら手当てをして、泣いている人がいたらその涙を拭ってあげなさい。
 そうすることが、この十二年間僕を幸せにしてくれたようにきっと君自身を幸せにしてくれるからと……」

 愛情は巡りくる。誰かに伝えたものがまた誰かに伝わって、いつか自分自身を救う。
 それはゼノがアルファルドに教えられたことで、もとはアルファルド自身がシャウラに教わったことだった。
「姉さん、この十二年間、あなたは僕の傍にいなかったけれど、僕はあなたのおかげでずっと幸せでした。でも僕は弟として、そしてあなたを愛する者として一言言っておきたいこともありました。だからゼノに無理を言って、あなたをここまで連れてきてもらったんです」
 アルファルドの口調に熱が籠もる。その生き生きとした青空のような瞳の輝きを見ていると、彼が今にも死にそうな人間だとは思えない。
 けれど今度こそ間違いなく、彼の命は尽きる。その前に伝えたい言葉を、もうすぐこの国の王子ではなくなる者は唇に乗せる。
「どうか、諦めないでください。あなたが僕の命を諦めなかったように、あなた自身の幸福をあなた自身が諦めたりしないでください」
「アル……」
「死者は生者に何もできません。命がある間しか、人は生きられない。でも生きている限り、可能性は常に存在する。あなたは十二年前二度と僕と会わないと言ったけれど、僕はゼノのおかげでこうしてまたあなたに会えました。これが命の持つ力です。あなたが与えてくれた奇跡です。……だからあなた自身を、どうか嫌わないで」
 シャウラの唇が戦慄いた。
「あなたの持つ血も力もその心も命も、全て素晴らしいものなのだと、どうか信じて」
 金と青の瞳が見つめ合う。アルファルドは先程から、返り血だらけのシャウラやゼノの姿に何も言わない。城内のざわめきに関しても動じない。もう自分がそれに関しては、何もできることはないと知っているから?
「そしてもしも、最後にもう一つだけ我儘を言わせてもらえるならば、どうかゼノのことをよろしくお願いします。この子はあなた以外でこの国に唯一の民族……あなたにしか、ゼノは導けない……」
「兄貴!」
 アルファルドがまさか自分のことを考えてシャウラをここまで呼んだとはゼノは思わなかった。驚いて目を瞠る弟に、彼は告げる。
「ゼノ、君がいてくれて、良かった」
 喋ることに最期の精力を傾け過ぎたのが、その顔色はあまりに蒼白で目元には影が浮かんでいる。近侍が国王を呼ぶように使用人たちに言いつけたらしいが、陛下はまだ到着しない。
そしてアルファルドはいつものように、淡く微笑みながらその言葉を口にした。
「『どんなに離れていても、例え二度と会えなくても』、僕はお前を愛している」

 ――どんなに離れていても、例え二度と会えなくても、私はあなたを愛している。私の可愛いアル。だからどうか、幸せに……。
 ――わかったよ、姉さん。

 ――僕は、幸せになる。

「俺も、俺も兄貴を愛してる! 誰より感謝してる!」
「立派な、王に、なって、ね……」
「当たり前だ!」
 吐息が尽きる。緩やかに瞼が降り、揺れる青空の瞳を閉ざす。その口元だけが、最期まで仄かな笑みを刻んだまま。
 十二年という時間は、彼にとって長かったのだろうか。短かったのだろうか。どれほど永い時間であったとしても、過ぎ去ってしまえばまるでひとときの夢のようにしか感じられないこの世界で。
「……約束、守ってくれたのね」
 シャウラが俯いてその手を抱きしめるようにアルファルドの体に縋りつく。奇跡はもう二度と起きず、青年は眠るように静かに横たわったままだ。
 それでも、かつて幸福になると誓った少年は青年となり、その生命の時間を全うした。あの日の可哀想な子どもはどこにもいない。
 ゼノは自分も兄の寝台に突っ伏す。滅多に傷を負うことのない鋼竜の身も、その痛みにだけは涙を流さずにはいられないとわかっていた。