第1章 月夜の時盗人
1.白兎との邂逅 001
夜の帳が降りた頃、人々は夢の時間からようやく目を醒ます。
目の前をふわふわと行き過ぎるしゃぼん玉がぱちんと割れたように、現実へと帰って行った。
誰もが自然と手を打ち鳴らして万雷の拍手を舞台へと送りはじめた。南国の鳥たちのように色とりどりの華やかな衣装を身に纏い、鮮やかな夢を見せてくれた彼らへ。
そして、サーカスの幕が降りる。
◆◆◆◆◆
「凄かったわね」
「派手な千秋楽だったよな」
同じ劇場から出てきた人々は口ぐちに、家族や恋人と今まで見ていた公演についての感想を話し合っていた。
姉弟二人でサーカスを見に来ていたアリストとダイナも例外ではなかった。今日の公演に関する話は尽きない。
「まるで怪盗ジャックの犯行のようだったわ」
「いやいや姉さん、それって逆でしょ。ジャックの犯行が『曲芸師的』だって評されるんだよ」
アリスト=レーヌは、ダイナ=レーヌの弟だ。
彼は四月一日の今日からジグラード学院高等部二年生となる。始業式は五日だが、制度上今日からもうすでに高等部二年だ。
アリストの外見は一言で言うと、金髪碧眼の美少年。すらりとした中背で細身、線は細いが病的な感じはしない、文句のつけようもない容姿。
成績優秀で、学年成績は常に総合二位につけている。ジグラード学院の履修科目は多岐にわたるため、運動神経ももちろん悪くはない。
ただ一つ、彼と言う人間に難があると言えば――。
「本当に良かったわね。まさしく夢の世界だったわ。ルイツァーリ先生にお礼を言わないと」
姉のダイナの一言に、アリストはサーカスがもたらす夢の世界からしっかりと現実へ戻ってきた。彼女の口から零れる気に食わない男の名前に思わず釘を刺す。
「姉さんはそんなこと言わなくていいよ」
「え? どうして? アリストも知っているでしょう? 今日のチケットをくれたの、ルイツァーリ先生なのよ?」
「そうだね。じゃあ俺がヴァイスに礼を言っておくから、姉さんは何もしなくていいよ」
怪訝な顔をする姉から視線を逸らし、アリストはここにいない男に向けて、憎々しげに舌を出した。
ダイナ=レーヌはアリスト=レーヌの姉。
彼女は今年で二十五になる。ジグラード学院の教師の一人だ。
背に流れる豊かな黒髪にルビーのような紅い瞳。白い肌は染み一つなく、スタイルの良さはまるで女優のようだった。
清純な色香、厳格にして鷹揚、人好きのする空気と高値の花の空気という、矛盾する魅力を無理なく併せ持つ謎めいた美貌の女性だ。
弟のアリストでさえ彼女がどこまで意識的に自らの魅力を使い分けているのかわからなくなるのだ。彼女の虜となった男たちは、自然と彼女に翻弄される。
その筆頭が、今のレーヌ家の隣人であるヴァイス=ルイツァーリという男だった。
ダイナと同じくジグラード学院の講師である男は、彼女目当てにわざわざ隣家へと越してきたつわものだ。
アリストがヴァイスを気に入らないのは、そういうところである。ヴァイスは他のどんな男よりも、熱烈にダイナにアプローチをかけている。
しかしアリストとしては、大事な大事な大事な姉を、そんな一歩間違えればストーカーになりかねない男に任せる気は一切ない。
――そう、容姿端麗で文武両道な優等生アリスト=レーヌ。
彼の性格の難点は、もはや手の付けられない程に強烈なシスターコンプレックスだった。
◆◆◆◆◆
ゆっくりと春の夜風を感じながら二人、道を歩く。
アリストは姉のダイナが大好きだった。彼女以外の女性には興味の欠片もない。シスコンと友人知人にからかわれることもしょっちゅうだが、態度を改める気はない。
ダイナはダイナで、彼女に心を寄せる他のどんな男よりも弟のアリストを優先してくれる。 彼女の欠点もまた、弟を大事にしすぎるところだった。
月は明るく、街灯のない道を照らしていく。
隣人のヴァイスからもらったチケットで、二人はサーカスを見に行った。ヴァイスとしては自分とダイナの二人で見に行くつもりだったのだろうが、二枚ともそのまま渡されたダイナは極自然にアリストを誘ったのだ。
公演ももちろん楽しかったがそれ以上に気に食わない男が姉をデートに誘うのを無事に妨害できた喜びで、アリストは半ば浮かれ気分で道を歩く。
サーカスが終わった後、二人は近くの店で食事をした。劇場を出たのは夕方頃だったが、今はすっかり月も昇った春の夜だ。
これからモノレールに乗って数駅の自宅へと帰るのである。
この四月は一日から幸先がいい。そう思いながら駅に向かう道の途中でふと視線を巡らせたアリストは、信号の少し先で妙なものを見つけた。
「ん……」
――路地の隙間からだらりと伸びた、人の、手。
慌てて目を擦るが、雑多な街並みの暗がりにそんなものはもう見えない。行き過ぎる人々も誰一人同じ光景に気づいた者はいないようだった。
「まさかな……見間違いか?」
そう考えるのがもっとも自然だ。だが。
だが、彼が見たのは、まるで力を失って落ちたかのような、人の手。
いっそ腕だけの心霊現象とかならば話は早い。気にせず家に帰るだけだ。
しかしアリストが見た様子だと、あの腕の落ち方は意識を失った人間のようだった。
酔っ払いか何かが路地で眠り込んでしまったのだろうか? だから誰も気にしないと?
「……う~~ん」
「アリスト? どうしたの?」
信号の色が青に変わる。歩き出さない弟に、ダイナが不思議そうに声をかけて促す。
「ごめん、姉さん……俺、ちょっと知り合いを見かけたかも。先に帰っててくれる?」
「え? そうなの? ……この時間ならまだ大丈夫だと思うけど、気をつけなさい」
「はーい」
見た目にそぐわぬ「良い子」の返事をかえしながら、アリストは姉と別れて駆けだした。
まだ世界は明るい。月もネオンも煌々と照っている七時台であれば当然だ。この辺の地理なら、交番の位置も知っているから大丈夫。本当に酔っ払いであれば救急車を呼ぶなりその辺りに担ぎ込むなりすればいい。
だが、何故か神経を刺激するような不安は消えない。
あれをただの見間違いだと無視して帰ることはアリストにはできなかった。
目標の場所に固定した視線の中、その不安を裏付けるように先程とは明らかに別の白い手が、中身のない衣服を拾っていた。
◆◆◆◆◆
「……なんだ? 今のは」
先程アリストが見かけた誰かの腕。それが一瞬にして消え去った暗い路地にようやく辿り着く。
しかしアリストに見ることができたのは、中身のない衣服を誰かが回収していくそのシルエットだけだった。
間一髪で相手は踵を返し、駆けてきたアリストに気づかずに去っていく。角を曲がって消えるその姿を見送りながら一瞬立ち止まったアリストは思わず考え込む。
「今の人影は……さっきの腕の主は、結局どこに消えたんだ?」
不可思議な現象はやはり心霊現象でもなければ、酔っ払いの行動でもなさそうだった。
この路地で誰かが倒れ、そして身に纏っていた衣服だけを残して「消えた」。その衣服を、誰かが回収していったのだ。
さっぱり意味がわからないし現実のものとも思えない。けれどこのままにはしておけないように思えた。
好奇心は猫を殺すという言葉を思い出しながらも、アリストは先程の謎の人影を追うことに決める。
考え込んでいた時間は僅かだ。アリストに気づかず去った人影はゆっくりと歩いていた。今から追いかければ間に合うだろう。
頭のどこかが警鐘を鳴らす。ここから先は見てはならないものだと。
けれど暗い路地から零れるように落ちた、血の気を失った腕の映像が瞼から剥がれない。
衣服を回収した人物にはすぐに追いついた。尾行に気づかれないよう注意しながら歩いていく。
相手の髪は白い。暗い夜の路地でもその白さは目立ち、後をつけるには困らない。
路地裏を出て平然と歩いていくその相手が次に赴いたのは、人気のない近くの公園だった。
こんな時間に公園に遊びに出ている子どもなどいるはずないだろう。確かアベックに人気があるのは別の公園で、この公園は先月通り魔被害があったとかでますます人が近寄らない場所のはずだった。
そんな場所に白髪の人物は迷わず足を踏み入れ、更に彼を待つかのように一人の人物がベンチに座っていた。
スーツを着込みアタッシュケースを抱えたビジネスマン。しかしその顔は、恐怖に引きつっている。
何を恐れている? この白髪の人物か?
この尾行の最中後ろ姿だけを見ていた白髪の人物は、ほっそりと華奢で男か女かも判断がつかない。衣服や手足の様子からなんとなく年若そうな……少年なのではないかと思う。
正面から見ればまた印象が違うのかもしれないが、少なくとも外見からは、体格の良い成人男性が恐れるような相手とは考えにくい。
けれどビジネスマンの顔は紛れもない恐怖に引きつり、ベンチからばね仕掛けのように立ち上がると、白髪へとアタッシュケースを差し出そうとする。
差し出された白髪は、無情に首を横に振った。
「時間切れだ」
「なっ……!」
「“ハートの女王”がお怒りだ。あんたはもう、用済みなんだってさ」
白髪の声は、アリストが予想した通り少し高めの少年の声だった。
しかし彼の言葉は意味がわからない。ハートの女王? なんだそれは。
古代にとても流行していたという、とある物語のキャラクターか、それともトランプのクイーンか。
そんな些細な疑問は、次の光景への驚きに取って代わられる。
「やめろ!! 私はまだ死にたくな――」
白髪がすっと腕を上げた。アリストにわかったのはそれだけだった。
ナイフで刺したとも銃で撃ったとも思えない。凶器の姿は影も形も見えない。
それどころか、物陰から覗くアリストの前で繰り広げられたのは、この世のものとは思えない光景だ。
スーツの男の顔が、手足が、突然縮んでいく。
――否、若返っているのか。驚異的な速さで時を逆行するかのように、その顔立ちから年相応の皺やくすみが減り、髪が黒々とし、それだけではなく体がどんどん縮んでいく。
壮年の男の顔が青年となり少年となり幼児となり――仕舞いには消えてしまった。
後に残ったのは、着る人間を失くして残った上等そうなそのスーツだけ――。
悪夢のような光景に呆然とするアリストの耳に、白髪の声が届いた。
「あと十五、六年ってところだな」
彼は手元で何かを確認したらしく、そんなことを言っている。先程の会話以上にまったく意味がわからないというのに、その台詞には本能的な危険を感じた。
「まぁ、今回はすぐに集まりそうだけどね」
くすくすと密かに笑う気配がする。
そして彼は――振り向いた。
「ねぇ、出ておいでよ。迷子の迷子の仔猫ちゃん? それとも、白兎を追いかけてきたアリスちゃんと言うべきかな?」
初めて見た彼の紅い瞳。冷ややかな眼差しは、まっすぐにアリストの隠れている方向を貫いていた。