Pinky Promise 004

第1章 月夜の時盗人

1.白兎との邂逅 004

 誰かの死を願ったわけじゃない。
 ただ、取り戻したかっただけ。
 失った過去を。戻らない時間を。この手のひらから零れていくすべてのものを。
 けれどそのせいで、また誰かが何かを喪って行くと言うのなら――。

 微かな音を耳にして振り返る。
 追ってくる彼女は銃の扱いに慣れてはいない。それは自分にも言えることだが、彼女よりはマシな腕前と言えた。
「“チェシャ猫”!」
 コードネームで呼ばれ、振り返る。
「戻りなさい! いくらあなたでも、教団を裏切るなんて許されないわ!」
 引き留める声は悲痛だった。追手とは言っても、実際彼女に自分を連れ戻すだけの力はない。
 彼女は本当に自分のためにこうして追いかけて来ただけだった。わかっている。それでも。
「戻らないわ」
 きっぱりと言い切ると、彼女の顔が歪んだ。降り出す前の空のように曇り、雨のような涙が頬を滑り落ちる。
「姉さん、私――」
「貴様!」
 眼前の彼女に気を取られて隙ができた。扉を破る勢いで現れたもう一人の追手は、情け容赦ない殺し屋として有名な男だ。
「待って!」
 姉と呼んだ彼女の制止も虚しく、男の手から放たれた魔導の攻撃が向かってくる。チェシャ猫は咄嗟に防壁を張り――。
 術の効果を幾割か相殺して、命からがらなんとかその場を抜け出した。

 ◆◆◆◆◆

 絶体絶命。嫌な四字熟語だ。
 かと言ってこの状況で他に希望ある言葉は何一つ思い浮かばない。
「なるほど……禁呪に失敗するとこうなるのか」
 紅い騎士服に蒼い髪の少年は、珍しい動物でも見るような目でアリストを観察している。
「見た目は子ども以外の何者でもないが、確かにその眼光は見た目通りの子どもに持ちえないものだ。……若返りか。不老不死の技術としてでも売り出せば儲かりそうだな」
「なんだかよくわからないが、あんたが悪趣味だということだけはよくわかった」
 ここで相手を怒らせるようなことを言うのは得策ではない。それはアリストにもわかっている。だがどうしてもこんな場合、ただ恐怖に震えているだけなどという態度がとれないのがアリストという人間だった。
 アリストの言を受けて、赤騎士はにやりと面白そうに笑う。
「悪趣味とは失礼な。では私の趣味の良さを教えてやろうか。確かに不老不死などという愚かな夢を求める人間はいつの時代も溢れかえっているが、その方法を広めて世界を混乱させるのは本意ではない。――だからやはり、お前には死んでもらうとしよう」
 イカレた魔導学者共にモルモットにされるよりは良いだろう? といい笑顔で尋ねて来る。勿論、アリスト当人にとってはどちらをとっても冗談ではない提案だ。
「どっちも御免だね! それより、俺の姿を元に戻せよ!」
 力の入らない手足を動かし、アリストは両手で印を組んだ。授業で習った知識を総動員させ、魔導戦闘の構えをとる。
「ほぉ……」
 赤騎士が関心するように顎に手を当てた。
 今の時代、魔導という学問は複雑な位置にある。かつて魔術、魔法と呼ばれたその力は、現在多くの人間にとって馴染みのないものと化していた。お伽噺だ、コミックにおけるファンタジーだと実在を否定される一方で、極一部にはまだ本物の魔導師が残っている。
 アリストは身近なところにヴァイスという魔導師を知人に持ち、自らも魔導の適性をかなり持っていた。その才能を学院で伸ばされた結果が、白兎にかけられた禁呪の何割かを防いだのだ。
「あんたはあの白い男の仲間なんだろう? お前たちは何者だ? そして俺に何をした?!」
 赤騎士の言から察するに、彼は白兎の仲間のようだ。白兎がアリストに何をしたのかもわかっていて、その後始末にアリストを今度こそ完全に口封じするつもりで来たのだろう。
 逆に言えば、この赤騎士をなんとかすれば白兎に辿り着くこともできるのだ。元の姿に戻るためには、何としてでも白兎に禁呪を解かせねばならない。
 多少の適性があるとはいえ、もはや魔法がお伽噺だと思われている時代。アリストは簡単な術ならばいくつか使えるが、その魔導の構成を理解するとなるとさっぱりだ。
 以前にヴァイスの授業で習った。魔法は基本的に、その術をかけた術者に解かせるのが最も安全で確実だと。それが他者に構成を看破されない独自の禁呪なら尚更だ。
 しかしアリストの目測は、次の赤騎士の言葉であっさりと否定された。
「お前からは“時間”を奪った。……と、言うことらしいが、私やアルブスに聞いても無駄だぞ。その禁呪の開発者は別の人間だからな。アルブスは算出された計算式を使ってお前に術をかけただけ。解除の仕方なぞ奴もしらないだろう」
「え?!」
 話の流れから察するに、アルブスと言うのがアリストをこんな姿にしたあの白兎少年の名らしい。予想外の展開に、アリストは呆然とする。
「そもそもこの術は本来相手が死ぬまで“時間”を奪い尽くすもの。生き残る方が前例の少ない結果らしいからな。戻す方法自体、存在するのかどうか」
 こればかりは開発者に聞いてみないとわからん、と。本気で首を傾げる赤騎士の姿は、とても嘘をついているようには見えない。
 では自分は、もう一生この姿のまま、元に戻ることはできないのか?
否。
 まだだ。まだ諦めるには早い。
「それでもあんたを捕まえれば、あんたたちの同僚だか上司だか知らないが、その術の開発者とやらに合わせてもらえるだろう?」
 凍えて感覚のなくなってきた指先に魔力を通わせる。
 微笑んだ赤騎士がどこからか、それこそ博物館でしか現物を見れないような長剣を取り出した。銃刀法違反と物理法則無視のどちらから突っ込めばいいのか、もはやわからない。
「できるかな? 今はただの子どもでしかないお前に、私たちを捕まえるなどということが」
 これは一つの賭けだ。肉体に完全に依存するわけではない魔導の力が元の――十七歳のアリスト=レーヌのままなら、この姿でもある程度の抵抗はできる。
 目の前の少年は恐らく強い。隙のない身のこなし。重そうな鋼の塊である長剣を軽々と手にしたその立ち姿。
 けれど、負けるわけには行かない。
 絶体絶命な状況を覆す。自分の人生には自分の力でもっと前向きでポジティブな座右の銘を掲げるのだ。
 お前たちは何者だ、という先程のもう一つの質問に結局答えてくれなかった赤騎士が、謎めいた言葉を呟く。
「さて、お前は本物の“アリス”になれるかな? それともこれまでのように、“出来損ないのアリス”のままで終わるのか」

 ◆◆◆◆◆

 結果から言うと、アリストが退行してしまったものは、ただの肉体的な能力だけではなかった。
「ぎゃん!」
 剣の刃ではなく側面で吹っ飛ばされただけ、それでも子どもの体は風に煽られる木の葉のように軽々と宙を舞った。
 アリストが仕掛けようとした魔術は発動しなかった。愕然としながらも、それをきちんと習得したのが十三歳頃だったことを思い出す。
「ぐっ……!」
「なるほど。やはり知識以外は全ての能力が若返っているのか」
 赤騎士が面白そうにしみじみと頷いている。手加減するつもりではないだろうが向こうにとっては様子見の一撃で、アリストは早くも殺されそうになっていた。
 今のアリストの外見年齢は六、七歳程度の幼児だ。記憶や思考能力に変化が感じられなかったので期待していたが、その他の能力は発揮できなかった。
 天才には程遠い秀才型の優等生であるアリストがこの十年程かけて習得してきた技能は、奪われた時間と共に失われてしまったらしい。
 こうなるともはや、アリストに目の前の少年に抵抗する手立てはない。只者ではない気配を発する赤騎士は元の体でだって対抗するのが難しいと思われる相手だ。ましてやこんな小さな子どもの体でなど――!
「残念なことだ」
 殺されそうになっているアリストではなく、何故か殺す側の赤騎士が落胆の様子を見せた。
「今度こそ、出来損ないではない本物の“アリス”が誕生するかと思ったが」
 だから、その「アリス」とは何なのだ。赤騎士は自らの所属する組織について語らなかったし、白兎がアルブスと呼ばれていたからと言ってそれで何がわかるわけでもない。
 死ぬのか? こんなところで。こんな姿で。
 何一つわからぬまま。姉のもとへ帰れぬまま。
 そんなことは――。
 僅かな金属の擦れる音さえさせず、こちらの首を落とそうと長剣が振り上げられる。
 次の瞬間、何かがその刃を弾く音がした。これまで生物として不自然な程に己の気配を殺していた暗殺者が、動揺を露わにする。
「そいつを殺されると困るな。私の愛しいダイナが悲しむ」
「貴様!」
 聞き覚えのある声がいつも通りのふざけた台詞を口にした。アリストはハッと顔を上げる。痛む体をおして上半身を持ち上げた。
「ヴァイス?!」
「――“白騎士”ヴァイス=ルイツァーリ!」
 異様な熱意を持って姉につきまとう隣人がそこにいた。しかも妙な二つ名を添えて、赤騎士までもが彼の名を呼んだ。
 そんなヴァイスの横には、何故か半透明の光る犬がいる。
 あれは魔法だ。そうか、ヴァイスはダイナにでも頼まれて、その魔術で姿に関わらず「アリスト」を見つけ出したのだ。
「久しぶりだな。“赤騎士”ルーベル=リッター。そこのクソガキが自力で対処できないトラブルなど余程のことだとは思ったが、まさかお前が関わっていようとは」
「こちらこそ、まさかとんだイレギュラーの小僧が、お前の身内だとはな」
「身内言うな。寒気がするわ」
 ヴァイスは本当に嫌そうな顔で肩を竦めると、その視線をまだ半身を地に伏せるアリストへと向けた。
「よぉ、クソガキ。しばらく見ないうちに随分身長が縮んだな」
「ヴァイス、てめー」
 にやり、と赤騎士に負けず劣らず面白がる様子しか見せない隣人に、アリストは思わず顔を顰める。状況からしたら助けに来てくれたはずなのだが、普段の自分たちの関係のためにどうもそうは思えない。
「もう夜も遅い。お前たちの間に何があったのかは知らないが、ひとまずは退散させてもらおうか」
「待て!」
 顔色を変えた赤騎士の制止は当然聞かず、ヴァイスはその手から一つ、光の珠を生み出して地面に叩き付ける。衝突の瞬間から溢れだした煙が一気に周囲を目隠しするように覆う。――煙幕だ。
 アリストの体が不意に上から持ち上げられた。ヴァイスに回収されたのだとはわかったが、どうにも感触がおかしい。振り返るとそこにはつぶらな獣の瞳があった。
「げ」
「騒ぐなよ。ここで奴と斬り合うのは私にとっても不都合だ。ひとまず撤退する」
 光る犬にアリストの体を運ばせて、ヴァイスは赤騎士を捲き、この場から離脱する。