第1章 月夜の時盗人
2.チェシャ猫の道標 007
『――むかし、むかし
創造神がかつて名を持っていた頃、かの方はその強大な力を以て世界と数多の神々、数多の種族、そして人間を作り出した。
創造の母の子たる神々は長兄である太陽神フィドラン、長姉である月神セーファを中心に協力して、生き物たちが暮らしやすいように世界の形を整えた。
フィドランが目覚めを促し、セーファが眠りを与える。大地神ディオーは様々な植物を生み出し、自らの力を分けて花神を作り上げた。海神アドーラは海とそこに住まう生き物を管理した。癒しの神ネルクが生き物たちの生活を支え、その終わりには冥神ゲッセルクが役目を終えた命を永遠の夜の国へ連れていく。
そして創造の神が創り出し、神々の末子たる破壊神が壊す。
しかしこの世の平和は永く続かなかった。快楽と背徳の神、悪神と呼ばれたグラスヴェリアが神々の作り上げた平和を退屈に思い、セーファの領空たる夜空から悪意の星を一つ盗み出し、それを一人の人間に与えたのだ。
グラスヴェリアに悪意の星を与えられた者は辰砂と名乗る魔術師だった。辰砂は生来の魔力に加え神々の力の一部を手に入れたことにより、神々にも匹敵する実力を手に入れた。やがて彼は自らの力が神よりも優れていると驕り高ぶるようになり、世界を作り上げた創造神へと戦いを挑んだ。
辰砂の力は人とも思えず強大であり、彼はついに世界の母たる創造神からその「名」を奪った。しかし母神を守るために集まった神々の一人、破壊神と相討ちになり、彼自身も多くの力を奪われた。
創造神は名を奪われたために永き眠りにつき、創造の神と対の存在である破壊神も母神と同じく名を秘されて眠ることを余儀なくされた。辰砂は多くの力を破壊神に奪われたが創造神から奪った力で不老不死となり、今もこの世界のどこかで生きていると言われる。
創造神の名と力を奪った辰砂はこれ以後“創造の魔術師”と呼ばれることになった。
神々は母神の眠りを嘆き悲しみながら、創造神がいない分の世界の均衡を保つ役目につき、いつの日にか来(きた)るはずの創造神の目覚めを待つことにした。
――フローミア・フェーディアーダ神話 神々と創造の魔術師 』
◆◆◆◆◆
「――と、これが、この世界が『フローミア・フェーディアーダ』と呼ばれるようになってから生まれた神々の神話だ」
便宜上創造神と名をつけられた女神がいる。しかし、古代史について研究が進んだ現在、その神話における記述の一部は事実と異なることも示されている。
創造の女神が存在する以前よりこの世界は、この星は、この宇宙に存在していた。その頃の人類は圧倒的な科学力を持ちながらも自らの手で世界を滅ぼしてしまい、後に作られた人類が今また新しく一から歴史を刻んでいるのが今のフローミア・フェーディアーダだという。
ある学者は、この世界の歴史は常に収斂進化を辿る流れの一部ではないかと唱えた。
まったく種類の違う生物でも似たような環境で生活すると同じような働きをする器官を持つ。それが生物の収斂進化だ。
例えば昆虫の翅と鳥類や蝙蝠の翼。これら種類の違う生物の間で、空を飛ぶための機能を持つ翅や翼は似たような形状である。あるいは魚類とイルカや鮫のひれ、モグラとケラの土をかく足の形なども似たようなものだ。
そのように生物の進化の方向性が環境によって左右されるのであればまた、一度滅びた人類の後に生まれた人類――今の自分たちも、かつての人類と似たような方向に進化し、いずれ似たような運命を辿るというのがその学者の説である。
「まぁ、そうならないように今はいろいろと古代史に関する研究が進んでいるわけだけど」
いきなり途方もない状況に放り込まれたアリストに、ゲルトナーはこの世界の果てのない歴史を大雑把に言い聞かせる。
「人類がどれだけ発展しようと、科学で全てを割り切ることができない連中はいつの時代にもいる」
「その一つが、宗教……?」
長々と神話や世界の収斂性に関して話したのは前振りで、結局ゲルトナーはこれが言いたかったらしい。
「そうだ。別に信仰の全てを否定するわけではないけれどね。睡蓮教団は、現代において最も過激な宗教団体だ」
いくら世界が収斂性を持って進化するとはいえ、その時々の発明――否、発見に対し、全て同じ名がつくとは限らない。
かつての人類が心の拠り所とした宗教は、彼らの滅びと共にそういうものが存在したというデータだけを残して本質は喪われた。
滅びたそれらの人類に代わり台頭してきた新たな人類、遡れるまで古くから第一人類、第二人類と番号を振り、今は第四人類あたりだという。その第四人類にとっての神は、多神教である『フローミア・フェーディアーダ』の神々なのである。
「この神々だが、ぶっちゃけると実在する」
「はい?」
いきなり何を言い出すのかとアリストが目をぱちぱちとさせる正面で、ゲルトナーは大真面目に告げた。
「そもそもこの神話自体が、神々によって半ば操作されて創られた神話なんだよ。――古い世界の人類が圧倒的な科学力を有していたことは知っているね。そして彼らは、自分たちをベースにして色々と弄ることで、基本的な外見・構造こそ同じだがその機能において製作者を遥かに凌駕する新人類を作りだすことができた」
「その新人類……かつての人間より能力的に優れたレプリカに、『神』の名を与えたと?」
「その通り」
さすがに優秀だねぇ、と褒められてもアリストは嬉しくない。今でこそ体が若返るという非現実な事態に陥っているのでゲルトナーの語るとんでも話を素直に耳にいれることができるが、そうでなかったらとても信じられないことに違いない。
「……で、現実に『神』が存在すると何か不都合があるのか?」
「大有りさ。さっきの神話から更に後の時代になるけれど、黒い流れ星の話は知っているかな?」
「ああ。『ある日世界中に無数の黒い流れ星が堕ち、そこからこの世界に魔物が生まれるようになった』って奴だろ?」
“創造の魔術師”の逸話程ではないが、これも有名な話だった。神話というよりもお伽噺や伝説の類として伝えられている話だ。
今から遡ること千年程前までは、この世界に実際に無数の魔物がいたらしい。そして勇者と呼ばれる人々が魔物を倒して世界の平和を勝ち取った。
剣と魔法の時代であるその頃は、魔物との激しい戦いのため詳細を語る資料がほとんど残されていないという。魔法という技術ですら実在を疑問視する人間がいる今の時代では、その頃の伝説もまた実際の戦争などを比喩的に表現しただけのものではないかと考えられている。
「その黒い流れ星の話もまた、事実だ」
「……って、ちょっと待て」
さすがにある日空から降ってきたお星さまのせいで人や動物が狂い始めて魔物になってしまった。などということを肯定するのは憚られる。
「流れ星の正体は、実は神話に登場する悪神こと“背徳と快楽の神グラスヴェリア”なんだ」
「何?」
話の一番始まりに聞かされた神話が、ここでようやく繋がった。
「創造の魔術師こと辰砂と協力して兄妹である神々に反逆し始めた頃から、背徳神グラスヴェリアはもはや正気とは言い難かった。それがついに爆発して暴走したのがその流れ星の事件」
まるで現実とは思えないお伽噺を語るゲルトナーの表情は、しかし臨場感をもたせる演技だとは思えない程に深く沈んでいる。
「狂気に堕ち世界を滅ぼそうとした背徳神を止めるために、彼の使徒である辰砂はその身ごと神の身を千々に引き裂いた。暴走した神の力は大きすぎて、とても倒せるようなものではなかったから、せめて後の世に勇者と呼ばれる人たちで対抗できるようにしたんだ」
一人の強大で凶悪な魔王を倒すよりも、無数の凶暴な魔物と戦う。
それが、辰砂の選んだ救世の方法だったという。
「その身ごとって言うことは、辰砂もその時身を引き裂かれて流れ星になってしまったってこと? というか創造の魔術師・辰砂って背徳神のことなんだろ? なんで使徒が自分の神を引き裂くんだよ」
「さてね……どうしてだと思う?」
疑問に質問で返されるが、アリストには到底その答がわかりそうになかった。
「その疑問はたぶん……辰砂のように、背徳神の使徒でなければ理解できないことなんだ」
「背徳神の、使徒」
「そう――すなわち」
「睡蓮教団だ」
これまでその場に同席してはいたものの、ずっと黙りっぱなしだったヴァイスが口を挟む。
「睡蓮教団の崇める神は背徳神グラスヴェリアであり、彼の使徒である創造の魔術師・辰砂。教団の目的は、背徳神の復活だ」
「神の復活……?!」
いきなりファンタジーじみてきた。いくら真面目な口調で言われてもさすがに突拍子もない話すぎて、アリストは感情的な理解が追い付かない。
「そんなことできるのか? っていうか、なんでそんなことしたいんだよ!」
「私が知るか。宗教というのがそういうものなんだろ」
あっけらかんとヴァイスが言うので、アリストはがっくり肩を落とした。
「ヴァイス、お前なぁ――」
「アリスト君、こいつの言うことはね」
適当なことを言っているようなヴァイスの様子に食って掛かろうとしたアリストを、存外真面目な表情のゲルトナーが止める。
「行為の動機なんて、所詮当人にしかわからないってことだよ。例えばある人間がある人間を、自分を馬鹿にしたからと思い込んで殺したとする。被害者がそんなことをした事実が証明されずとも、加害者がそう思い込めば相手を殺してしまう。それと同じことだ」
「――」
アリストは言葉を失った。
それが事実や真実であるかなど関係ない。
当人が信じて行動すれば、それはすでに動機として存在しているのだ。
そして宗教団体「睡蓮教団」というのは、背徳神を信じ、彼の復活を信じて行動する団体なのだ。
「だから……」
「時間を奪う魔術、な。そんなもの奪って、どうすると言うんだか」
呆れた口調のヴァイスの声に、白と赤の面影が重なる。
白兎と赤騎士。彼らはあまりにも淡々と、まるで何かの作業をこなすかのようにアリストに危害を加えた。
狂信というにはあまりに理性的。
けれど彼らも、睡蓮教団の一員だという。
――何か大きなものが蠢いている。
「時を巻き戻す? いや、でもねぇ……」
ゲルトナーも眉間に皺を寄せる。教団の目的自体は知っていても、具体的な方策はヴァイスにもゲルトナーにもわからないらしい。
「とにかく彼らは彼らの神の復活のために、あらゆる事件を引き起こしたり、裏社会で暗躍したりしている」
アリストはそれに巻き込まれたのだ。
「そんなことの……ために!」
「……彼らにとっては、何より大事なことなんだろう」
「でも!」
「君の立場から言えばその怒りは当然だ。でも忘れないでくれ――それらの事件を引き起こしたのは全て現実に生きている人間、睡蓮教団であり、背徳神の意志とは言えない」
「どうせ、胡散臭い神のお告げとかそういうやつじゃないのか?」
使い古された言い回しを持ちだして睨み付けるアリストに、ゲルトナーは苦笑する。
「そういうことをするのも、大概は人間だ。その人間にいいように口実にされている神を憎んでも仕方がないよ。忘れないで――」
敵は神でも、ましてやあの日あの時白兎に遭遇してしまった運命などではない。
「人間の敵は、いつだって同じ人間だ」
ゲルトナーの言葉の後を引き取るように、ヴァイスがぽつりと呟いた。
「……ならなんで、ここに俺を連れて来たんだ?」
「戦う相手は人間だが、その前提にあるものを知っていなければ話にならないだろ?」
肩を竦めるヴァイスから視線を外し、アリストは今度はゲルトナーを見つめた。
「……あんたは一体、何者だ?」
ヴァイスに合わせたわけではないだろうが、ゲルトナーも同じように肩を竦めてみせる。
フュンフ=ゲルトナーは神話学の第一人者。
でも、本当にそれだけか。
彼はまるで懐かしい知人のことを語るような目で、神と創造の魔術師のことを語った。
「ただの学者で魔術師だよ。ちょっと人より神話に詳しい、ね。それよりヴァイスのことは聞かなくていいの?」
「……それも後で聞く」
知り合いの探偵とやらと合流した際には、ヴァイスも自分のことを話すと約束している。
ひとまずここでアリストが知ったことは、自分が想像以上にわけのわからない面倒な問題に巻き込まれてしまったということだ。
時計を見てそろそろ会議の時間だとゲルトナーが呟く。
いつの間にか、最初にこの部屋を訪れた時から一時間程度経過していた。
「じゃあ、大サービスを一つ。今後の参考になるヒントをあげよう」
最後にゲルトナーが指を一本立て、意味深に笑いながら告げた。
「背徳神と辰砂はその身と魂を千々に引き裂かれて無数の欠片として世界中に落ちた。ではその流れ星はどうなったと思う?」
「どうって……そこから魔物が発生したんだろ?」
「残りは?」
「え?」
「無数の流れ星は神と魔術師の魂の欠片。その全てが魔物に変化したと思うかい?」
「まさか……」
これまで考えてもみなかったことを示されて、アリストは目を瞠る。
「背徳神も辰砂も、その欠片はまだこの地上に残っている。そして睡蓮教団が神の復活を願う以上、彼らは背徳神の魂の欠片を追う」
「じゃあ同じように追って行けば、いずれ奴らの手がかりが……!」
一筋の希望が見えてきた。と、同時にアリストは気付く。
「……って、“魂の欠片”なんてそんなもん、どうやって探すんだよ!」
「それはまぁおいおい考えてくれ。僕たちも苦労しているんだよ」
本気で苦労が滲む溜息をつくゲルトナーに、アリストは思わず先程と同じ問いを投げかけていた。
「あんたは一体、何者なんだ?」
今度は誤魔化されなかった。まだ隠し事の匂いを秘めながらも、ゲルトナーは彼自身の僅かな秘密を打ち明けるようにまた笑う。
「創造の魔術師・辰砂の魂を集める者だよ」