第1章 月夜の時盗人
2.チェシャ猫の道標 008
アリストはヴァイスと並んで通いなれた校舎の中を歩く。よく知った環境のはずなのに自分自身の目線が低いせいで違和感を覚えながら。
「フュンフ=ゲルトナーの説明はどうだった」
「参考にはなったよ。まだわからないことの方が多いけどね」
ヴァイスが今後にしてきたばかりの研究室を振り返りながら、その感想をアリストに聞く。
神を信じたことのないアリストには、睡蓮教団が背徳神にかける想いなどわからない。けれどアリストが信じるか否かなどまったく関係なく、背徳神を崇めるという名目でとてつもない犯罪が今もまさに行われているのかも知れないのだ。
「そう言えば睡蓮教団って、背徳神とその使徒辰砂を崇めるんだろ? なのに集めるのは神の欠片のみなのか?」
教団が集める魂の欠片について、ゲルトナーは背徳神のものしか言及しなかった。しかしそのゲルトナー自身は、自らを辰砂の魂を集める者だと言った。
「ゲルトナーが話したことは、業界でも知る者の少ないかなり詳細な裏事情だ。大抵の睡蓮教団員は辰砂のことをなんか凄い魔術師らしい程度にしか思っていないからな。そして辰砂についてよく知る者ならば、今の睡蓮教団の在り方に辰砂が反発することもわかりきっている」
業界ってどこだよと思いつつ、アリストはそれ以上に気になったことを確認する。
「辰砂が反発する? まるで辰砂が今も生きているかのような言い方だ」
そこで何故かヴァイスはにやりと笑った。
「ほう、いい勘だな。アリスト=レーヌ」
「え?」
かつて“創造の魔術師”と呼ばれた辰砂は、破壊神に打倒されたと神話で伝えられた後も世界のあちこち、様々な時代に出没していたらしい。
けれどゲルトナーの話によれば、それも黒い流れ星の神話の頃までだ。辰砂は自らの身ごと背徳神の魂を砕いたという。ならばその時辰砂もまた死んだのではないか?
しかしそれにしては、ゲルトナーの発言もヴァイスの笑いもあまりにも意味深だ。
更に問い詰めようとしたところで、二人は前方からやってくる人の気配に気づいて口を噤んだ。
「あ……」
思わず声が漏れたのは、向こうからやってくる集団がどれも見覚えのある顔だったからだ。こちらに気づいた彼らも声をかけてくる。アリストではなく、その隣のヴァイスに。
「あ、ヴァイスせんせー」
「おはよーございまーす!」
「おう、お前らか。どうした?」
「ちょっと用事で……」
高等部二年生の男女が四人。フート=マルティウス、レント=ターイル、ムース=シュラーフェン、ギネカ=マギラス。
アリストと特に親しい友人たちだ。
四月二日の今日はまだ春休み中で授業はないが、一応学校に来るからか、四人共制服を着用している。外部の受講者も多いジグラード学院では、内部の中等部生や高等部生はわかりやすく制服を着ていた方が何かと都合がいいのだ。
「そういえばヴァイス先生、アリストの奴のことなんですけど」
うさ耳フードを被ってできるだけ顔を隠そうとアリストがこそこそしているうちに、フートが四人を代表して口を開いた。その内容にどきりとする。
「アリストが帰ってないって、昨日ダイナ先生から夜遅くに電話があったんですけど、あいつ結局どうしてるか知ってます?」
フートは眉を潜めた。他の三人も心なしか不安げな顔つきになる。
アリストが帰って来なかったことについて、ダイナはやはり何かあったのではないかと考え、友人たちに連絡をとってくれたのだ。
それだけ姉に、友人たちに心配されていたということに胸が熱く、そして苦しくなる。
アリストはここにいる。でもそれを言えるはずがない。こんなに近くにいるのに、彼らは誰もアリストに気づかないのだ。
「あー、アリスト? アリストな……」
「何か知っているんですね!」
気さくで気楽な男子陣とは違い、女子二人はもう少し真面目な態度でヴァイスから話を聞き出そうとする。
ヴァイスは明後日の方を向きながら、昨夜電話でダイナにも話したのと同じ言い訳を告げた。
「あいつは今、都の外に出ている」
「エメラルドの外って、なんでまた」
ディアマンディ帝国の都エメラルドは、この大陸どころか世界中で比べても最も発達した都市だ。古くより世界の東西の航路を結ぶ交易の要であったことにより、この都で手に入らない物は何一つないと言われている。
帝都エメラルドに訪れたい人間は山程いるだろうが、帝都で生まれ育ってこの都市から離れたいという人間は珍しい。
「なんでも街を歩いていたらたまたま泥棒に出くわしたらしくてな。それで、大事なものを盗まれたとかいうことで激怒して追いかけている」
「はぁ……それはまた」
どういう言い訳だよ、とアリストが思う間もなく。
「アリストらしいですね」
納得された。フートだけでなくレントもムースもうんうんと頷いている。
ちなみにヴァイスが電話でダイナに告げた時もこの対応だった。声は出さないまでもスピーカー越しに二人の会話を聞いていたアリストはがっくりしたものだ。
そんな姉の弟評と、友人によるアリスト評はどうやら一致しているらしい。
「どんな泥棒なんですか?」
「さぁな。私はアリストに電話越しに八つ当たり気味の報告を受けただけだから詳細は知らん」
「なるほど。あのシスコンは大事な姉さんに怒声を聞かせたくなかったから隣人のヴァイス先生をワンクッションに使ったと」
「アリストのやりそうなことだよ」
「でも良かったじゃないですか。無事みたいで」
だからお前らは俺をどう思っているんだよ、と憮然としているアリストの前に、ひょっこりと綺麗な顔が現れた。
「!」
「ヴァイス先生、さっきから気になっていたんですけど、この子は?」
幼子に合わせて腰を屈め視線を合わせたのはギネカ=マギラス。アリストと同じ学年の中では、女子で一番の成績優秀者だ。
ちなみにジグラード学院高等部二年の成績は、男女総合だと学年一位がフート=マルティウス、二位がアリスト=レーヌ、三位が彼女、ギネカ=マギラスという順位になる。
他の三人がアリストのことをヴァイスに聞いていた時も、彼女だけはちらちらとこちらを気にしているようだった。
無視されないのは嬉しいが、注目されるのは今は少しまずい。
そっと伸ばされた手を避けるように、アリストは慌ててヴァイスの脚の裏に隠れた。ギネカが驚いた顔になる。
「ああ、こいつは今私のところで預かっている子どもだ。ちょっとワケアリでな。親権問題に決着がつくまではこっちにいることになる」
暗に背景事情を聞くなと匂わせる言葉選びをして、ヴァイスはさりげなくアリストの姿を学生たちの前から隠した。
しかし好奇心旺盛な高等部生にそんな画策が通用するはずもない。一人が話しかければそろって面白そうにフードを被ったアリストの顔を覗き込んでくる。
「可愛いですね。女の子? あ、いや、ズボン穿いてるし男の子かな?」
子ども好きのフートがにこにこと話しかけてくる。彼の幼馴染であり清楚な美少女であるムースも、積極的な手出しこそしないが口元に微笑みを浮かべていた。レントはにやにやとそのやりとりを見守っている。
一方、ムースとは反対にきつめの真面目そうな顔立ちをした美少女であるところのギネカは、そつのない身のこなしをする常の彼女らしくもなく、その顔に不審を乗せていた。
「どうしたんだよギネカ。ってかその手は何」
「……っ! ああ、別に、なんでもないの」
アリストに触れようとして直前で躱された手を後ろに引っ込めて、ギネカは子どもの顔から視線を離さないままで尋ねる。
「その子、アリストにそっくりですね」
ヴァイスの動揺が触れている脚からアリストにまで伝わってきた。見事なポーカーフェイスを浮かべてはいるが、内心では驚いている。
アリストも同じだった。今は姿が姿なので表向きには人見知りの子どもが年上の少年少女たちに怯えているように見えるだろうが、大きな目を更に丸くして驚きを露わにするのは止められない。
単に偶然似たような顔だと感心していると言うには、ギネカの顔にはあからさまな不審が浮かんでいた。
生徒の予想外の鋭さに舌を巻きながら、ヴァイスはそれでも適当な誤魔化しを続行する。
「そうか? よくある顔だろう? ま、可愛げのないあの男に比べたらサイズがミニな分こっちの方が可愛げはあるだろうがな」
「ミニサイズって……先生……」
ヴァイスの言い分にレントが呆れた顔をする。普段のキャラがキャラだけに受け入れられているが、大分苦しい。
そして誤魔化そうとした相手はまだ引き下がってはくれない。
「でも、目元の泣きぼくろの位置までそっくりですよ?」
しまった。そう言えばそんなものもあった、とアリストとヴァイスは一瞬目配せを交わし合う。
彼ら自身はアリストが若返ったという認識でいるため特別視していなかった身体的特徴だが、まったくの別人で同じ特徴だと説明されれば確かに違和感があるかもしれない。
だからと言ってこの場で全部ぶっちゃけるわけにもいかず、やはりヴァイスは誤魔化しを頑張った。
「マギラス、その発言は少し紛らわしいぞ。目元にあるからこそ泣きぼくろと言うんだ。泣きぼくろが目元にあるのは当たり前だ。それに目元のほくろなんてある程度決まった位置にあるものじゃないか?」
だからこそ泣きぼくろという言葉があるんだし。
「先生、何泣きぼくろについて熱く語っているんですか……」
「先生ってもしかしてほくろフェチ?」
「まぁ、ヴァイス先生のことだから……」
「どういう意味だ貴様ら」
アリストが泥棒を全力で追いかけると納得されているように、ヴァイスという人物も泣きぼくろについて熱く語ると納得されるらしい。
「そうですね。でも……」
「まだ何かあるのか?」
「いえ、一つだけ。――その子の名前は?」
アリストはぎくりとした。
まずい。
知り合いに会う予定も計画もなかったため、偽名なんて考える必要性を感じなかった。かといってそんなものすぐに思いつくはずもなく――。
「ああ、名前か。名前な。あー、と、今は言えない」
「今は?」
「ほら、これから苗字が変わったりするかも知れないだろう?」
ヴァイスは先程の親権云々の嘘を膨らませて、アリストの素性をそういうものにしたらしい。
「それは……失礼しました」
ギネカもさすがにまずいと思ったのか、今度こそ食い下がらずに引く。やりとりをじっと見守っていたアリストはそっと息を吐いた。
僅かな動きに合わせてぴょこりと揺れるうさ耳が絶妙に間抜けな感じである。フートたち三人がそれを微笑ましげに見守った。
「そろそろ行かなきゃ」
「では、俺たちはこれで失礼します」
挨拶をして別れる彼らをヴァイスとアリストは見送る。
去り際に一瞬、ギネカがアリストの方を振り返った。
◆◆◆◆◆
「……マギラスは鋭すぎるだろう。あれは完全に疑っていた顔だったな」
「本当に」
「だが、どうしてあんな簡単に疑われたんだ? 別に私たちは不審な行動をとったわけではないのに」
「……と、思うけど」
アリストがいないと騒がれた翌日に、よく似た顔の子どもが現れる。確かに不審ではあるが、まさか二人が同一人物であると普通は気づくはずもない。
「単に“アリスト”の身内かどうか疑われてたってだけじゃねーの?」
「だったら良いがな……」
隠し子ならぬ隠し弟がいたのかと、そういう疑惑をかけられただけかもしれない。ヴァイスの子どもというには、疑う云々以前に顔が似ていなさすぎる。
ギネカの行動について、アリストはそれ以外にも一つ気にかかることがあった。目の前に伸ばされ触れられそうになったあの手だ。
アリストの知るギネカ=マギラスという少女は、普段は極力他人との接触を避けている。一番親しい仲間内でさえ、ふざけて抱きついたり手や肩に触れることさえ滅多にない。
そのギネカが、自分から見知らぬ子どもに触れようとするなど珍しい。
ヴァイスに話してもピンとこなかったようで、彼は首を傾げてみせる。
「さぁ? 私もさすがに生徒のそんな細かいところまで観察していないからな」
生徒同士ならまだしも、生徒が教師にべたべたと接触することはありえない。男女なので尚更、下手するとヴァイスがセクハラで訴えられる可能性もあるし。
「単にお前が小さな子どもの姿をしているから、頭でも撫でようと思っただけではないか?」
「そうかなぁ」
アリストの疑問をヴァイスは軽く流した。どちらにせよあの時のギネカの心境など、当人ではない彼らにわかるはずもない。
校舎を出て正門へと向かった。
そこで、小さな人影と出会った。
小さな、と言っても今のアリストとは正直同じくらいの大きさだ。今年ようやく小等部に上がるだろう年頃の子どもが二人、人待ち顔で立っている。
少年が一人に少女が一人。そのうち青い髪の少年の方がヴァイスを見上げて口を開いた。
「……ヴァイス=ルイツァーリ先生?」
語尾が上がり半分疑問形になりながらも、少年はヴァイスを知っていたのか、その名を呼ぶ。
「ああ。私がルイツァーリだが。君たちは小等部の生徒か?」
「ええ。三日後に小等部一年生として入学式に並びます、テラス=モンストルムとフォリー=トゥレラです」
随分としっかりした子だな、とアリストは思った。
隣に立つ少女の分まで自己紹介してみせたテラスという少年の口調は子どもにしては慇懃で、とても今度小等部に上がる幼児とは思えない。もっと大人を相手にしているかのようだ。
「あなたも……今度僕たちと一緒に小等部に通うことになるのかな?」
「え?」
「その時はぜひ、よろしくね」
テラスはアリストに名を聞くでもなく、それだけ言ってにっこりと愛想よく笑った。
一見無邪気な子どもの笑顔なのだが、アリストにはどうもただそれだけとは思えない。この子は謎めいた匂いがする。直観的にそう感じた。
「小等部ならまだ学院内の勝手もわからないだろう。保護者はどうした」
普段小等部生を相手にすることはないヴァイスだが、腐ってもジグラード学院の講師である。子ども二人だけで暇を持て余す様子のテラスたちに保護者の不在について尋ねた。
「僕の父が受付を済ませてもうすぐ来ますよ。今日はこれから通うことになる学校を見学に来ただけなんです」
「そうか。春休みとはいえこの学院内は人が多いから気をつけなさい」
「はい」
テラスが頷いたのを合図に、ヴァイスとアリストは彼らを置いて門から離れた。
「なんか、不思議な子たちだったな」
「……ああ」
見かけに見合わず大人びた雰囲気を見せる少年と、一言も喋らなかったのに独特の存在感を放っていた少女。
「お前が三日で元に戻れなかったとしたら、あの二人が同級生になりそうだな」
「げ」
その未来は近いうちに現実になる。
◆◆◆◆◆
ジグラード学院の大きな正門前。幼馴染の少女と共に父親を待って佇む少年は小さく声を発する。
今さっき会話を交わした二人組について、少女に語りかけた。
「ほら、あれが有名な“白騎士”と、その“アリス”になる予定の『お兄ちゃん』だよ」
アリスト=レーヌ。
確かそう言う名前だったと少年は呟く。
今はまるで彼らと同い年の子どもに見えるが、本来は今年十七歳になるはずの少年だ。
フォリーは興味の欠片もないという様子で、すぐに二人の後ろ姿から視線を外した。誰が白騎士で誰がアリスだろうと、彼女には関係ない。世界の終わるその日まで目を逸らし口を噤み続ける。
ふいに風が吹いて、二人のすぐ傍に生えている桜の樹の花を散らしていった。